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【エピローグサイドストーリー】れいか編:陽だまりの記憶と、夜明けの約束

 

『再創生の儀』から一年が過ぎ、王都にはすっかり穏やかな日々が戻っていた。

 貴弘が建てた湖畔の家は、いつも家族の笑い声に満ちている。


 その日も、穏やかな春の昼下がりだった。

 湖面を渡る風が、庭先の樫の葉を優しく揺らし、木漏れ日がきらきらと地面に踊っている。


 その木陰で、8歳になったれいかは、大きなスケッチブックに夢中で絵を描いていた。隣では、ゼロがその真似をするように、小さな石板に木炭で何かを描こうと奮闘している。

「うーん…ゼロ、おめめは、もっと、まんまるだよ?」

「……まる」

 ゼロは、れいかの言葉にこくりと頷くと、ぎこちない手つきで、石板に歪んだ円を描き加えた。その真剣な横顔は、一年前の、感情を持たない人形のようだった頃とは比べ物にならないほど、豊かになっていた。


 れいかが描いているのは、この湖畔の家だった。だが、そこにいるのは貴弘やれいか、ゼロだけではない。大きな剣を抱えて豪快に笑うボルク。聖剣を傍らに置き、穏やかに茶を飲むギデオン。杖を片手にエリアナとライレンが寄り添って微笑み、少し離れた場所ではフィオラが何やら奇妙な機械で湖の水を調査している。

 描かれているのは、彼女が愛する、全ての「家族」だった。


 そこへ、焼きたてのクッキーとハーブティーを盆に乗せた貴弘が、穏やかな笑みを浮かべてやってきた。

「おやつにするか、二人とも」

「パパ!」

 れいかが、クレヨンで汚れた顔を上げて、太陽のように笑う。


 貴弘は、娘の隣に腰を下ろすと、そのスケッチブックを優しく覗き込んだ。

「すごいな、れいか。みんな、楽しそうだ。…ん? これは、ボルクさんか。少し、太りすぎじゃないか?」

「だって、ボルクおじちゃん、いっつも『腹が減った』って言ってるんだもん!」

「はは、それもそうか」

 貴弘は楽しそうに笑うと、娘の頭を優しく撫でた。そして、れいかの絵の、その温かい中心に気づく。絵の中の自分と、れいかと、ゼロ。三人が、しっかりと手を繋いでいた。


「うん!」れいかは、その絵を誇らしげに貴弘に見せながら、満面の笑みで言った。「だって、みんな、わたしの、パパの、大切な『家族』だもん! これはね、みんなの、あしたのおうちだよ!」


 その、あまりにも純粋で、温かい言葉。

 貴弘は、胸の奥が、どうしようもないほどの愛おしさで満たされるのを感じた。

 失ったものは多い。だが、この手で守り抜き、そして新たに築き上げたこの日常こそが、彼の、そして彼らの、最高の宝物だった。

 彼は、娘の頭を、もう一度優しく撫でた。


 ◇


 その夜、れいかの子供部屋は、月の柔らかな光と、暖炉の薪がはぜる穏やかな音に満たされていた。

 貴弘は、ベッドに入った娘の傍らに腰掛け、一冊の、少しだけ古びた絵本を読んで聞かせていた。それは、彼が前の世界から、ポケットに入れて持ち込んでしまった、唯一の思い出の品だった。


「…そして、お姫様と王子様は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい」

 貴弘が、優しい声で本を閉じる。

「パパ、ありがとう」

 れいかは、眠そうに目をこすりながらも、満足そうに微笑んだ。だが、その視線は、窓の外…きらきらと光る湖面に映る月を、じっと見つめていた。


「どうした、れいか。眠れないのか?」

「ううん…」

 れいかは、ぽつりと呟いた。

「ねえ、パパ。わたしね、時々、夢を見るの」

「夢?」

「うん。お姉ちゃんの中にいた時の、ひみつの夢」


 貴弘は、息をのんだ。

 ルークスの魂がれいかの中に統合されてから、彼はその話を決して娘に強いたことはなかった。それは、あの子が自ら語り出すまで、静かに待つべき、聖域なのだと思っていたからだ。


 れいかは、父の温かい腕の中に、小さな頭をこてんと預けた。そして、ずっと胸の中にしまっていた「ひみつ」を、星に語りかけるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「あのね、お姉ちゃんの中にいた時ね、すっごく広くて、あったかい場所にいたんだよ。お星さまがいっぱいの、夜の海みたいだった」

 彼女は、子供らしい、拙い言葉で、魂の記憶を紡いでいく。

「キラキラって音がするの。お星さまが、お話してるみたいに。でもね、最初は、少しだけ寒かった。お姉ちゃん、ずっと一人で、さみしかったんだって。だから…」


 れいかは、少しだけ誇らしげに、顔を上げた。

「わたしがそばにいて、パパの話を、たくさんしてあげたの! ギルドの井戸をドーン!って直した話とか、悪い石のオバケ(ゴーレム)を、えーい!ってやっつけた話とか!」

 彼女が語るのは、この世界に来てからの、貴弘の不器用で、しかし、娘にとっては最高の英雄譚だった。


「そしたらね、お姉ちゃん、いつも泣きそうな顔で笑ってた。わたしの心が、お姉ちゃんの心を、ぎゅーって、温めてあげてるみたいだった。『ありがとう、わたしの、温かいわたし』って、何度も、何度も、言ってたよ」


 その、あまりにも健気で、あまりにも優しい記憶。

 貴弘は、何も言えなかった。

 胸の奥から、どうしようもないほどの愛おしさと、もう会うことのできないもう一人の娘、ルークスへの切なさが、熱い塊となって込み上げてくる。

 彼は言葉の代わりに、ただ、れいかの小さな体を強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。自分の肩が、わずかに震えていることに、彼自身気づいていなかった。


「そうか…」

 彼は、娘の柔らかな髪に顔をうずめながら、ようやく絞り出すように言った。その声は、自分でも驚くほど、震えていた。

「れいかは、ルークスのことも、ずっと守ってくれていたんだな。…ありがとう、れいか。お前は、パパの、最高の宝物だ」


 その言葉に、れいかは父の腕の中で、世界で一番安心しきった顔で、こくりと頷いた。

 彼女の小さな体が、ふわりと温かくなる。今日の「ひみつ」のお話で、胸につかえていた最後の寂しさが、完全に溶けていったのだろう。

 彼女は、眠りに落ちる寸前の、夢現のような声で、最後の「ひみつ」を囁いた。


「うん…。お姉ちゃんね、『お父様の話が、わたしの、くらくてさむいお部屋の、さいごの光だった』って…。だからね、パパ。わたし、もう、さみしくないよ…」


 その言葉を最後に、れいかは父の腕の中で、すう、と穏やかな寝息を立て始めた。

 全ての想いを語り終え、安心しきった、子供の無垢な寝顔だった。


 貴弘は、その寝顔を、ただ、いつまでも見つめていた。

 この小さな胸の中に、二つの、かけがえのない魂が寄り添うように眠っている。その奇跡の重さを、彼は改めてその腕に感じていた。

(…ルークス。お前はずっと、そこにいたのか。俺の話を、聞いていてくれたのか)

(すまなかったな。寂しい思いをさせて。…いや、違うか。れいかが、お前を一人にはしなかったんだな)


 彼は、そっとれいかをベッドに寝かせ、その額に優しく口づけを落とした。

 窓の外では、月が湖面を静かに照らしている。

 その光を見つめながら、彼は静かに、しかし力強く心の中で誓った。


(待っていてくれ、ルークス。そして、ありがとう、れいか)

(パパが、必ず、お前たち二人を、本当の意味で笑わせてやる。…それが、俺の、残りの人生の、全ての『仕事』だ)


 彼は、静かに部屋の扉を閉じた。


 ◇


 れいかの意識は、陽だまりの心地よさの中へと沈んでいる。


 次に目を開けた時、彼女は、あの場所にいた。

 彼女が父に語った通りの「星々の夜の海」。絶対的な静寂と、どこまでも優しい光に満ちた、魂の故郷。

 足元には水面のようなものが広がっているが、濡れることはない。一歩踏み出すたびに、星屑がきらきらと波紋を描いて広がる。遠くで、銀の鈴が鳴るような、心地よい音が響いていた。


 そして、その中心に、彼女は立っていた。

 聖女ルークスが、あの決戦の時の、神々しい白銀の翼を広げ、穏やかに微笑んで。


「お姉ちゃん!」


 れいかが、その名を叫び、光の波紋を蹴って駆け寄る。ルークスは、その小さな体を、翼で包み込むように優しく抱きしめた。

「ええ、れいか。会いたかったですよ」

「わたしも! わたしも、会いたかった!」

 二つの、同じでありながら違う魂が、再会を喜び合う。それは、涙が出るほど温かい光景だった。


 ルークスは、れいかの手を引き、星の海辺に二人で腰を下ろした。

「よく頑張りましたね。お父様を、みんなを、あなたのその優しさで、ちゃんと支えてあげていますね」

「ううん」れいかは、小さく首を振った。「わたしだけじゃないよ。お姉ちゃんも、ずっと一緒にいてくれたもん」

 その言葉に、ルークスは愛おしそうに目を細めた。そして、れいかに、自分がなぜ「個」の形を保てなくなったのか、その真実を優しく語り始める。


「見て、れいか」

 ルークスが、目の前の星の海にそっと手を触れる。すると、水面がスクリーンのように、一つの光景を映し出した。

 そこにいたのは、若い頃の、まだ知らないはずの父・貴弘と、太陽のように笑う母・梨花だった。二人の魂は、強い金の光のアンカーで、固く結ばれている。

「わたくしの魂は、あなたという光と、そしてお父様が愛した、この『梨花様』という女性の記憶を錨として、この世界に繋ぎ止められていました。この錨があったからこそ、わたくしは『聖女ルークス』という個の形を保てたのです」


 だが、次の瞬間。光景が変わる。

 決戦の日の、あの壮絶な戦い。父が、涙を流しながら、自らの手でその金の錨を、光の中へと手放していく。

「ですが、お父様はその錨を、その愛を、星を食らうものに注入してしまった。錨を失ったわたくしは、もう『聖女ルークス』という形を保てなくなったのです」


「……パパ…」れいかの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「…あの時、パパ、泣いてたんだね…」

 その小さな悲しみに、ルークスは優しく微笑み、彼女の涙をそっと拭った。

「でも、悲しまないで、れいか。あのお父様の決断があったからこそ、あなたは今、ここにいるのですから。わたくしにとっては、それが何よりの喜びですのよ」


 彼女は、れいかの涙をそっと拭うと、希望に満ちた声で続ける。

「れいか。お父様は、錨を完全に失ったわけではないの。彼は、今、新しい錨を、この世界で創り続けている…」


 ルークスが、星の海にそっと手をかざす。すると、これまであった星々とは別に、新しくひときわ温かい光を放つ星が、いくつも生まれていくのが見えた。

 湖畔の家でみんなで笑った日の記憶。ゼロが初めてお肉を美味しいと言った日の記憶。ボルクとギデオンが、肩を組んで酒を飲んでいた日の記憶。

「わたくしたち『家族』との、温かい記憶。その一つ一つが、新しい星座となって、お父様の心を、そしてこの世界を、繋ぎとめてくれているの。…そして、見て」


 彼女が指さす先。星の海に、エリアナとライレンの姿が、未来の幻影として映し出される。二人は、まだ少しだけ距離があるが、互いを想う温かい光で、その魂が確かに結ばれていた。


「あの二人の魂はね、光と影のように、互いを求め、支え合っている。まだ、本人たちも気づいていない、か細い絆。でも、それはやがて、この世界のどんなものよりも強い、壊れることのない誓いになるの」

 ルークスの声は、どこまでも優しい預言者のようだった。

「あの二人の未来の誓いは、この世界で最も強い、新しい『因果の錨』になるの。愛し合う二人が未来を誓う、その瞬間に生まれる希望の光。その光があれば、きっと…わたくし、もう一度だけ、みんなに会いに行けるかもしれない」


 その、あまりにも優しく、あまりにも幸せな未来の可能性。れいかの瞳が、これ以上ないほどキラキラと輝いた。


 そして、ルークスは、れいかの目を見て、最後の約束を交わした。

「わたくしはもう、この世界に長くは留まれない。でも、最後に一度だけ、みんなの笑顔が見たい。あなたのお父様の、そして、あの不器用な二人の、最高の笑顔を」

 彼女は、少しだけ寂しそうに、それでも心の底から嬉しそうに微笑んだ。

「だから、れいか。次はお姉ちゃんが、あなたの、そして、あなたの大切な人たちの幸せな未来を、祝福しに行ってもいいかしら?」


「うん!」

 れいかは、涙を流しながら、満面の笑みで、何度も、何度も頷いた。

「うん! 約束だよ、お姉ちゃん! 絶対、絶対だよ!」


「ええ。約束ですわ」


 ルークスは、満足そうに微笑むと、その体がゆっくりと光の粒子となって、星々の海へと溶け始めていく。

「ありがとう、れいか。また、夜明けに会いましょう」

 その最後の言葉と共に、彼女の姿は完全に光の中へと消えていった。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、れいかの胸の中に灯った、決して消えることのない、温かい希望の光だけだった。



 ◇


 翌朝。

 小鳥のさえずりが、新しい一日の始まりを告げていた。

 れいかは、これまでで一番晴れやかな顔で目を覚ました。夢の中で交わした、温かい約束。その余韻が、まだ魂を満たしている。彼女はベッドから飛び起きると、パタパタと小さな足音を立ててリビングへと駆け出した。


 リビングでは、貴弘がキッチンの窓から差し込む朝日を浴びながら、朝食の準備をしていた。パンが焼ける香ばしい匂いと、スープの優しい湯気。彼が守り抜いた、かけがえのない日常の風景。


「パパ!」


 その背中に、れいかは小さな体を全部使って、力いっぱい抱きついた。


「おわっ!?」貴弘は驚いて振り返るが、その顔はすぐに優しい父親のそれに変わる。「どうした、れいか。おはよう。そんなに慌てて」

「パパ、おはよう!」

 れいかは、父の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。その瞳は、最高の秘密を胸に抱いた子供のように、キラキラと輝いていた。

「あのね、わたし、きのう、お姉ちゃんと、約束したんだ!」


「…約束?」

「うん!」

 彼女は、その約束の詳しい内容までは話さない。それは、彼女と、彼女の中にいるもう一人の彼女だけの、大切な、大切な宝物だからだ。

「すっごく、すてきな約束なの! だからね、パパ! これからも、エリアナお姉ちゃんや、ライレンお兄ちゃんと、ずーっと、ずーっと、仲良くしてあげてね!」


 その、あまりにも純粋で、しかしどこか全てを見通しているかのような娘の言葉。

 貴弘は、何が起きたのかは正確には分からない。だが、娘のその心の底からの笑顔を見て、全てを察した。

 彼の心の中に、最後の棘のように残っていた、ルークスを失ったことへの静かな痛み。その棘が、この子の太陽のような笑顔によって、完全に癒やされ、溶けていくのを感じた。


 彼は、何も言わずにしゃがみこむと、娘の体を優しく抱きしめ返した。

「…ああ。分かった。約束だ」


 窓から差し込む朝の光が、父と娘の、そしてその心の中にいるもう一人の娘の、新しい始まりを、どこまでも優しく照らしていた。

 れいかは、父の腕の中で、夢の中で聞いた、どこか懐かしい、古の聖女の歌を、小さな声でハミングしていた。

 そのメロディは、やがて来る、最高の祝言の日を祝福するかのようだった。

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