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第百七話:神鳥の試練と、夜明けの翼


 空は、どこまでも青かった。

 白銀の光翼を広げた聖女ルークスは、一路、父たちが待つ戦場へと向かっていた。魔王から託された闇を光へと変えた、その魂は一つの絶対的な使命感に満ちている。お父様を、仲間たちを、そして、わたしの中に眠るもう一人のわたしを、守るために。


 だが、その神々しい飛翔を遮るように、眼下の雲海から『黒い霧』が、まるで生きているかのように急速に立ち上り、彼女の行く手を塞いだ。

 それは、ただの霧ではなかった。近づくにつれ、その内部で無数の幾何学模様が蠢き、常に形を変え続けているのが分かる。物理法則を無視した、不定形の混沌。


『キヒヒ…』


 脳内に直接響く、甲高く、不快な嗤い声。


『見つけたぞ、光の小娘。お前からは、実に美味そうな『秩序』の匂いがする。その綺麗な翼も、魂も、我が混沌の糧にしてやろう』


 四天王の一角、無秩序の化身『カオス』。

 世界の理そのものを喰らう、災厄の捕食者だった。


「―――させません!」


 ルークスは躊躇わなかった。その白銀の光翼から、浄化の光の槍を無数に放つ。

 だが、光の槍は黒い霧に触れた瞬間、まるで水に落ちたインクのように霧散し、何のダメージも与えられない。

「なっ…!?」


『無駄だ、小娘。形あるものは全て、我が混沌に飲み込まれる』


 その絶体絶命の窮地に、空の彼方から一筋の黄金の光が飛来した。

 空気を震わせる、神々しい咆哮。


『―――我が主の道を阻むか、混沌の紛い物め』


 神鳥シームルグだった。

 その巨大な黄金の翼から放たれる神聖な風の刃が、カオスの黒い霧を幾重にも切り裂く。だが、カオスは何度切り裂かれても、すぐにその体を再構築してしまう。


「シームルグ!」

『案ずるな、我が主よ。このような存在の理を歪めるだけの紛い物、我が神気の前には塵芥に同じ!』


 戦いは熾烈を極めた。

 だが、徐々にシームルグの動きが鈍っていくのを、ルークスは見逃さなかった。

『…まずいな。この霧…我が神気そのものを喰らっているのか…!』


 カオスの真の能力は「概念の捕食」。シームルグの「神聖」や「気高さ」といった概念そのものを喰らい、自らの混沌の力へと変換していたのだ。シームルグの黄金の翼が、徐々にその輝きを失い、醜い黒い斑点に侵食されていく。


「シームルグ! いけません! 離れて!」

『黙れ、小娘! 神が人に守られるなど、世界の理が許さぬわ!』


 ルークスを庇いながらの戦いで、シームルグはついに限界を迎えた。

 カオスの黒い霧が、巨大な顎のようにシームルグの全身を飲み込もうと、その包囲の輪を狭めてくる。


『キヒヒヒ…! 神の味、存分に堪能させてもらおうぞ!』


 ルークスの心が、絶望に砕け散った。その、瞬間だった。

 シームルグの、その誇り高き黄金の瞳が、最後に一度だけ、ルークスをまっすぐに捉えた。


「…ぐ…っ!」

 彼は、自らの神気を最後の咆哮へと変えた。

「…小娘よ、お前だけでも行け…! 我がこの最後の翼で、お前のための道を切り開く…!」


 シームルグは、自らの片翼を食いちぎられる覚悟で、最後の力を振り絞った。その体から放たれた黄金の衝撃波が、ルークスの体を黒い霧の包囲網から、優しく、しかし抗えない力で弾き飛ばした。


「―――シームルグッ!」


 ルークスの悲痛な絶叫。

 吹き飛ばされ、雲海を落下しながら、彼女はその目で見ていた。

 神鳥の、その気高き絶叫が黒い霧に飲み込まれ、無音へと変わるのを。

 黄金の翼が、一枚、また一枚と引きちぎられ、混沌の中へと消えていくのを。

 涙が、視界を滲ませる。自らの無力さが、守るべき誇り高き魂を、今、目の前で喰らわせてしまった。


 その、砕け散った彼女の魂に、直接、声が響いた。

 シームルグの、最後の思念だった。


『……なぜだ、我が主よ。なぜ、汝は涙を流す』


 その声には、感情がない。ただ、世界の理そのものが語りかけてくるかのような、絶対的な静けさがあった。


『汝は聖女。世界の理そのもの。矮小な感情など、汝の神聖を曇らせるだけの枷に過ぎぬ。その涙を捨てよ。その父への執着を、仲間への情を、全て捨て去るのだ。さすれば、汝は苦しみから解放され、完璧な神となり、あの混沌すらも滅ぼせよう』


 それは、悪魔の誘惑ではなかった。何千年も世界の理として生きてきた神が、自らの主を苦しみから解放しようとする、彼なりの歪んだ『慈愛』だった。


 だが、ルークスは、その神の慈愛を、魂の全てで拒絶した。

 彼女は涙を拭い、黒い霧の中心を睨みつける。


「いいえ、シームルグ」

 その声は、もう震えてはいなかった。

「わたくしは泣きます。あなたの痛みに、あなたの誇りに、心が震えるから。この涙こそが、わたくしが人間である証。父が守ろうとした、温かい心の証なのです!」

 彼女は叫んだ。それは、聖女としてではなく、ただ一人の娘としての、魂からの独立宣言だった。

「完璧な神になどならなくていい! わたくしは、ただの娘として、あなたを、そして父を、家族を守る!」


 その、あまりにも愚かで、あまりにも気高い答え。

 それに、シームルグの魂が、応えた。


『……見事だ。それこそが、汝が新たな主たる証。…人の子らよ。汝らのその、愚かで、どうしようもない輝きに、我は、もう一度だけ、賭けてみよう』


 シームルグの、喰われかけていた魂の全てが、黄金の光の奔流となってルークスへと注がれる。

 彼女の背中から、既存の純白の光翼に加え、シームルグの魂から生まれた黄金の神鳥の翼が、新たに出現した。純白の二対、黄金の二対。合計四枚の翼を持つ、完全なる『天使』の姿へと彼女は変貌を遂げる。


(…この力…! シームルグ、あなたの誇り、あなたの魂、確かに受け取りました。…この翼で、わたくしは、全ての理不尽を払いましょう)


 覚醒したルークスは、カオスへと向き直った。

 彼女がその四枚の翼を羽ばたかせた時、放たれたのは聖なる光ではない。世界の全ての「秩序」そのものを凝縮したかのような、絶対的な『理の波動』だった。


『やめろ…!』

 カオスは、自らの無秩序な存在そのものが、その絶対的な秩序によって「修正」され、消滅していくことに、初めて本物の恐怖を感じた。

『その、全てを定義する傲慢な光は…! 我が自由な混沌が、形を与えられてしまう…!』


 波動が過ぎ去った時、カオスは跡形もなく消滅していた。


 後に残されたのは、絶対的な静寂と、自らの背に宿る、神々しく、そしてどこまでも温かい四枚の翼を感じる、一人の少女だけだった。

彼女が手に入れたのは、ただの力ではない。シームルグの『世界の守護者』としての視座そのものだった。

 彼女の脳裏に、大陸の全体像が広がる。そして、二つの光景を同時に「見た」。

 一つは、東の森。水晶の巨人を打ち破り、疲弊しながらも、仲間と共に王都へと向かう父の姿。その無事を確かめ、彼女の魂が安堵に震える。

 だが、もう一つは、西の広大な穀倉地帯。そこに降臨している、最後の一体…揺らめく影の四天王。その影が大地を蝕み、街や村から上がる無数の悲鳴と絶望が、彼女の魂に直接流れ込んできた。


 今すぐ父の元へ駆けつけたい。だが、聖女として、守護者として、西で流されている涙を、見捨てることはできない。

 彼女は、涙をこらえ、父がいる東の空を強く見つめた。そして、父の、あの不屈の背中を、仲間たちの絆を思い出す。


「……お父様、聞こえますか。あなたの娘は、もう守られるだけの娘ではありません。あなたの娘であるからこそ、信じます。あなたが、仲間たちと共に、その道を必ず切り開いてくれることを」

「ですから、わたくしは行きます。あなたが守ろうとした、この世界の『日常』を、この翼で守るために! まずは、西で流されている『涙』を止めなければなりません!」


 彼女は一筋の流星となって、仲間たちが待つ王都とは真逆の西の空…今まさに最後の四天王が猛威を振るう、大陸西部の穀倉地帯へと、その身を投じた。



 その頃、王都近郊の森。

 貴弘たちは、つかの間の休息を取っていた。

「……しかし、ルークスはまだ来ねえのか」ボルクが空を見上げ、心配そうに呟く。「いくらなんでも、遅すぎやしねえか」

「案ずるな」貴弘は、静かに答えた。「あの子は、必ず来る。俺たちの、希望の光は、決して消えたりしない。…さあ、行くぞ。俺たちは、俺たちの仕事を果たさなければならない」

 彼らはまだ知らない。天から舞い降りるはずだった希望が、今は別の戦場で、一人、戦っていることを。

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