第五話:密やかな隠し事
その日もまた、彼は水汲みにやって来ていた。
この間は思考に耽り過ぎて時間が経ち過ぎ、帰るのが遅れて、料理が冷めるとルシオラに叱られたので、今日はあまり時間が掛からないようにしなければ。
そう思いつつもついつい、答えの出なかった先日のたくさんの疑問について考え込んでいると――ふと、人の気配を察知した。
振り返った先に、一つの影。
「気付くのが遅いなあ。反応が鈍ったんじゃないか?」
そこに居たのは、ユーリスのような黒衣に身を包んだ、黒髪の青年だった。
瞳の色は赤ではなく、髪と同じ夜の色。割合整った顔立ちをしているが、目を見張るほどの美形というわけではない。
年の頃は二十代前半かと思われるが、実際のところよくわからなかった。
「お前は……」
「お前じゃなくて、トールだって。いつになったら名前を覚えるんだ?」
くつりと笑う相手に、ユーリスは感情の無い赤い瞳を向ける。
目の前の相手は、ユーリスが幼い頃から数年に一度の割合で目の前に現れる、神出鬼没の輩だった。
正体すら正確には知らないが、この所薄々見当はついていた。
とっくに名前は覚えているが、相手が何を考えて自分に会いに来るのかが全くわからない為に、不審に思って呼んだことはない。
――寧ろ、ユーリスが名前を呼んだことがある人間は、ルシオラ以外にはいなかった。
「……何の用だ」
「おいおーい、チビは会ったらいつもそればっかりだな。偶には他の事を言ってみようぜー」
「――用が無いなら、帰る」
水を一杯に溜めた桶を持ち上げて、くるりと踵を返す。
その瞬間、ユーリスの動きは止まった。
指一つ動かした覚えは無いのに、いつの間にか再び、トールと名乗る男に向き直っている。
眉宇を寄せたユーリスをじろじろと見て、男は難しい顔をし、舌打ちをした。
「……無茶しやがる。お前ね、せっかく俺が進行を防いでやっていたのに、自ら無意味になるようなことをしてれば意味がないだろ」
「……わかってる」
自分で自分の首を絞めていることなど、十分に理解していた。彼をじっと見つめ続け、トールはおや、と目を見張る。
「ふーん…そうかそうか。精霊達がお前が変わったっていうから見に来てみれば……そういうことか」
にやにやと笑い出す黒尽くめの男はユーリスの理解を超えており、訝しげに眺めることしか出来なかった。
トールの周りには色々な属性の精霊が集まっている。
全身で好意を表しながら、嬉しそうに彼にくっついているのだ。
その愛情の示され方はユーリス以上で、そのこと自体が、彼が何者であるかということに気付いた切っ掛けであった。
「……何だ」
「チビも成長したんだな。いやー、俺も感無量だぜ」
「………?」
今にも首を捻りそうな様子に、トールは内心ため息を吐いた。無自覚かよと。
「様子を見に来たんだが……そうそう、お前があまりにも任務を遂行しない上に使者を迷わせたりしてここに辿り着けないようにしてるから、痺れを切らしていけすかない奴が来るようだぜ」
「――……それが」
「本調子なら何も言わないが……呪いが効いてるだろ? 今でも腕一本動かすのもキツイだろうに、よく耐えられるな」
「…余計な、世話だ」
彼を苛む呪いは、術者が解かない限り消えない。
ルシオラを殺害するという任務をこなさない以上、呪詛が彼を蝕むのは当然のことだった。
それは、王家に背くということなのだから。
ルシオラと生活し始めて一週間で、右腕に激しい激痛が走った。
この呪いは時と共に苦痛を増加させ、全身に呪いの痣が広がり、死に絶えるというものだ。
既に身体の半分は、恐ろしい呪いに蝕まれている。
国王からの使者も、幾人も訪れているはずだ。
時間稼ぎにしかならないとわかっていて、この森全体に魔法を掛けて、よそ者が入れないようにした為に、未だこの地に他者が入ることはできないでいた。
それが、この男がわざわざ伝えに来たということは、おそらく相手方も魔法使いか何かを導入してきたのだろう。
「どうするんだ? もう猶予はないぞ」
問われて、気付いた。何故今まで気付かなかったのか。
任務を遂行しなかったんじゃない。正しくは。
「……俺には、ルースを殺せない……」
できなかったのだ。あの少女を手に掛ける自分などあり得ないと、自身の何かが否定している。
それはすなわち、自分が死ぬしか道はないということ。
ある意味物凄く惚気ているのに、どうして自分の思いに気付かないのだろうとトールは呆れかけたが、少年が生きてきた道を考えれば、当然なのかもしれない。
彼が出会った時、この少年の感情は半ば壊れてしまっていた。
出来うる限り、それ以上心が壊れてしまわないようにという策は取ってきていたが、まさか、短期間でこれ程までに回復するとは。
「…惚れたのか?」
「……?」
惚れた?
それは、恋だとかいう感情を自分が彼女に抱いているということだろうか。
躊躇いもなく差し出される手も、曇りの無い眼差しも、全て、心地好いと感じる。
きっと自分は、ルシオラを気に入っているのだろう。
しかし、それが人の間で言う恋なのかどうかは、彼にはわからない。
普通の人間の感情にすら乏しいのに、そのような複雑なことは理解し難かった。
またもや不思議そうにしているユーリスを、トールは複雑な思いの籠った眼差しで見ていたのだが、黒髪の魔法使いはそれに気付かない。
そのまま首を傾げていると、ふと、人の気配を感じた。
「今頃気づいたか? 盗み聞きとは肝っ玉の座った娘だな」
「……聞こえたの。――ユーリス、どういうこと。呪いのこと、どうして黙ってたの……!」
見知らぬ男の存在を気にも留めず、彼女は――ルシオラは、まっすぐにユーリスの元へやってきて、彼の腕を掴んだ。
とっさのことで耐え切れずに顔を歪めると、その隙に、少女は彼のローブの袖を捲り上げた。
露わになったのは、最早人間の腕とは思えぬもの。
「――…っ!」
ルシオラは息を飲んだ。
まるで腕全体が鬱血しているかのように真っ黒で、所々から元の白い肌の色が覗いていた。
よく見ると、以前目にした呪いの原型のような模様や文字が、肉眼では把握しにくいほどに細かく腕を埋め尽くし、密かに蠢いているように見えた。
生理的な嫌悪を催す程に気色の悪いそれが、見る見るうちに、僅かに残っていた白い部分をも侵食していく。
「ユーリス…っ!」
「…大丈夫だ。これはまだ、全身には行っていない」
「大丈夫なわけないでしょ、馬鹿!!」
襟首を掴まれ、少女が凄まじい剣幕で怒鳴った。
彼は呆然として、なされるがままに揺す振られる。
「なによこれ…なんで黙ってるのよ……痛いでしょ、苦しいでしょ……どうして、一人で抱え込もうとするのよ、我慢するのよ…!」
「…ルース…」
「言ってくれれば、水汲みなんて頼まなかった。体を動かすことも困難だって知ってれば、何かをしてもらおうなんて思いもしなかったのに…!」
「……俺は…」
「私のせいでしょ? 私がまだ、ユーリスに殺されてないから…!!」
「俺は、ルースを殺せない」
決してそれは、荒げたものでも、大きな声でもなかった。
けれどその静かに告げる声は、叫びにも似た彼女の台詞を留めるには十分で。
「――ルースと居ると、今まで知らなかったことをたくさん、知ることができた」
些細なことに感動して、笑って、泣いて――ルシオラは、本当に豊かな心を持っていた。
可愛がっていた森の動物が老衰で死んでしまった時は、涙を流して墓を作っていた。
彼の昔の生活について聞き出すと、国王やその他の人間に対して、本気で怒った。
実の母親について語る時は誇らしげで……けれど、どこか寂しそうで。
精霊達がひょんなことで滑稽な仕草や失敗をした時は、腹を抱えて笑った。
こちらが何か粗相をしでかした時は叱ってくるものの、すぐに、仕方ないと言いたげに肩を竦めて微笑む。
自分が彼女と同じように感じたのかはわからないが、間違いなく彼女のおかげで、彼は彼なりに、『心が動く』ことを、実感出来たのだ。
「……誰も気にも留めなかった俺にも、名前をくれた」
異相の『化け物』に名前が無いことなど当然だと、彼には『邪眼の魔法使い』という通り名しかなかったのに。
「……何故だろう。どうしても、ルースを殺そうとは思えないんだ」
「ユーリス……」
ぽろり、と少女の至高の瞳から、涙が零れ落ちた。
彼はどうしていいか分からず、無表情ながら困惑したようにその頬を拭う。
頬に触れた手は、呪いに埋め尽くされた方とは反対の手だったけれど、とても冷たくて、いくつもの痛々しい大小様々の傷跡が見えて、彼女は余計に涙が溢れてきた。
どうやって慰めようとおろおろしている様は、とても感情を失くしているようには見えない。
「……べた惚れじゃねえか」
のけものにされたトールは、面白くなさそうにぼそりと呟く。
「…あーあ、世の中は、馬鹿とクズばっかりだな」
どちらがマシかなんて比べるまでもないけれど。
ふと、彼は、森の端から侵入してきた何者かの気配を感じて、整った眉を寄せた。
「…まじで面倒なやつら。無粋だよなあ」
ひとつ、溜息を吐いて。
「……おい」
――彼は、重い腰を上げた。




