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なりたくて  作者: 神咲
3/15

共同戦線

【教師と生徒、信頼関係を結ぶのは難しい】


あらすじ


件の問題児“瀬川凪”と対面した日吉。だが、すぐの懐柔は無理と判断し、一旦彼をその場から逃がすことに。

学校へ戻ると、一年前、瀬川の担任だった春川の問題発言を耳にして──。




クラフトビールは、よなよなエールさんの“水曜日のネコ”が好きです。


 午後の授業は楽しくなかった。生徒へ学びを与える素晴らしさを全く忘れてしまっていた。

ロボットのように淡々と授業内容を黒板へ書き写し、時たま注釈を入れる。後はただ、問題を解かせたりノートを取らせて終わり。その繰り返しだった。

 自分の意思でやったといえば、にこやかでいる、くらいだろうか。

この怒りのような悲しみのような気持ちを持ったのは瀬川を逃がしてしまったことが原因ではない。春川の一言が原因だ。


『──だって、面倒じゃないですか』


 そんな一言で、簡単に生徒を見捨てられるなんて信じられなかった。その場はなんとかやり過ごしたが、もう一度言われたら今度こそ手が出ると思う。

気持ちを制御するため、下校時間後からは事務作業に没頭していた日吉がふと顔を上げると、職員室にはもう誰もいない。外は暗く、時計を見ると19時を過ぎていた。体の凝りをほぐすように伸びをして、椅子にもたれかかった。大きなあくびまで出てくる。

 ……春川の言うことも一理ある。仕事柄、他クラスの面倒も見なくてはならない。絶対的に負担は増える。今は上手くいっていても、自分にだって大きな壁が立ちはだかるはず。毎度楽しいことばかりではないのは知っている。もし、自分のクラスに瀬川が戻ってきたとしたら余計にそう感じるだろう。

 ぎいぎい、と寄りかかった椅子で遊んでいると、机の上に置いてあるスマートフォンが振動した。画面を見てみればメッセージアプリ“Lite(ライト)”に通知が来ていた。そこには親友の名前が表示されている。内容を確認すると、久しぶりに酒を飲まないか?という誘いだった。ちょうどいい、このモヤモヤを晴らしてもらおう。

日吉は承諾の旨を伝え、さっさと学校を出ていった。


「ごめんごめん、遅れたー!」


 待ち合わせ場所に指定された銅像前には、親友である酒井太一(さかいたいち)が立っていた。ぜいぜいと息を切らしている日吉を笑っている。

誘われた先はあろうことか香吹町だった。

駅から既にすごい人込みで、推察するに繁華街の中はもっと賑わっているに違いない。

思い返せば今日は金曜の夜、俗に言う華金だ。そのせいか、と一人納得をする。

 歩きながらお互いの近況を伝え合う。

酒井は介護士をやっている。土・日と連休が取れたので誘ったとのことだった。この男は酒が好きでよく酔い潰れる。それを踏まえて連休でよかったなと言えばバカにするな!と返ってくる。それらのやりとりが楽しくて、二人は笑いながら繁華街へと入っていった。

 日吉にとっては本日二回目の香吹町だったが、やはり夜の雰囲気は違う。どの店もネオンが光り、昼間よりも華やかさを増した町へと変貌を遂げている。

仕事終わりのサラリーマンやOL、その他大学生のような男女グループなど、皆楽しそうに闊歩している。既にベロンベロンに酔った人を介抱しながら駅の方向へ戻っていく人もよく見る。

今の日吉は腹ペコだ。居酒屋やレストランなどの店を見るたびに腹が鳴る。話しながらLiteに届いていたメッセージを思い出して酒井に問う。


「で、おすすめの店って?」

「もーちょっとだけ歩いたら着くぜ。えーっと……あ、ここ」


 周りのギラギラした店とは違い、シックな煉瓦仕立ての店で、看板には“カフェダイニングGerbera(ガーベラ)”と書いてある。

 扉を開けるとカランコロンと鈴が鳴る。店内はほぼ席が埋まっていて、酒井は「ありゃ」と呟く。

すぐにホールスタッフがやってきて、名前を書いて待つよう指示された。それでも記入欄は上の方で、近い内に声がかかるだろう。ちら、と見えた店内は活気に溢れている。二人は待機用の椅子に座って、一息ついた。


「いやーセンセ、元気だったかよ」

「おい、その呼び方やめろって何回言ったら分かるんだよ」

「だはは!ごめんごめん!いやあ、お前と飲みなんて、んーと……去年ぶりだっけか」

「たぶんな―。太一は仕事どうよ?」

「じっちゃんばっちゃんと仲良くやってる!」

「そりゃよかった」


 酒井は昔から高齢者から好かれる傾向にあり、本人も頼られるのを喜んでいた。現在は訪問介護をやっていて、髪色や髪形の融通が利くと聞いて少し驚いた。ドレッドヘアの同僚もいるのだとか。自分の緑色の髪の毛を見せてやりながらそう語る。


「へえ、いいんだそういうの」

「ああ。むしろそういう話で盛り上がったりもする。若い頃やっとけば〜とか。まだまだ間に合うしぜってー似合うって!とかいうと喜ぶんだ~」

「なんかいいな。ほんわかしてて」

「それにしても……惣次郎、お前なんかやつれてね?介護しようか?」

「いや、マジでお願いしたい」

「……お前、こういう冗談フキンシンとか言って避けてなかったっけ」

「いやあ、それがさ──」


 斯々然々、とここ最近の出来事を語る。うんうん、と相槌を打ちながら聞き終えた酒井は、パーにした左手を右の拳で軽く叩いた。


「そのハルカワってやつ、センセ辞めたほうが良くね?」

「お前がいうならやっぱそうだよな。久々に“こう”なるかと」


 日吉も拳を握りしめた。傍から見ればただガッツポーズを取っているように見えるが、酒井にはそう思えなかったらしく、恐怖に震える真似をしてみせた。


「ひえぇ、さっすが〜」

「何がだよ!」

「べっつにー」

「ったく」

「サカイ様ー!お席ご案内致しまーす!」

「あ、はーい!」


 客の回転が早かったようで、先程のホールスタッフが自分たちの名前を呼んだ。話もそこそこに、日吉たちは席へと案内されたのだった。


――――――――――――


 “カフェダイニングGerbera”は老若男女問わず人気(にんき)の店だ。

ランチタイムが終わる14時まではフレッシュな喫茶店、18時からはディナーや酒類を楽しめる、ムードあるダイニングへと変化を遂げる。特に料理が美味しいと評判で、口コミ評価も高い。

 本日もダイニング開店からわんさか客がやってきて、店内はすぐに満員になった。もちろん一気に注文が届く。乾杯のコールや楽しむ客の声にかき消されていたが、スタッフ側はてんやわんやだった。

厨房入り口の縁にある大量のオーダー用紙を見て、九条淳(くじょうじゅん)は「帰ろうかな」と思い始めていた。

 彼はこの店のバーテンダーで、今は大量の酒類をわんさか作っていた。持ち前の甘い顔立ちから出るいつもの笑顔とは裏腹に、眉間にしわを寄せて必至の形相でオーダーを捌いていく。それをホールメンバーが受け取り提供しては、オーダーを持って帰って来るのを見て流石にため息をついた。


「オーダー止まらないんだけどー。どうすんのこれー」

「口動かす前に手動かせ」

「分かってるってー!動いてますっ!いやあ、今日一段とオーダー多くね?」

「華金だからだろ」

「あーね……俺も飲みてぇーっ!」


 彼を叱咤したのはここGerberaの店長、兼村徹平(かねむらてっぺい)だった。彼もまた、冷静な顔とは裏腹に捌くのに精一杯であった。主にパスタ、ピザ、リゾットなど、時間のかかるメニューをこなしていた。

だんだんと大きくなっていく九条のため息を耳にして、自分にも移ってきたような思いで作業を進める。


「モスコ、カシオレ、ハイボールおねがーい」


 九条がインカムを通してそう伝えると、ホールメンバーがやってきて提供しに走る。また戻ってくるんだろうな……と思いながらも作る手は止めない。

 そんな中、インカムへ青年の声が入ってきた。少し高めで、冷静さが感じられる。


《1卓、3卓バッシング終わり。5卓レジ応援行って。そのまま3卓新規四人、クラフトとハイボール勧めといた。どうせ淳死んでるからカクテル落ち着くまでそれ勧めて。新規はおれがオーダー捌くんで、落ち着いたら代わって。その後厨房入るから》


 テキパキとした口調で指示を出していくその青年に、九条は徹平に言った。


「うちの息子ったら頼りになるわねダーリン☆」

「……」

「黙んないでよお!淳だってこんなに頑張ってるのにぃ!」


 これが少女であれば可愛いであろうぶりっ子ポーズを完全に無視された九条は、頬を膨らませながらまたカクテル作りへ戻る。再びインカムへに他のスタッフの声で、新規客を二名入れたこと、先程の青年へ託す旨を伝えると一旦静寂が訪れた。厨房内ではあーでもないこーでもないと九条の声が響き続けているが。


 一方、無事着席できた日吉と酒井はメニューを見ていた。食事はイタリアンがメインのようだが、唐揚げやフライドポテトなどの一般的なつまみも用意してあった。

どれにしようか悩んでいると、すぐにホールスタッフがやってきた。


「ご来店ありがとうございます。お先にお飲み物のご注文お伺いします。当店、クラフトビールが人気でして、三種類ございます。よろしければお味見いかがでしょうか」

「そうなんすね〜。うーん、じゃ試してみようかな〜。えーと……このクラフト二つで!」


 日吉は先程からメニューに釘付けである。体制が早弁を隠すそれで、昔を思い出した酒井は笑う。


「そんなに腹減ってんの?」

「ペコペコのペコよ。昼飯菓子パン一個だったし」

「聞いた通り忙しそ」

「だろ?」


 ホールスタッフが去っていってから、食べたいものを各々決めて、また会話に花を咲かせながら飲み物が来るのを待った。いい頃合いで酒とお通しが日吉の前へやってきて、エネルギー切れの身体は無意識に喉を鳴らした。脳みそが食べ物の注文へと切り替わり、よし!とメニューから目を離した日吉は唖然とした。


「お食事お決まりでしょうか」

「えっとー、軟骨揚げとポテト一つ!それと〜」

「瀬川!?」


 オーダーを登録する機械、ハンディに気を取られていた青年がハッとこちらへ顔を向けた。明らかに昼間出会った瀬川凪だった。一瞬驚いた顔をしたが、再びホールスタッフへと態度を戻した。日吉はテーブルから身を乗り出して叫ぶ。


「おま……!ここでバイトしてんの!?」

「軟骨揚げと、ポテトフライですね。他にご注文はございますか?」

「いや!ちょっと!話……!いって!」


 事態を察した酒井が急いで日吉の顔をテーブルに押し付ける。


「えっと、あとチョレギサラダにマルゲリータで!」

「承知しました。ご確認お願い致します。軟骨揚げ、ポテトフライ、チョレギサラダ、マルゲリータお一つずつでお間違いないでしょうか」

「合ってます!あとこの馬鹿、人違いしてるみたいなんで、気にしないでくださいすみませ〜ん!」


 瀬川であろう青年は「いえ」と一言添え、気にせず涼しい顔をしたままメニューについての説明を続ける。


「マルゲリータは準備に少々お時間頂いておりまして、お伺いしたご注文の最後にご提供する場合がございます。予めご了承頂けますと幸いです。少々お待ちくださいませ」

「は〜い!お願いしま〜す!」

「むが……!ぐえっ……!」

「お前ね~騒ぎすぎ。……あれが話してた不良っ子?」

「そう!くっそー!」

「まあまあ、まず飲むべ」

「……そうだな」


 ひとまず気を取り直して乾杯の音頭を取る。ジョッキ同士が重なる音を聞くだけで、日吉の口の中には唾液が広がる。口をつけて一度ぐびりと飲み込むと、止まらない。喉越しの良いクラフトビールだ。乾いた身体に一瞬で染み渡っていった。まるで砂漠の中のオアシスだな、と思った。


「っぷはー!これこれ!」

「オヤジくさ」

「お前もだろ!……まあ、さっき言った通り順風満帆ではないわ。で、話の続きなんだけど、どう思う?」

「無理じゃね?」

「直球過ぎ。でもなあ、なーんか諦めたくないんだよなあ」

「いやさ、お前が浅川で五年やってるってジッセキ?はあってもよお。全部お前に任せてコーチョーセンセはふんぞり返ってるわけっしょ?損してね?」

「まあ……言いえて妙」


 酒井はちょっと考えてから、数秒首を傾げて、傾げて、(ふくろう)になる前にやっと返答した。


「いーえて?俺が馬鹿だっての忘れてない?」

「お前の言うこと合ってるよって意味。まあ馬鹿だったのは俺もそうだけど」

「俺らの中ではマシな方だったじゃん」

「まあ……じゃなくてだな。なんつーか……あいつは今までのと違う気がするというか、なんというか」

「でもさ~、聞いてる限りだとイキってるガキじゃん。おベンキョーできんのはすげーけど」


 1位なんて取ったことないわ〜、と言いながら酒井は日吉のお通しに箸を伸ばす。それを皿ごと避けながら続けた。


「入学してから校則破ろうとか考えてる奴が彩都希望するか?」

「それはそう。馬鹿な俺でも彩都の噂知ってるし、やろうとは思わんわ」

「とにかく、本人とはほぼ話せてねえから……どうすっかな、作戦が思いつかなくてさ」

「ボコボコにして引きずってけば?」

「出来るならそうしてるよ」

「もう“大将”の面影ねえな〜」

「その呼び方もうやめろ」

「だはは!」


 やはり、友人とは定期的に会っておくべきだな、と日吉は思う。大笑いしながら色々話していると、昔のことが頭に過る。

 あの頃の自分は恵まれていたと思う。家を飛び出して夜遅くまで遊んだ友人たち、それを叱ってくれる優しい家族、恩師がいた。だからこそ同じ道を目指したし、家族のように生徒の助けになってやりたいと強く思っている。

 以降、何度注文しても瀬川が対応しに来ることはなかった。偶然もあるだろうが、なんとなく会いたくないんだろうなと感じた。

こうやって夜間にアルバイトをする高校生は珍しくない世の中だ。それが原因で寝坊し、遅刻する程度なら健全にすら思う。

 だが、日吉には、それらを含めた諸原因で登校拒否をしているように思えない。何故か、と問われても答えは出ない。だけれど、どうしても違うような気がしてならなかった。



──瀬川のビール&ハイボールおすすめ作戦が効いたのか、あれからカクテルの提供数がグッと減った。緊張の糸が切れたのか、九条は冷蔵庫から出したエナジードリンクをぐひぐびと飲み始めた。


「あぁ~、エナドリ最高〜」

「サボるな」

「水分補給してんの!」


 変わらずぎゃいぎゃいやっている九条のインカムへ、囁き声が入ってきた。口調からして先程の青年、瀬川凪だろう。1卓、要するに日吉たちのいる席へ、オーダー取りや提供を誰かに頼みたいとのことだった。

さっきの冷静さはどこへやら、非常に苛立った声音で「おれマジであそこ行きたくねーから」と締め、インカムは切れた。他のホールスタッフも驚いたのか、皆片言の返事をしていた。九条と兼村もはて?と顔を見合わせる。


「おやおや、なにかありましたなこれは」

「……珍しいな」

「ねー。スタッフ相手にはこんな言葉遣い絶対しないのに。……あ、帰ってきた」


 どかり、と厨房へ足を踏み入れたのを見て、九条が問い掛ける。


「凪、どしたん?」

「……学校の担任が来てる」

「あー……去年来たへなへなの?」

「違う。今年からの奴。ごちゃごちゃうるせーから逃げてきた」


 店長である徹平に謝罪をすると、揚げ物中心の作業を任される。作業する合間も瀬川の愚痴は止まらず、黙ったままの兼村に代わり九条がうんうんと聞いてくれている。


「へー、わざわざ来たのに逃がしてくれたんだ」

「意味分かんねえ」

「いい人じゃん」

「……どうせまた、春川(アイツ)みたいに来なくなる」

「……凪さあ、なんでそんなに学校嫌なの?あんだけ勉強好きなのに」


 休憩時間を削ってまで勉強している彼を知っている九条は、思い切ってずっと感じていた疑問をぶつけてみた。

 皆が賄いを食べ談笑する中、裏口の階段へ座って、読み古したボロボロの教科書などを眺めてはため息をついている姿をよく見かけるからだ。その度、九条は彼へ食べやすいような賄いを持って行っては、隣で煙草を吸いながらその姿を見守る。いつの間にかそれが当たり前の環境になっていた。

 瀬川はこんがり揚がったポテトフライを皿に盛り付けていく。ケチャップとマヨネーズがそれぞれ入ったココットを添えて、カウンターへ出す。


「別に?めんどいだけ」

「……行くのがめんどいってこと?」

「そ」

「凪の住んでるとこから遠くないのに?」

「距離の問題じゃねーよ」

「……他人との距離ってこと?」

「……ポテトフライ、軟骨揚げ1卓お願い」


 それきりインカムにしか対応しなくなってしまった彼に対して、九条は内心やれやれと肩を竦めた。

 瀬川がここでアルバイトを始めたのは中学生の頃だった。まだあどけない顔立ちで、こちらがリラックスを促すくらい堅い姿勢で面談を受けていた。どこか一線引いた態度は変わらないが、だいぶ柔和で可愛げがあった。

勉強が好きだから、彩都に入るんだと意気込んでいて、現在のように休憩中も勉強に勤しんでいた。無事、入学が決まった時は皆でお祝いパーティをしたことはまだ記憶に新しい。

 だが、高校受験を終えてから現在のように豹変してしまったのである。この姿で出勤された時は、あの冷静沈着な兼村でさえあんぐりと口を開けていた。訪ねたが理由を濁すばかりだった。多感な時期だし、遅めの思春期かも、などと初めは放っておいた。親でもないのにそこまで介入する権利もないとも思っていたし。

 そこに突然、去年の担任春川がやってきて、学校へ来ていないと聞いた時は耳を疑った。身嗜みのことは百歩譲ったとして、あんなに合格を喜んでいた瀬川が登校拒否をしているなんて思ってもみなかった。たぶん、何かへの嫌悪感を持っているのだと思う。けれど、未だにはっきりとした理由は分かっていない。

今日がイレギュラーだっただけで、この店では真面目に働いている。営業中は、あんな態度を取ることも滅多にない。


(だからこそ色々勿体ない気がするんだけど、本人が言うまで待つしかないよねえ)


 九条はドリンクと共に、杞憂と共に飲み干したあと、空き缶をゴミ箱へと捨てた。


――――――――――――


 少年は、子供の頃から“アイ”というものに飢えていた。

母親はシングルマザーだった。今思えば、たぶん水商売で生計を立てていたのだと思う。

少年が赤ん坊のころから既に彼から興味をなくし、男に走った。言葉通り代わる代わる連れてくるので、物心ついても彼は一人一人の顔を覚えていない。

母親は、男たちへ彼をおもちゃとして与えた。母親か男、もしくはどちらかの機嫌を少しでも損ねると、殴打の雨が降ってくる。満足するまで暴力を振るわれ、罵声を飛ばされる。そうして興奮が止んだのち、彼は住処(すみか)へ戻されるのだ。

 アパートのベランダが、彼の寝床だった。ずっとそこへ放置され、所在が他人にバレないようブルーシートまでかけられていた。色々なことが分かってくると、暑い日は困るけど、寒い日はちょっとあったかいな、なんて思えてしまった。

 食事は、スナック菓子を二日に一回程度の間隔で渡される。空腹の少年は貪るように食べた。それを四つの目が笑いながら見ている時だけ、少年は部屋の中に入ることを許されていた。

 そのため、彼は小学校に入学するまで、菓子以外の食べ物を知らなかった。給食を初めて目にしたとき、教師へ「これはたべもの?」だとか「どうやってたべるの?」だとかつい疑問を投げかけてしまった。きっと母親へ連絡が入ったのだろう。帰宅後は想像の通りの結果になった。

 春夏秋冬関係なく、長袖長ズボンを着るよう命令をされた。母親と男が付けた傷が目立たないようにするためである。そういえば、入学前に「顔はバレるからやめて」と母親が猫撫で声を出していた記憶がある。

 少年は殴打や蹴られることも嫌いだったが、特に彼を苦しめたのは水責めだった。浴槽に顔を押し付けられて溺死寸前まで追い詰められる。意識が朦朧としてきた頃、離されてはまた沈められる。これが原因で今も水に潜れない。

 それから、母親はだんだんと家に寄り付かなくなり、少年が中学校へ上がる際、男と共に出ていった。

その時発した最後の言葉が、どの暴力よりも彼のこころを打ちのめした。


『あーあ、あんたなんて産まなきゃよかった』


 今も、耳にこびりついて離れない。こうして、頻繁に夢を見るくらいには──。


――――――――――――


 陽が落ち始めた香吹町繁華街には、光る看板がぽつぽつと増え出していた。

 これからこの中で遊ぶであろう人間たちの波に逆らいながら、瀬川は最寄り駅まで歩みを進めていた。その足取りは重く、鉛のように感じる。

 本日は祝日で、普段の遅番勤務ではなく中番勤務だった。三連休の半ばだったため、遊び盛りの大学生らが事前に希望休を出していた。

それで少々人員不足と聞いていて、穴を埋めるべく瀬川は立候補したのだった。

 けれど、勤務中は最悪な事態が続いた。

オーダーを聞き間違える、提供する席も間違える、出来立ての料理を厨房でひっくり返す。他にも普段簡単に出来る作業でさえこなせない。最終的にはインカムで話そうとしても途中で言葉が出なくなって、休憩室で休ませてもらう羽目になった。

少し休んでから謝罪に戻った彼に、店長兼村は帰宅を促した。顔色が相当酷かったらしい。

今はしっかり休め、今度からまた店を頼む。

そう言われ、諸々の意味を込めて頭を下げてから早退をしたのである。

こんなに頭も手も回らないのは、朝方、暫く見ていなかった悪夢が襲ってきたことが原因だろう。

 やっとの思いで目的の駅へ着いて、電車で岐路を辿る。人々がぎゅうぎゅうに押し込まれた車内から、瀬川はぼうっと景色を見ていた。


(帰れって言われても困るな。役に立たないんだから仕方ないんだけど)


 この電車に乗っている人たちはこれからどこへ行くんだろう。理由はどうあれ、きっと自分とは別のあたたかな世界へ行くんだろうな、と感じた。

そうやってぼんやりしている間に家のある最寄り駅へ到着してしまい、押し出されるようにしてホームに着地した。

 改札を出て北に向かって少し歩くと、大きな商店街に入る。そこを抜けてまた少し歩けば彼の住むアパートメントがある。


「はいはい!今日は新鮮なカツオがおすすめだよー!」

「メンチカツ一つとー……」

「ファミレス行かね?」

「ありがとうございましたー!」

「あら、お久しぶりね~」

 

 相も変わらず、活気のある場所だ。

祝日は稼ぎ時なのか香吹町に劣らず人の行き交いが激しい。

 瀬川はいつもここを通るのが嫌いだった。

だが、土地の作り上ここを通らないと家に辿り着けない。だからいつも出来るだけ、耳や目になにか異物が入らないよう、常時気を張って歩みを進めることにしている。

 すぐ隣をすれ違った親子をつい、ちらと見てしまった。どうやら、娘は夕飯にカレーを食べたいそうで、母親が手伝いをお願いすると元気な返事をしていた。ぎゅ、と手を繋いで去っていく。

 そう、“こういうの”が入ってくるから、嫌なのだ。

下を向いて歯を食いしばった。爆発しそうな気持ちをぐっと抑えて、瀬川は帰宅した。

 玄関へ靴を放り、敷きっぱなしの布団の近くへスクールバッグを置くと、そのまま寝転んだ。

酷く疲弊している。主に精神面でだ。薄暗い天井を見上げながら、彼は今日の失態を思い出す。

考えてしまうといてもたっても居られなくなって、バッグから教科書や参考書をどっさり取り出した。

──彼のバッグの中は、いつだって勉強ができる環境になっている。

毎日、登校に間に合う時間に起きて身支度を済ませる。けれど、いざ彩都の最寄り駅へ着いても気が付けばドアが閉じている。そうして足は香吹町へ向いてしまう。

少し近い詩武谷に行くことも多い。ファストフード店で過ごしたり、隙間時間で出来るアルバイトで時間を潰してから、兼村の店へ向かうのが彼のルーティンになっていた。

 部屋にかさり、と紙の擦れ合う音がする。教科書も参考書も、どれもこれも手にしたときから今までもう何度も読み返した。まだ他の生徒が学ばないところまで読んで解いて読んで解いて……を繰り返していた。各種問題や、説明文の一言一句空で言えるほどである。

 瀬川はふう、と息をついた。

彼の住む六畳一間は本で溢れかえっていた。小学校・中学校で使った教科書はもちろんのこと、小遣いを貯めて古本屋で購入した小説、児童書、絵本など、種類は多岐にわたる。

読んでいた数学の教科書を腹の上に置いて、目を閉じた。


(……勉強、好きだ。解けば解くほど満たされるし、面倒なこと考えなくていい。文字はうるさくないから好き。小説は特にそう。読んでると、その世界に溶けていく感じがたまらない。どっちも、居場所がないおれを受け入れてくれる)


 でも、勉強が好きだからといって学校には行けない。そこが自分の居場所じゃないことを昔から知っているから。

じゃあ、兼村の店は?心配した口調だったが、呆れているようにも見えた。あそこを離れる潮時なのかもしれない。

じゃあ、じゃあ、次はどこへ行けばいいんだろう。自分を受け入れてくれる場所なんてもうどこにもないんじゃないか?

あの店の人たちが偶然優しかったから上手くいっていただけで、他のところでこんな見た目、人間性が通用するはずもない。どこでも奇異の目で見られることが多い。そんなの当たり前だ。

 見つめていた天井から、徐に姿見へと近付いた。暗がりに自分の姿が映る。

ピアスを開け、髪が赤い。普段はだらしなく制服を着ている自分。自ら道を踏み外しているのは理解している。

 でももう戻れない。絶対戻りたくない。あの頃とは違う。姿見へ手を伸ばして、彼は小さく呟く。


「……“ぼく”は──」


 そのままごん、と鏡へ額を預けて、“瀬川凪”は自分の瞳を睨みつけた。


――――――――――


(アポは取ったものの……)


 とある日、日吉は再びGerberaに来ていた。春川曰く“デカい怖い人”に会いに来たのである。

 自分では見放したくせに、貰った名刺は律義に残していたらしい。そこには店長の名前と電話番号が書かれていた。受け取った日吉はすぐに彼へ連絡をして、アポイントメントを取ったのだった。

店長なら普段の瀬川のことも知っているはずだ。“第二回瀬川凪説得作戦”は決行された。

 裏口のインターホンを鳴らすと、すぐに返答があった。名乗り出ると、扉が開く。

 なるほどね、と日吉は心のなかで独り言つ。

聞いていた通り“デカい怖い人”が現れたからだ。

背丈は日吉より少し高く、目付きが鋭い。そしてなによりガタイが良かった。正直、殴られたら脳震盪でも起こしそうな風体だった。

ただ、日吉は過去に何度も同じような人間を見てきているのでさして怖がりもせず、自分の名刺を渡すのと同時に簡単な自己紹介をした。

詳しい話は事務所で、と案内され入室するとソファに座ることを促された。「失礼します」と一言付けて座る。すると、紅茶や茶請けまで次々に出てくるではないか。いたせり尽くせりの状況に申し訳なく思ってぺこぺこと頭を下げる。

 対面に店長、兼村が座わった。先にくだけた口調になってしまうことを謝罪されたが、気にしない旨を伝える。そうして、瀬川についての話が始まった。

春川から聞いただろうことを前提に、去年から今までに何があったのかを問うてみた。兼村は少し考えてから答える。


「いつの間にかああいう状態になっていてな、俺たちにも分からないことだらけだ」

「そうでしたか……。私としては、無理に戻そうとは考えていないんです。彼が自分の意志で登校出来るまで、しっかり対話をしたいと考えています」

「……先生は、去年の奴とは違うんだな」

「? と言いますと?」


 去年、春川は訪れたものの、来るように兼村が説得してほしいとの一点張りで、自分で何とかしようという気概は見られなかったようだ。つい「本当に何やってんだあいつ」と呟きそうになったのを一所懸命に飲み込んで、続ける。


「……少し私自身の話をしてもよろしいでしょうか」

「ああ、構わない」

「兼村さんは、浅川高校をご存知でしょうか」

「ああ。まあ……やんちゃが多いと聞いてる」

「私はそこで五年間勤務していました。やんちゃな生徒には慣れています。だから瀬川君の担任、及び、登校を促す役目を任命されたようです」

「それは……災難だったな」

「……校長はともかく、他の教師陣には黙っているんですが……私はOBなんです、浅川の」


 兼村は一瞬驚いたような顔をしたが、その後納得といった表情になった。

日吉はそのまま、自分の話を続けた。

 中学後半から相当にやんちゃしていて、浅川に入学する頃には暴走族までもを作り、そのリーダー──界隈用語でいう(ヘッド)をやっていたこと。

思春期だったこともあって、教師に反抗するのも夜中まで家に帰らないのも当たり前の生活だった。

 そんな折、自分を教師の道へ導いた恩師がいた。頭ごなしに叱るでもなく、変に介入もしてこない。

寧ろ自分たちに興味をもってくれて、色々教えてほしいというスタンスで日吉たちに接してきた。

 初めは正直うざったいと感じていた。だが、それが自分らのことをしっかりと考えてくれての行動だと理解した時、日吉の心に突然、こんな人になりたい!という思いが湧いてきた。

 夢なんて無かったのに。漠然と将来はフリーターなんかして過ごすんだろうなと考えていたのにだ。

 それからは心を入れ替えて大学受験に向けて勉強に打ち込んだ。暴走族は解散となったが、仲間は変わらず接してくれたし応援もあって、無事教職免許の取れるところへ入学できた。

 卒業式に恩師へ感謝の気持ちを述べた時、頑張ったな、と言われて自然と涙が出てきた。その過去を活かして日吉は今教師としてここにいるのだ。

 聞き終わった兼村は黙っている。


「あ、すみません。喋り過ぎましたね」

「いや……だからか」

「?」

「先生を見た時に、なんとなくそんな気がしてな。勘が当たった」

「あはは、隠してるつもりなんですけどね。あの、失礼ですが兼村さんももしかして……?」

 

 兼村はにや、と笑う。黙って紅茶を啜りながら頷いた。

 どうやら日吉と同じような環境でやんちゃしていたらしい。ただそれは他県での話で、高校卒業と共にこちらへ越してきた。それからは綺麗さっぱり辞めたそうだ。

 両親が昔から飲食店を経営していて、子供の頃から影響を受けていた彼は、そのまま料理人の道へ進んだ。そして色々な店で経験を積み、Gerberaを起ち上げたのだった。

 最初の頃は客もスタッフも集まらず頭を抱えたこともあったらしいが、後に九条と出会い二人三脚でここまでやってきたらしい。それから軌道に乗り、だんだん人員も集まってきて、今や人気店として名を馳せている。

 ちなみに両親はこちらでも経営を続けており、時たま客として様子を見に来るそうだ。来店した連絡をあとからしてくるので、直接見られた訳では無いが恥ずかしくて仕方がない、と兼村は悔しそうな顔をしている。

 日吉は親近感を抱きながら料理や店の感想と、もう一つだけ伝えた。


「親友がGerberaを気に入っていて、また何度か客として来てもいいでしょうか」

「……まあ、経営者側としては願ったり叶ったりだが。どうしてそんなことを?」

「瀬川君は私を警戒しています。もし兼村さんへ助けを求めたら、遠慮なく私達のところへ行かなくていいと言ってください」

「……」

「無理に干渉しない代わりに、客として還元しながら見守らせて頂きたいです。勉強に長けている彼をちゃんとした環境に戻してあげたい気持ちはあります。けど、元気なのが一番です。無理強いしても意味がないのは浅川で何度も経験してますので」


 へら、と笑ってみせたが、兼村は正反対に苦い顔をする。

 少し静寂が訪れて、流石に距離を縮めすぎたかも、と内心焦り始めた時、兼村が口を開いた。


「先生、共同戦線を張ろう」

「共同戦線、ですか?」

「凪をそっちに戻したいのは、俺たちもそうだ。ずっと凪を見てきた。あんな風体になっちまったが根底は変わってない。真面目で頑張り屋。勉強が大好きな普通の高校生なんだ」

「……」

「学校へ行くよう促してみる。方法は何でもいい。定期的に様子を見に来て欲しい。たぶん……逃げるだろうが、好きに追いかけてもらって構わない」


 よろしく頼む、と手を差し出された。日吉はその手をしっかり握り返した。こうして、“瀬川凪説得作戦”に一人仲間が増えたのだった。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

すこーしだけキャラクターの掘り下げをしてみました。

話の都合上小出し状態で申し訳ないのですが、今回も読んでいただけると嬉しいです。

次回は新キャラがでる……かも出ないかも!

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