第三話:日溜まりの中で
「……ルース、畑に肥料を撒いておいた」
「ありがと! じゃあ、お水を汲んできて。帰ってきたらご飯にするわねー」
「………」
小さな竈の下で燃える薪は、先日外で割ったばかりのもの。
ぐつぐつと音を立てて良い匂いの漂うスープが入っている鍋は、彼女が逃亡中に買い求めたものの一つであるらしい。
金銭の類は王城から持ち出した調度品を売り払って工面したそうだ。
夕食の支度を整えるルシオラに用事を頼まれ、魔法使い――ユーリスは無言で了解した。
そして、そのまま踵を返して小屋の扉に向かおうとした。
途端、頭に何かがぶつけられる。すこーんと、良い音がした。
「……な…?」
「無言じゃわからないでしょ? ちゃんと声に出してっていつも言ってるじゃないっ」
振り向けば、頬を膨らませて怒る少女の姿。
彼の足元には木尺が落ちていた。
どうやらこれを投げたらしい。
彼女は良く、怒ると物を投げる。姫君とはあまりお淑やかなものではないらしい、と最近彼は、やや間違っている知識をつけてきていた。
「……悪かった…」
「もう、次やったら本気で怒るからね!」
ぷりぷりと腹を立てながら、ルシオラは包丁を片手に野菜を刻み始めた。
良い所のお嬢様は料理など出来ないものだが、彼女は育てられた環境が少し特殊だったらしく、様々なことができた。
それ故に、この森まで逃げ落ち、生き延びることができたのだ。
庶民が着る粗末な服を当たり前のように身に纏い、質素な生活をすることだって、貴族には普通耐えられない。
狩りをし動物を捌き調理する方法、野草を薬に調合する仕方、大工仕事に農耕の知恵、自衛の術まで、彼女は色々なことを身に着けていたからこそ、自給自足の生活ができたのだ。
勿論、小屋に住み始めた当初は、衣服や調理具など、自分一人では作り出すことが困難なものもあったので変装して近くの町にこっそりと買い求めに行ったこともあるらしいが、今では一通りのものが揃っているので、完全に外界との接触を絶ったらしい。元々、人と接することは好きだったようで、彼女はよく、彼を相手にたくさんのことを語りかけてくる。
その際、無口な彼があまりに言葉を返さないので、よくよく叱られてしまうのだった。
木尺を拾ってテーブルの上に置き、ぶつけられた頭を擦りながら小屋を出て行く。
扉の側にあった水桶を持とうとすると、二つあるそれが自然と浮いた。
「……有難う」
感謝の言葉を口にすれば、嬉しそうに桶が跳ねる。
勿論、桶自身が勝手に浮いたわけではなく、その下で、いくつかの精霊が桶を持ち上げているのだ。
精霊は人の超小型版のような形をしていることが多いため、数人の小人が楽しそうに桶を持ち上げているように見える。
この間この光景を目撃したルシオラは、可愛い可愛いとご機嫌だった。
木の枝を掻き分け、草を踏みしめて歩く。
小屋の近くを流れる小川に近付いて行きながら、ユーリスはふと、ルシオラの宣言の日からもう一月が経つのだと考えた。
感情を取り戻す手伝いをすると言われてから、呆然としている間に、彼は彼女と共に暮らすことを決定されていた。
小さな小屋なのでルシオラの寝室と居間以外に部屋が無いのだが、精霊達がどこからかたくさんの布地を持ってきて、小屋の隅に敷き詰めてくれた為に、簡易の寝床としてそこで寝起きしている。
正直、暗殺のタイミングを完全に逃してしまって、そのままずるずると来ているのだった。
彼女が自分に何をするのだろうと思っていたが、特に何か特別なことをされるわけでもなく、炊事、洗濯、野菜の世話など、何故か家事を手伝わされた。
傍から見れば夫婦の真似事でもしているかのよう。
実態は、若い女主人と居候、と言った体なのだが。
ルシオラにああしてこうしてと――薪割りをしろ、野菜を刻め、屋根の修繕をしろ等々――指示を受けながら過ごしていく間中、彼は人としての礼儀だの作法だの常識だのを、家事と同時に叩き込まれた。人と…誰かと一緒に生活するなんて、初めてで。
そうして暮らすことは慣れないことばかりで、戸惑いが大きかった。
ルシオラが何を考えてあんな宣言をしたのかわからないが、くるくると変わる彼女の表情を見聞きして、否応無く働かされ、触れあう中で、彼の生活が大きく変わったことは言うまでもない。
どんなに小さなものでも、怪我をすれば心配してくれ、手当してくれる。
何かを為せば礼を言われ、何の打算も無い笑みを向けられる。
誰かに何かをしてもらったら感謝を伝えるべきなのだということや、悪いことをしたら謝ると言うことなど、普通の人間の感覚だと当然らしいことが彼には全て初めて知ることばかりで、新鮮な驚きを得ていた。
一日一日が、これまで無意味に過ごしてきた時とは違い、密度の濃い何かで満ちているようだ。
ここ数日、くすぐったいような感覚が胸の中で蠢くことが多くて、何か病にでも罹ったのかと首を傾げていたら、呆れたように、しかしどこか嬉しげに溜め息を吐いたルシオラに、それはきっと喜びといった感情の発露では無いのかと言われ、目を見開いたことは記憶に新しい。
「……ユーリス、か」
正義の名前など、自分には相応しくない。
与えられた時、真っ先に思ったのはそんなことだった。
今でも、その認識は変わらない。
けれど――彼女が名前を呼ぶだけで、どこか温かいものが身体を流れるのは何故だろう。
これは、何を表わす感覚だっただろうか。
この異形を気にされるわけでもなく、見下されるわけでもなく。彼女は自分の正体を知っているくせに、自然に接し、まるで古くからの知り合いのように遠慮がない。
ここでの暮らしは酷く和やかで――遠い昔、孤児院で精霊達と触れ合っていた時と同じか、それ以上に、ひどく過ごしやすいものであるような気がしていた。




