第百三話:父親の法則解析と、魔王の封印
灰骨山脈。
そこは、世界の全ての色彩が死に絶えた、モノクロームの大地だった。
空は鉛色、大地は灰と黒。かつてここにあったはずの森は、全てがねじくれた炭の柱と化している。風が吹くたびに、骨が擦れ合うような乾いた音が、この不毛の大地に響き渡った。
「……ひでえ場所だ」
ボルクさんが、馬車から降り立ち、吐き捨てるように言った。彼の歴戦の顔にすら、この土地が放つ絶対的な拒絶のオーラに、わずかな緊張の色が浮かんでいる。
「空気中のマナが、澱んでいます…」エリアナも、新しい杖『暁の明星』を固く握りしめながら、警戒を露わにした。「まるで、世界そのものが、深い悲しみに沈んでいるかのようです」
生命の気配が、完全に消えている。
俺は、地上の構造を解析しながら、慎重に進むべきルートを指示した。
「ボルクさん、右へ。その黒い岩盤は見た目より脆い。左の、あのねじくれた炭の木の根元を沿って進んでください」
「おうよ。…しかし、気味が悪ぃな。獣の一匹もいやがらねえ」
その、ボルクさんの言葉に答えるかのように、ルークスが、小さな声で震えた。
「…違うのです。ここには、いたのです。たくさんの、命が。ですが、その全ての声が、ある日、突然、一つの巨大な『悲しみ』に飲み込まれて、聞こえなくなってしまった…」
彼女は、苦しそうに胸を押さえる。その隣で、これまで黙っていたゼロが、何も言わずに、そっと彼女の冷たい手を握った。ルークスは、その温もりに、ほんの少しだけ安堵したように、息をついた。
俺は、その二人の姿を、父親として、そしてこの巡礼の旅のリーダーとして、静かに見守っていた。
俺たちがこれから対峙するのは、ただの力ではない。この土地に刻まれた、何万年分もの『孤独』と『悲しみ』そのものなのかもしれない。
数時間、その死の大地を歩き続けた後、俺たちはついに、その場所にたどり着いた。
そこは、直径数キロはあろうかという巨大なカルデラだった。そして、その中央に、それは静かに鎮座していた。
黒曜石を削り出して作られたかのような、黒く、巨大な祭壇。だが、俺たちの視線を釘付けにしたのは、祭壇そのものではない。その周囲に、まるで不可視の嵐が吹き荒れるかのように、空間そのものがぐにゃりと歪んでいたのだ。
光が屈折し、音が捻じ曲げられ、時間と空間の感覚が狂っていく。
「……あれが、封印か」
俺は、ごくりと喉を鳴らした。物理的な扉でも、魔法的な結界でもない。世界の理そのものを編み上げて作られた、一種の『法則』のパズル。
「へっ、上等じゃねえか!」
その、神の領域の仕掛けを前にして、最初に動いたのはボルクさんだった。
「道がねえなら、作るまでだ! ごちゃごちゃ考えるより、ぶっ壊した方が早え!」
彼は雄叫びを上げ、その巨大な長剣を空間の歪みへと叩きつけた。だが、その刃はまるで水面でも斬ったかのように、手応えなく歪みを通り抜ける。そして、次の瞬間、ボルクさん自身の背後から、彼が放ったはずの衝撃波が彼自身を襲った。
「ぐわっ!? なんだと!?」
「ボルクさん!」
彼は、自分の力で吹き飛ばされ、地面を転がった。
「…物理法則が、ねじ曲げられています! 因果が逆流している…! ならば!」
エリアナが叫んだ。彼女は杖を構え、解析の魔法を唱える。
「魔法構造を読み解き、その術式を逆算すれば…!」
だが、彼女の杖先から放たれた光は、空間の歪みに触れた瞬間、無数のシャボン玉へと姿を変え、ぱちぱちと音を立てて弾けて消えた。
「なっ…!? 私の魔法が…勝手に書き換えられる!?」
「…わたくしが、やります」
最後に、聖女ルークスが一歩前に出た。彼女のその小さな体から、黄金の聖なる光が溢れ出す。
「この歪みは、世界の悲しみそのもの。ならば、わたくしの光で…その全てを、癒してみせます!」
彼女がその光を歪みへと向けた瞬間、空間の歪みはこれまでで最も激しく荒れ狂い始めた。カルデラ全体が地震のように揺れ、天井から巨大な岩盤がいくつも崩れ落ちてくる。
「まずい! このままでは、ここごと生き埋めになるぞ!」
絶体絶命。
ボルクさんが崩れ落ちてくる岩盤をその巨体で必死に支え、エリアナが最後の魔力で防御障壁を展開する。だが、それも時間の問題だった。
俺は、その全ての光景を、ただ見ていることしかできなかった。俺の【構造解析】は、この物理法則が崩壊した空間では、何の役にも立たない。
(…違う)
俺の脳内で、何かが警鐘を乱れ打っていた。
(俺は、間違っている。見ている場所が、違うんだ)
ボルクさんの力。エリアナの魔法。ルークスの聖なる光。その全てが、この世界に存在する「道具」に過ぎない。そして、道具は、その道具が作られた世界の「ルール」の中でしか機能しない。
だが、目の前にあるこの封印は、その「ルール」そのものだった。
ルールを、道具で壊すことはできない。
(…なら、どうする)
俺は、目を閉じた。
目の前の、崩壊していく物理的な現実を、完全にシャットアウトする。
そして、俺の意識の全てを、この空間を支配している、目には見えない『法則』そのものへと集中させていく。
(建物の構造を見るな。その建物を成り立たせている、設計思想そのものを、読むんだ…!)
仲間を守るため。そして、娘を取り戻すため。
俺の、ただのビル管理の知識から生まれたスキルが、今、その限界を超え、神の領域へと、その手を伸ばそうとしていた。
《条件を達成。ユニークスキル【構造解析】は、【法則解析】へと進化します》
「師匠! もう、限界です…!」
エリアナの悲痛な叫び。
その、全ての声が遠ざかっていく。
俺は、ただ、静かに呟いた。
「……見えた」
俺は、目を開けた。
その瞳に映っていたのは、もはや物理的な世界ではない。世界の理を構成する、無数の、美しい数式の奔流だった。
俺は、叫んだ。
「全員、攻撃をやめろ! 何もするな!」
俺の、あまりにも唐突な号令。仲間たちが、驚愕の表情で俺を見る。
「貴弘、何を言ってやがる!」「師匠…?」
俺は、彼らの戸惑いを無視し、ただ一人、静かにその光景を見つめていたゼロへと向き直った。
「ゼロ。お前の番だ」
「……ぼくが?」
「ああ。何もするな。何も考えなくていい。ただ、お前のその『無』の心で、あの歪みを見つめろ。お前が、そこに『在る』という事実だけを、あの歪みに教え込むんだ」
ゼロは、戸惑いながらも、俺を信じた。
彼は、その銀色の瞳で、荒れ狂う空間の歪みを、ただ、じっと見つめ返した。
彼の、空っぽだったはずの心。その『無』という概念が、この世界の理の外にある、絶対的な『異物』として、封印の法則へと叩きつけられていく。
作用には、反作用。力には、力。光には、混沌。
だが、『無』には?
『無』に対する、答えを、この世界の法則は、持っていなかった。
キィィィィィィィィン!
空間の歪みが、これまでで最も激しく明滅を始めた。悲鳴を上げているかのようだった。
そして、ついに。
パリンッ、という、世界そのものが砕け散るかのような、どこまでも澄んだ音が響き渡った。
空間の歪みは、光の粒子となって霧散し、後に残されたのは、絶対的な静寂と、黒曜石の祭壇だけだった。
俺たちの目の前に、道は開かれた。
俺たちは、息をのんで、祭壇へと近づいていく。
そこに、いた。
祭壇の中央に、一人の男が、静かに座っていた。
漆黒の髪、雪のように白い肌。その顔は、驚くほど若く、そして、どこまでも深く、物悲しい光を宿した瞳で、俺たちを見つめていた。
それは、俺たちが想像していた、破壊と混沌の化身などではなかった。
ただ、永い、永い孤独の果てに、ようやく来訪者を迎えた、一人の、あまりにも美しい青年だった。
「―――ようやく、来たか」
その、静かで、穏やかな声が、俺たちの魂に直接響き渡った。
「我が半身たる、光の乙女よ。そして…」
彼の、その物悲しい瞳が、俺を、まっすぐに捉えた。
「…世界の理を、その目で視る者よ」