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【エピローグサイドストーリー】ライレン編:影の贖罪と、夜明けの光


 『再創生の儀』から三ヶ月。王都の夜は、まだ静かだ。

 俺は、再建された亜人街を見下ろせる、古い教会の屋根の上が定位置になっていた。ここからなら、街の光も、その影も、全てが見える。


(…静かだ)


 眼下に広がるのは、まだぎこちないながらも、確かに生まれつつある新しい日常の風景だった。

 獣人の子供が、人間の子供からパンを分けてもらい、おずおずとその小さな口で頬張っている。かつての『紅角兵団』の同胞が、今は用心棒として人間の老婆が営む小さな酒場を守っていた。

 その光景に、俺はこれまで感じたことのない「穏やかさ」と、同時に激しい「違和感」を覚えていた。俺のような、血塗られた影が、こんな陽だまりのような光景を守っているとはな…。歪んだ冗談ジョークだ。


 その、脆い平和を揺るがす不協和音が、ふと俺の耳に届いた。

 路地の影。亜人街で薬草を売る、猫の耳を生やした行商の娘を、三人の、酒に酔った人間の若者たちが囲んでいた。

「なんだよ、ケモノ風情が! 最近、お前らずいぶんデカい顔してるじゃねえか!」

「兄さん、やめなよ…」「うるせえ! 俺たちの街だぞ!」

 下卑た笑い声。娘は怯え、その大きな瞳に涙を浮かべている。


 俺は、ため息を一つつくと、音もなく、屋根の縁から飛び降りた。

 影から影へと渡り、若者たちの、まさにその背後の闇に、亡霊のように降り立つ。


「……その『街』は、あんたたちだけのものだったか?」


 地の底から響くような、静かで、どこまでも冷たい声。

 若者たちが、ぎょっとして振り返る。そこにいたのは、闇そのものをまとったかのような、一人のダークエルフ。その闇色の瞳には、何の感情も宿っていない。ただ、絶対的な捕食者の光だけがあった。

「ひっ…!」「て、てめえは…『紅角』の…!」

「俺の名が、何か関係あるか。…それとも、この娘の代わりに、俺が相手をしてやろうか?」

 俺は、腰の短剣に、そっと手をかける。

 若者たちは、顔を真っ青にすると、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。


 後に残されたのは、静寂と、怯えたまま動けない猫耳の娘だけだった。彼女は、俺の顔を恐怖と、そしてほんの少しの感謝が入り混じった目で見上げ、「あ、ありがとう…ございます…」と呟くと、深々と頭を下げて駆け去っていった。


 俺は、その小さな背中を見送ると、再び闇の中へと溶け込んだ。

 殺さなかった。傷つけもしなかった。ただ、そこに在るだけで、脅威を退けた。

(…これが、あの父親おやじのやり方か)

 力でねじ伏せるのではない。相手に「選択」させる。その上で、守るべきものを、静かに守る。

 この、あまりにも脆い平和を創り出したのが、あの父親…貴弘であることを思う。そして、俺の脳裏に、旅の道中の、何でもない光景が蘇る。



(…あれは、確か石化の森へ向かう道中だった)

 生命の営みが完全に停止した、死の大地。食料はとうに尽き、誰もが飢えと絶望に疲弊しきっていた。

 その夜、洞窟の奥で地図を睨んでいた貴弘が、静かに立ち上がった。彼は、懐の奥から、まるで最後の宝物のように、一枚の、ひからびた干し肉を取り出した。彼自身の、最後の一食分。

(…食うのか)

 俺は、そう思った。当然だ。リーダーが倒れれば、全てが終わる。彼の行動は、合理的だ。

 だが、貴弘は、その干し肉を自分の口へは運ばなかった。

 彼は、その最後の一枚を、当たり前のように半分に割ると、眠っているれいかの口元へと、そっと置いてやったのだ。子供が、明日の朝、目を覚ました時に、絶望しないように、と。

 彼は、自分はただ水筒の水を一口だけ飲むと、再び地図の前へと戻っていった。その横顔には、空腹の色も、自己犠牲の悲壮感もない。ただ、仲間たちを次の安全な場所へと導くという、管理者としての静かな責任感だけが浮かんでいた。


 ボルクが、その光景を見て、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

「……馬鹿な、親父だぜ。まったく」


 その言葉が、俺の魂を、内側から激しく揺さぶった。

 あの時、俺は理解できなかった。なぜ、リーダーである彼が、自らの生存を脅かしてまで、見返りも求めず、ただ与えるのか。

 宰相閣下は、俺たちを『有用な駒』として評価し、その対価として食料と居場所を与えた。だが、あの父親は違う。彼の行動原理は、利害や効率ではない。ただ、そこにある、絶対的で無償の「愛」。

 俺が仕えてきた世界の、どの法則にも当てはまらない、異質な力。

(あれが、あの男の強さの根源か…)



 そして、俺の思考は、自然と、もう一つの光へと向かう。

 エリアナ。

 復興作業がまだ始まったばかりの頃だったか。俺が薬草を届けに診療所を訪れると、夜も更けているというのに、彼女はまだ一人で働いていた。待合室の隅で、小さな獣人の子供が苦しそうに咳き込んでいる。

「魔女様…本当に、よろしいのですか…? 私たちには、もうお支払いできるようなお金は…」

「いいんです」

 エリアナの声は、疲労で少しだけかすれていたが、どこまでも優しかった。

「この子が元気になるのが、一番のお礼ですから」

 彼女の小さな手から放たれる温かい治癒の光。俺は、影の中から、ただその光景を見ていた。

 自分の身を削ってまで、見ず知らずの他人を癒やそうとする、その自己犠牲的なまでの優しさ。

 あの光景が、俺の魂に深く刻み込まれた、最悪の記憶を呼び覚ました。


―――雨。血の匂い。そして、俺の刃が、一人の母親の命を奪った、あの夜。

 彼女の最後の言葉が、耳から離れない。

『…あなたにも…いつか、守るべき…『家族』が、できた時…分かるはず…。この、痛みが…』


(俺の手は、命を奪うためだけにある。あいつの手は、命を繋ぐためにある)

(あまりにも、違いすぎる。俺のような、血塗られた影が、あの光の隣に立つ資格など、ない…)


 だから、俺は、彼女の調査に同行した。

 魂を失った少年を前に、彼女が再び過去の悪夢に苛まれているのを、影の中から見ていたからだ。

 これは贖罪なのだと、自分に言い聞かせた。俺のこの汚れた力が、ほんの少しでも、あの光の役に立てるのなら、と。


 深夜の、二人きりの禁書庫。

 一つの古い医学書に、俺たちが同時に手を伸ばした。俺の、冷たい指先が、彼女の、治癒の光で温かい指先に、そっと触れた。

「あ、すみません…」

「…いや」

 俺は、まるで灼熱の鉄にでも触れたかのように、咄嗟に手を引いてしまった。心臓が、これまで経験したことのないほど、激しく音を立てる。

(…触れるな。俺のこの闇が、この穢れが、彼女を汚してしまう)

 あの時の、自分の心の激しい動揺を、彼女は気づいていなかっただろう。


 調査は、完全に行き詰まっていた。

「…ダメです。魂の『構造』に関する記述なんて、どこにも…」

 エリアナが、テーブルに積み上げられた古文書の山に突っ伏したした。その小さな背中が、絶望に打ちひしがれている。

 その時、俺は、本ではなく、書架そのものを、じっと見つめていた。

(あの父親おやじなら、どう見る?…書かれた文字だけを追うか? いや、違う。彼は、いつだってその裏側にある『構造』そのものを、読むはずだ)

「…いや。まだだ」

 俺は、壁との間に、髪の毛一本ほどの、不自然な隙間があるのを見つけていた。「お前の師匠の、妙な癖が移ってしまってな。物事の『構造』の歪みが、どうにも気になる」

 俺は、書架に施された微細な彫刻の、一つの渦巻き模様をそっと押し込んだ。

 ゴゴゴ、という低い音と共に、書架が横へとスライドし、その奥から、埃をかぶった小さな隠し書庫が姿を現した。


 エリアナが、神代の時代の神話が記された、一冊の美しい装飾本を手に取る。

 俺は、少し離れた場所から、ただ、その姿を見つめていた。月明かりが、彼女の横顔を照らし出している。その真剣な表情、古文書をなぞる指先の、繊細な動き。

 そして、彼女の指は、一枚の、ひときわ美しい挿絵の前で止まった。

 その瞬間、彼女の顔から、絶望の色が、まるで朝日が夜霧を払うかのように、消え去った。代わりに宿ったのは、信じられないものを見るような驚きと、そして、未来への、確かな希望の光だった。

 その、あまりにも美しい光景。


 俺の魂が、雷に打たれたように、真実を理解した。


(…ああ、そうか。俺は、間違っていた)

(俺が彼女に惹かれたのは、彼女の光が欲しかったからじゃない。あの父親が、ただひたすらに娘を守り続けていたように。俺もまた、この手で、この温かい光を、守りたかったんだ)

(奪うことしか知らなかったこの俺の、血塗られたこの手に、初めて、与えること、守ることを、教えてくれた。あの雨の夜の母親が言っていた『痛み』の本当の意味が、今、ようやく分かった気がする)

(この、胸を焼くような温かい痛み。守りたいと願う、このどうしようもない衝動。…これを、人間たちは、『愛』と呼ぶのか…)


 俺は、自分の魂が生まれ変わるような、激しい衝撃に、ただ立ち尽くしていた。

 エリアナが、神話の一節を読み終え、ゆっくりと顔を上げる。そして、俺の、そのあまりに真剣な視線に気づいたのだろう。彼女は、不思議そうに、そっと俺の顔を覗き込んだ。

 月明かりよ、いまだけは俺の顔を照らさないでくれ。



 俺は、教会の屋根の上で、ゆっくりと目を開けた。東の空が、暁の色に染まり始めている。世界の輪郭が、闇から光へと移り変わる、束の間の時間。夜明けだ。

 俺は、眼下の亜人街を見下ろした。その一角にある診療所の扉が、ギイ、と小さな音を立てて開く。中から現れたのは、エリアナだった。早朝の見回りだろうか。彼女は、昇り始めた朝日に向かって、気持ちよさそうに一つ、大きく伸びをした。


 俺の心は、もう揺らがなかった。

 影として生き、血に塗れてきた俺の人生に、初めて守りたいと願う、ただ一つの光。

 俺は、決意した。


 音もなく、屋根から飛び降りる。影から影へと渡り、彼女が気づくよりも早く、その背後の路地に、亡霊のように降り立った。


「―――エリアナ」


 静かな呼びかけに、彼女の肩がびくりと震えた。

「ラ、ライレンさん!? い、いつの間に…!」

 驚きに見開かれた彼女の瞳が、朝日を浴びてキラキラと輝いている。その輝きを、俺はもう、汚れたものだと目を逸らすことはしなかった。


「…早いな。まだ陽も昇りきっていない」

「は、はい。診療所の子供たちの様子が、少し気になって…。あなたは? 見回りですか?」

「…ああ」俺は、短く頷いた。「俺も、同じだ」


 俺は、昇り始めた太陽と、彼女の横顔を、交互に見つめた。そして、生まれて初めて、自分の心を、不器用な言葉に乗せた。


「この街の『夜』が、無事に明けるのを、見届けに来た」


 その言葉の、本当の意味。彼女には、まだ伝わらないかもしれない。

 俺が守りたかったのは、この都の平和だけではない。お前という名の『夜明け』そのものを、この影の全てで守り抜くと、そう誓ったのだと。


「え…?」

 きょとん、と首を傾げる彼女の顔を見て、俺の口元に、自分でも気づかないうちに、微かな笑みが浮かんでいた。

「…いや。何でもない」


 俺はそれだけを告げると、彼女に背を向けた。そして、再び王都の影の中へと、その身を溶込ませていく。

「あ、あの! ライレンさん!」

 背後から、エリアナの慌てたような声が聞こえた。だが、俺はもう振り返らなかった。


 夜明けを、その背後から守る、誇り高き影として。

 俺の、新しい『仕事』が、今、確かに始まったのだ。

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