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【おかえり、ただいま】
あらすじ
間一髪のところで、高橋(カツアゲから瀬川が救った生徒)と日吉に助けられた瀬川。
緊張の糸が解れたのか、今まで隠してきた過去と、胸の内をとうとう日吉に明かす。
そこから時は少し過ぎ、日吉は誰かと待ち合わせをしていた──。
(……ドタキャンされたりとか無いよな……?)
日吉は腕時計を見た。針は、待ち合わせ時間のちょうど10分前を指している。
香吹駅前には、噴水をぐるりと囲うように設置されたベンチがある。ちょうど駅の入り口も見えるため行き違いのない場所だ。それを理由に、日吉と相手はそこで会う予定を立てた。
少しそわそわし始めて、目立たない程度に立ったり座ったりしてやり過ごしてみる。
都心の休日は、やはり人の往来が激しい。様々な人間が交錯していくのを眺めて時間を潰した。
ちら、とまた腕時計を確認すればもう待ち合わせ5分前だ。待ち人がどこにいるか探していると、スマートフォンが振動する。
待ち人、瀬川からのメッセージだった。送られてきたのは【着いた】とだけのそっけないもので、それを頼りに周囲を見渡す。
瀬川らしき人物はおらず、日吉はメッセージへ返事をする。
【噴水んとこのベンチでいいんだよね?】
【そう】
【じゃあ反対側かも。待ってて】
そう送ると言ったほうへ向かう。日吉のいた側と変わらず、老若男女問わず腰を掛けているだけで、彼はいない。
一応一周したり、そこらへ立つ人々もざっと見たが、どこにも瀬川は見当たらない。
少し離れた場所で日吉はLiteの通話機能を使った。
三回目のコールで瀬川に繋がる。
「もしもし?どこ?見つからないんだけど」
《それはそう。見つけられたらすげえと思うわ》
「いや、あのね……からかわないでくれる?」
《からかってない。……緊張してんだよ》
──あの一件を乗り越えたあと、瀬川から相談があった。
諸々の謝罪と、なぜ今の自分になったのかを全員に説明したい。けれど、一人だと逃げ癖が出るかもしれないので付いてきて欲しい。との事だった。
日吉は即了承をし、これから二人、Gerberaへ向かうのだ。
緊張という言葉にあの一件を思い出した日吉は、うんうんと頷く。
「まあ、謝るの緊張するよな。大丈夫大丈夫、俺がいるから」
《はあ……そういう意味じゃねえんだけど》
「はい?」
《まあいいや。アンタの立ってるところから学生見えない?目印、そこ》
「え?んーと……」
他人をそこ、というのもどうなんだ、と思いつつも日吉はまた周囲を見渡す。
すると、確かに制服を着た人間がいた。ベストにシャツを着た男子高校生だ。スマートフォンを弄っているように見える。
だが、近くに瀬川らしき人物はいない。日吉は少しムッとして返答をする。
「なあ、いい加減かくれんぼやめなって」
《隠れてない。言ったろ、学生が目印だって》
「だからさ……!」
《そいつの隣空いてるから座っといて。ばいばーい》
「は?お、おい瀬川!」
そこでぷつり、と通話が途切れた。確かに隣は空いている。座っといて、とはどういう意図で発言したのだろうか。何かしらの理由があって、そこへ近付けないのだろうか。
訝しみながらも平静を装い、指示通り隣へ座る。生徒は変わらずスマートフォンを眺めている。Yシャツにベスト、ネクタイをきっちりと締めていた。チェック柄のスラックスにしっかり磨かれたローファー。どこにでもいそうな、“The 学生”の姿だ。
やっぱりからかわれている!と抗議の電話をしようとLiteを使った。
なんと呼び出し音が隣から鳴り、思わず飛び上がった。
「わーっ!?」
「……」
「お、おま、おま、お」
「っせぇな。ちゃんと話すから座れよ。ご近所迷惑」
「あっ、え、う、はい」
怪訝な顔を向ける人々に平謝りしたあと、腰掛け直した。瀬川は画面から一切目を離さず、こちらを見ていない。
その隙にそうっと観察してみると、間違いなく彩都の制服だった。ベストとネクタイ共に校章が付いている。お手本とも言えるほどきっちりと着こなし、袖は捲らず、カフスまでしっかり留めていた。髪の色も彩都では問題ないし、パーマもかかっておらず短めに切りそろえられていた。
そんな彼を見て、もしかして狐に化かされたかと疑ってしまう。
「かっ……替え玉とか……?」
「ばっかじゃねえの。テーマ、真面目」
そう言うと顔を伏せたままだった彼が日吉へと顔を向けた。
そこには黒縁の眼鏡をかけた瀬川がいた。レンズ越しでもカラーコンタクトを付けていないのが見て取れる。七海と同じ栗色の瞳だった。
普段とかけ離れた姿を見て完全に硬直した日吉に、瀬川はため息をついてお得意の足組み腕組みをし、また目を合わさなくなった。
「こういう反応されんの分かってたけど……いやはや、いざ受けるとうっざいもんですね」
「あっ……!いや、まあ、その、いつもと……雰囲気が、ね?」
動揺してしまい、返答がしどろもどろになる。
「雰囲気どころの話じゃねえだろって。ハッキリ言えよ」
「……人は変わるもんだね」
「ちっ、腹立ってきた」
「いや、言えって言うから」
「……あー、首が苦しい。もう無理早く」
「お、おう」
さっさと歩き出した瀬川に急いで引っ付いていく。もみくちゃにされて横断歩道を渡り、繁華街に入る。
今、隣を歩く彼は本当に普通の、彩都の生徒である。
このままぽんと彩都に放り込んでも、誰も彼だとは気付かないだろう。
物珍しさについジロジロ目を動かしてしまい、勘付かれた日吉は横っ腹に軽いジャブを食らった。打った相手は涼しい顔をしている。
縁の両端を掴んで眼鏡を上げる瀬川はまるで漫画に出てくる理系キャラクターのようだ。呻きながらそう思った。
「まだ驚いてんの?」
「いっ、いやいやぁまさか」
「……驚きもするか。徹平さんと淳は面影あるとか言ってくる気がする」
「あ、そっか。バイト始めたの中学からなんだっけ?」
「そ。……あー、謝罪するのはマストだけどほんと嫌すぎる。この格好見せるの」
真っ直ぐ前を見据えてはいるが、先程からため息が目立つ。
自分が同じ立場だとして、丸坊主になって謝罪に行くような気持ちだろうなと考えると、確かに納得がいった。
実は、繁華街の入り口からGerberaまでは意外と距離がある。何か話題はと考えていたところ、普段と違う部分があることを思い出した。
「あのさ、その眼鏡は伊達?」
「いや?おれとんでもなく視力悪ぃんだよね」
「へえ。あ、じゃあカラコンも……」
「そ、度入り。裸眼での視力は……0.1以下だったかな」
「そんなに!?」
「だから外すと下手したら死ぬ。家の中でも何回すっ転んだか」
「ひえ……」
「アザ生産工場だよあの家。狭めえし」
「うわあ……」
アパートについても聞いてみたところ、あそこにはほとんど人が住んでいないようだ。
アザ生産工場、などと茶化しているが、万が一打ちどころが悪くて一人見つけてもらえず……なんて考えると怖い。
ちなみに、と瀬川が付け足す。
「外すと、この距離でもアンタの顔が認識できない。肌色のっぺらぼう」
「えっ」
「周りは……なんか色があるなあ、で終わり。これ、横から見ると……」
「わ……レンズぶ厚い……」
「そ。だから、他人から見るとかけてる時と外した時の目の大きさ、違うんだよね」
ほら、とかけ外しをして見せてくる。確かに相当違う。
スラックスの右ポケットから眼鏡拭きを取り出してレンズを磨く瀬川は続けた。
「コンタクトは楽だけど……目が乾くし、結局家じゃ眼鏡生活」
「ふーん……」
「市販の目薬って、逆に目を乾かせるらしい。それ知ってから目薬は眼科で貰ってる」
「へえー」
「……アンタ、目良さそうだよね」
「あぁ、まあ、眼鏡とは無縁の生活送ってるよ」
「あっそ。おれの興味ねえ話すんな」
「いや、じゃあ何で聞いたのよ」
「興味があったから」
「どっちなんだよ!」
よくもまあ喋るな、と日吉は思う。
最近まで返答すらなかったのに。黙秘、黙秘、黙秘ばかりの日々を繰り返していたのに。そのくせ、諸々を誤魔化そうとするとこの口は忙しなく動く。
それを不思議に思っていたが、あの日を境に腑に落ちた。
それからぽつぽつと本音を話すようになって、現在に至る。Liteでのやり取りでもそうで、何かメッセージを送れば簡単な返事は来るようになった。
だとしても、今日はやけに口が回っている気がする。
「あのさ」
「うん?」
「今日コイツよく喋るなって思ってる?」
「ぅえ!?」
日吉はまた驚く。やはり、双子のシンパシーだけではなく、本物の超能力者なのかと慄いた。彼の頭ならあり得ないこともない。
そう考えていると、瀬川は少し下を向いた。
「おれは、緊張したり警戒するとよく喋る」
「えぇ?またからかってんじゃないだろうね」
「見たろ、考査の結果見に行った時」
「……あ」
中間考査の結果を見に来ていたあの日、実は彼を遠くから見ていた。偶然、教科準備室から出てくると、廊下の真ん中で何かが始まっていた。
彼は壁にへばり付いている生徒達に対して早口、且つ、大声で捲し立てていた。今思えば、あの声音は威嚇とも捉えられる。
そして、共にここを歩いた春。
日吉が聞いてもいないのに、ここの店が良い、だとかこの道が近道で、だとか色々説明をしてきた。そういえば、あの会話の中で相槌を打つ間はほぼなかった。
彼のこれまでの言動は、緊張や警戒によって引き起こされたものであると、今しっかり理解した。
そのまま下を向いて歩き続ける瀬川の顔を覗き込んで、日吉はニッコリ笑う。
「でもさ、俺のことはもう怖くないでしょ?」
「……」
(……目が合わない時も、か)
こうして、面と向かって会話出来るようになったものの、視線が交わらない時のほうが圧倒的に多い。
それもまた、不安や緊張、警戒心から来るものなのだろう。今の時点では、まだ深くまで入りこまないようにしたほうが良さそうだ。
そのまま会話を続けていると、Gerberaまで辿り着いた。
ゆっくり話せるよう、店は一日閉めると兼村が言っていた通り、Closedの看板が立てられている。ガラス戸も中が見えないようブラインドが下ろされていた。
それらをじっと眺めた後、瀬川はバッグからブレザーを取り出して羽織り、扉の取っ手を掴んだ。
……掴んだまま、手は止まっている。はて?と日吉は疑問を抱く。
「入らないの?」
「……手が動かない」
取っ手を掴んでいる左手は、微かに震えている。疑っているわけではなかったが、緊張、という言葉、冗談ではないようだ。
日吉はそんな彼の手の甲を包むようにして握った。ハッとこちらを見た瞳と、ようやく視線が重なった。
表情こそ変わらないものの、瞳は心配そうに揺れている。
「大丈夫だって」
「……」
「何があったって俺がいるよ。ね?」
少しだけ間を空けてから、瀬川は頷いた。二人で取っ手を押す。
カロンコロン、と聞き慣れたベルが鳴り、ブラインドを潜ると、兼村、九条がすぐ目に入った。七海の姿が見えないが、まだ来ていないのかもしれない。真っ先に先生ー!と手を振った九条だったが、日吉の隣にいる顔を伏せた“誰か”を見てすぐ顎に手をやった。
「先生、そちらは……?」
「えーと……」
「凪は?あっ、逃げた?」
「うーんと……それは諸々本人から」
「本人、と言われても……?」
日吉は苦笑いをする。“誰か”は咳払いをすると、顔を上げた。
「……久しぶり、“淳兄ちゃん”」
「……?……んなッ!?凪ィ!?」
どたばたと近距離まで詰めてきた九条は、四方八方から彼を見て騒ぐ。完全に興奮しきっている。
それを見た瀬川は、だから嫌だったんだ、と言ってそっぽを向いた。
「うおー!凪だ!よく見たらあの頃の凪だ!てっちゃん!早く!ほら!」
「喧しい。少し静かにしろ。……ん、そうだな。……なんだか懐かしい」
「あの、さ。とりあえず、先に全部話す、わ」
途切れ途切れに言うと、瀬川の足はとあるソファーへと向かっていった。
その足音にひょこ、と顔を上げたのは七海だ。隠れていたようで、日吉は気付けなかった。瀬川は分かっていたようで、迷いなく歩いていく。そんな彼から、七海はずっと目を離さずにいた。喜怒哀楽のない、かといって無表情でもない、何とも言えない顔でじっと見つめている。
対して、瀬川は一度も合わさずに日吉たちを見ながらポンポンと席を叩いた。来いという意味か、と成人三人はソファへと向かう。
六人掛けのそれ、壁側にもたれかかる瀬川、一つ空けて座る七海、それを気まずそうに見つめる成人男性三人全員が腰掛ける。
数分空白があってから、瀬川が口を開いた。
「最初から最後まで話すの、結構体力いるんで……途切れ途切れになるけど、許して。……ってか、そもそも他人に話したことねえけどさ」
そう言うと、彼は今まで自分の過ごしてきた時間を語り始めた──。
母親から受けた凄惨な行為、勉強を好きになったきっかけ。今まで友達と呼べる存在はおらず、酷いイジメを受けた。
結果、最終手段として、弱い自分を変えるために容貌や素行までを変えた。
それが原因で不登校など様々なトラブルを起こしていることに気が付いてはいた。
けれど、他人に迷惑をかけるのが怖くて頼れなかった。だから一人空回って、理解されない行動を取っていたのだと。
それら全てひっくるめて、今の自分が出来上がったのだということを伝えた。
「──とまあ、こんな感じ。ご清聴ありがとうございました」
静まり返るなか、瀬川はバッグから大袋の菓子類やら人数分の清涼飲料水等々を取り出した。曰く、お詫びとお礼を兼ねて持参したらしい。
長いこと話した瀬川は、少し咳き込んでいる。飲物を口に含んだあと、再び壁にもたれかかる。だいぶ疲れている様子で、今にも眠ってしまいそうだ。
一気にトラウマを話したのだから当然である。チョコレート菓子を手渡したが、受け取ったままぼんやりしている。
苦しい環境にいたことを知った他三人は言葉を失っている。先に聞いていた日吉でさえ、まだ気分が悪くなる話だ。
「……ん、そうだ。メインはそこじゃなくて」
思い出したように、瀬川は身支度を整えてから、勢いよく頭を下げた。額がテーブルに当たる。
「店長、副店長、先日の件、大変申し訳ありませんでした」
そう、彼が今日皆をここに呼んだのは、今までの経緯を説明したうえで、彼らに謝罪をしたかったからだ。
二人が顔を見合わせたのを知らないまま、頭を下げ続ける。
トラブルを起こした日、質問され続けて腹が立ってしまったこと。
あのまま受け流し続けることも出来たし、後日、大喧嘩なり話し合いなりをすれば良かった。
最近起きた件を含め、隠さず早めに相談していれば、あんな事態にはならなかったこと。
「……全部、おれのせいです。あんなに甘やかして頂いていたのに、裏切るような行為をしました。解雇してもらって構いません。本当に申し訳ありませんでした」
少しの間、沈黙が流れる。瀬川はその間ずっと頭を下げ続けている。
沈黙に耐えられなくなった日吉が助け舟を出そうとした時、兼村が口を開いた。
「……瀬川凪」
「……はい」
「……おかえり」
「……えっ」
顔を上げれば、そこにはいつもの二人がいた。少し微笑む兼村と、ニカッと笑っている九条だ。
二人は言う。
「解雇なんてするわけないじゃん。うちの息子ありきなんですよ、ここは」
「そうだ。お前が何度暴れようと、嫌われようと俺は父親ヅラし続ける」
「俺も兄貴ぶっちゃうもんねーだ」
「大体、後釜はどうする。せめて何人か育ててからにしろ」
「そうだよー。オレ絶対やりたくないし」
「いや、お前はやれ。なんのための副店長だ」
「あの頃人いなかったからなっちゃっただけじゃん!ふんっ、なによ!副店長の座なんていつでも凪にくれてやるわ!」
呆気に取られて瀬川は目が泳ぎ出す。想像していたものと違ったのだろう。たぶん軽いパニックを起こしている。
日吉が指で視線誘導する。パッと目が合ったとき、OKサインを送った。日吉の「大丈夫」という言葉が本当だったことと、あたたかい対応に落ち着いたのか、また壁へもたれかかった。ふーっと長いため息が出た。
「……よかった」
「な、言ったろ?大丈夫だって」
「そうそう。悪いけどさ、どうでもよかったら朝昼晩色んなとこ駆けずり回って……」
「ここは、“居場所”って考えていいんだ」
「凪……」
緊張の糸がほぐれたのか、言葉がいつもより柔らかい。ふにゃふにゃとしている。本当に力尽きたらしい。
一つ席を空けて座っていた七海が動いた。すすす、と瀬川の方に寄っていってその右肩に頭を乗せた。
「心配したんだよ」
「うん」
「いっぱい、いっぱいだよ。いっぱい凪のこと考えたよ」
「おれも、いっぱい七海のこと考えたよ」
「……おかえり、凪」
「……ただいま、七海」
そう言うと、双子はくたりと互いに身を預けたまま黙ってしまった。
その様子を見た兼村は、言葉もなく厨房へ向かっていく。ふと備え付けの時計を見てみれば、14時を過ぎていた。と、同時に日吉の腹が鳴る。自分の緊張もほぐれたらしい。
「あはは、腹空くよねえ」
「そうですね。朝、しっかり食ったんだけどなあ」
「さて、オレも手伝いに入るかな。先生は双子ちゃん見てて」
「あ、はい。すみません」
「いえいえー」
気にしないでーと付け加えて九条も厨房へ歩いていった。
さて、二人へ話しかけてみるかと向き直ると、微笑ましい光景が映ってそのままにしておく。
双子は既に寝息を立てていた。それぞれの理由で気を張って、各々満足に眠れていなかったのだろう。
日吉は菓子をつまみながら、それを見守り続けた。
「──?」
料理を持って戻ってきた兼村、九条を見て、日吉は二人を起こしていた。
七海はすぐに起きたが瀬川は全く起きる気配がない。声をかけたり、柔く肩を叩いてみたりしたが、微動だにしない。
「あー、いつものやつだね」
九条はどこからともなく目覚まし時計を持ってきた。昔ながらのアレ、である。
それをセットし、瀬川の近くへ置いた。一分ほど待つと、けたたましい音が鳴る。すると素早く激しい平手打ちが時計を止めた。
このとき、日吉の脳裏にはとある生き物が浮かんでいた。
彼の姉と共に住んでいる二匹の生き物。遊びに行くとよくじゃれてくる。
遠くからおもちゃや、手を揺らせば獲物発見!とばかりにすっ飛んできて、目標物に甘噛みしたり、蹴りながら丸まる姿は実に愛らしい。
懐けば撫でさせてくれたりもするが、彼らにも不快な部分はあるらしく、触ったが最後、激しいパンチが飛んでくる。自分も顔面へ食らったことがあり、意外と重いそれにもんどり打った覚えがある。
その後、何でもないような顔をして甘えてきたりする憎めない生き物、猫。
そして、テレビなどでも耳にしたことがある彼らの必殺技。
その名も──。
(猫パンチか?)
瀬川のそれも必殺猫パンチに見えた自分は疲れているのだろうか。あまりの素早さに呆けているうちにも、兼村と九条が次々料理をサーブしてくれる。
既に完全覚醒している七海はお礼を言いながら、運ばれてくる料理に目を輝かせている。
パスタに、オムライス、シチューなどが大皿へてんこ盛りにされている。今日は洋食がメインらしい。また腹が鳴った。
隣に座った九条が、お客さん、この光景初めて?と、しなだれかかってきたのに、反射的にはいと頷いてしまった。ケラケラ笑いながら九条は目覚まし時計を回収する。
「凪はね、一回寝ると起きないんだよ。たぶん天変地異が起こっても。だけど、この魔法の時計、名付けて“助けてジリリンマン!”だと起きるのよ」
「へえー……」
「家でも同じようなの使ってるって。スマホでもデフォルトでこの音あるじゃん?それを大音量でセットしとかないと起きられないんだって」
「なるほど……」
ジリリンマン、に起こされた瀬川だが、見たところまだ半分夢の中にいるようで、七海に揺さぶられている。
ここで食事の香りに気が付いたようで、口だけごはん、と動いた。
「そうだよ凪ー、ご飯だからおーきーてー」
「……」
「凪ったらぁ!ご!は!ん!」
「ごはん……きのう……たべた……」
「今日も!明日も明後日も食べなさーい!」
双子コントが繰り広げられるなか、兼村が戻ってきたところで、瀬川のルーティンを知っている父親と兄貴は日吉へ情報を渡す。
曰く、アルバイトを終え店を出るのが22時過ぎ。23時前には寝支度をする。0時から5時辺りまで勉強をして、7時には起床する。
それからアルバイトまでどこかで勉強なりなんなりをしているようだ。これも地道に集めた情報で、もう少し深いところまでは分からないらしい。
もう少しで完全に覚醒しそうな瀬川を見ながら、“父親”は言う。
「だからこそ……機嫌も悪けりゃ食も細い。隠してるだけで、具合が悪い日も多いんじゃないか?」
「昼寝もしないってよ。だからたまにエネルギー切れ起こして、退勤後に休憩室でダウンしてる日もあって、ジリリンマンを導入したんだ」
考査二日目を思い出す。
顔面蒼白で登校してきて、気絶しそうになった彼を抱えたが、今思えばあまりにも軽すぎたような気がする。
平均的な男子高校生の体、それも自身で支えられない場合なら相当重量があってもおかしくない。
「凪自身の“全部”を勉強に捧げてるんだろうな」
「熱心なのは良いことだけど、体優先で過ごしてほしいもんよ」
「……長いこと近くで見守ってきたお二人からしたら、心配ですよね」
「ああ。だから、先生の力が必要だ。去年のあの萎びた奴とは違う。凪もそろそろ理解してるはずだ」
「うんうん。学校以外のことはオレたちでなんとかするから。大変だと思うけど、改めてよろしく」
「はい、もちろんです。……俺も放っておけないので」
「──もうっ、やっと起きたー!ご飯冷めちゃうよ!」
その言葉で大人たちは会話を辞めた。やっと起きた瀬川は大きなあくびをしてから伸びをする。
いつの間にか目の前にたくさんの食べ物があることに気が付いた途端、瞳をキラキラさせる。
既視感を抱いたが、それよりも腹の音のほうが大きい。
兼村の、とにかく食えとの言葉が音頭となり昼食会が始まった。
「──ごちそうさまでした!美味しかったあ!」
七海の元気な声が店に響く。瀬川も静かに手を合わせている。
たらふく食べて一休みしていた日吉だったが、慌てて財布を取り出して、支払いを申し出た。
兼村はそれを拒む。また客として来てくれればそれでいいと。必要以上に遠慮するのも憚られる。今回は好意を受け取り、また還元しに来るよう約束をした。
その後、瀬川と兼村は今後の連絡をLiteでやりとりすることを決め、今日のところは解散となった。
手を振って見送ってくれる二人に、瀬川はまた深々と頭を下げる。日吉も会釈をした。
七海はスキップをしながらキャッキャしている。
「やったー!また凪パイセンとバイトできる!」
「パイセンて……どっから覚えてくるんだよ……。前のカチコミとかもさ」
「えへへー。あたし漫画読むの好きだからそこから覚えたの!」
「はーん」
「凪も読みなよー」
「興味ねえ」
「んもう……。ねえねえ、ひよしんは知ってる?“格闘!ジャンパチ!”シリーズ」
「お、知ってる知ってる!俺が高校の時から連載してるやつだよ。えーと……単発編、確変編の途中までは読んだかな」
「今ね、FEVER編やってるんだけどー」
まさか、若い世代の口から懐かしい漫画のタイトルが聞けるだなんて思いもしなかった。
日吉と七海は夢中になって繁華街を出るまで漫画の話で盛り上がってしまった。
我に返った二人はハッと瀬川の方を見たが、特に気にしている様子はなく、むしろ四つの瞳へ怪訝そうな顔をする。
「えと……ごめんね凪。興味無いって言ってたのに盛り上がっちゃって……」
「は?何の話?」
「え?」
なんだか噛み合っていない。
七海は、再度、漫画の話で勝手に盛り上がり、疎外してしまったことを謝罪した。
対して、瀬川は連立方程式のことを考えていたためそもそも会話自体聞いていなかったと答えた。
噛み合った瞬間、七海はぷんぷんと怒り出す。
「もー!心配したのに!」
「え?さっきの?もう終わった話だからいいって」
「そうじゃなくて!」
「じゃ、なに」
「むーかーつーくー!今日寝落ちするまで通話繋いでやるもんね!」
「何怒ってんだか知んねえけど、お好きにどうぞ?おれは勉強してるからレスポンスしません」
「じゃあついでに化学教えてもらっちゃおうっと!邪魔しちゃうぞ〜!」
「……まあそれはそれで、復習になるのでおれとしては吝かではない」
「うっ……ぐぬぬぅ」
「っていうかそろそろ期末あんじゃねえの。本腰入れたら?」
「あっ……。お願いします教えてくださーい!」
「ちっ。しゃあねえなあ……」
言い合いながらもみくちゃにされて歩く双子を、後ろからハラハラしながら見守る。こうして、少し危なっかしくて微笑ましくて、可愛くて愛おしい子供たち。
両親も、こんな思いで自分を育ててくれたのだろうか。
母親なんて、腹を痛めてまで自分を産んでくれたのだから、余計にそう感じてくれていただろう。だとしたら嬉しい。
ふと、思春期だった頃を思い出した。
過去に戻れるのなら、自分をぶん殴ってやりたいくらいには荒れていた。
家族には随分酷いことをしたし、口汚いことも言った。
朝帰りを叱ってきた父親と取っ組み合いをしたり、姉と口喧嘩はしょっちゅうで、弟を怖がらせるし、母親をたくさん泣かせた。
なのに、家族全員、絶対自分を見捨てなかった。
家へ帰れば毎食用意されているし、名前を呼んでくれる。温かい寝床もある。
徐々に情緒が安定してきた頃には、皆で出かけたりして──。
注意されることが、叱られることが、見守られることがこんなに幸せだったんだと、ちょうど彼らの歳の頃気が付いた。
そうして日吉は恩師と出会い、今、夢をかなえた。
「ひよしーん?」
「えっ、あ、なに?」
「あたし寄るとこあるから、ここでバイバイしようと思って」
七海はすぐ目の前のビルを指差している。CDショップが目的地らしい。駅とビルとで直結しているそうで、帰りも危険は少なさそうだ。
「OK。またお店遊びに行くから」
「たくさん注文してね!売上がよかったらお給料上がるかも!」
「だからホールの仕事増やすなって……誰が仕切ると思ってんの」
「凪パイセンであります!」
「ほんっとにうざ……」
「えへへー!じゃねー!」
元気に手を振りながら去っていく彼女を見送る。ちゃんとビルの中へ入っていくのを見た。と、同時に四脚、駅へと歩みを進める。
「やっぱり帰るのね」
「だってもう用事ねえし」
「俺もだわ。明日振休だし今からゆっくりしとこう」
大きなあくびをする姿を、少し不安そうな瞳で見られていることを日吉は知らない。
相も変わらず、行く先行く先、人、ひと、ヒト。何とか改札を抜けホームへと辿り着く。
色々な路線が入り混じるこの駅は、電車の本数も多い。数分で代わる代わるやってくる。
電光掲示板を見ると、5分ほどで瀬川たちの乗る電車がやってくるようだ。
瀬川は乗り場へ並ぶ。だが、普段なら当然のように隣へ来るはずの日吉が来ない。
振り返ると、備え付けの椅子へ腰掛けている。背もたれに寄りかかって天井を見ている。
瀬川は近寄って疑問をぶつけた。
「……アンタ、乗らねえの?」
「え?いやあ、時間ずらしたほうが良いのかなって。ほら、施設行った時そうしたかったみたいだから」
へら、と笑うと瀬川は少し不機嫌そうにした。だが、次に聞こえてきた言葉に日吉は真逆の顔になる。
「今日は違う」
「そっかー。……ん?」
「……一緒に、乗ってやってもいい」
はて?と思っている間に電車が来てしまった。理解が追いつかないまま最後尾へ並ぶ。
降車する人々を見送ったあと、すぐに二人分席が空いているのを見つけた。瀬川は迷わずそこへ座り、座席を叩いていた。昼間のように呼んでいるらしい。
恐る恐る座ってみたがトラップではなさそうだった。ジャブや肘打ち、猫パンチは来ない。
電車に揺られながら外を見た。夕焼けに差し掛かった空が綺麗だ。暑い日も増えてきて、そろそろ夏本番がやってくる。
そのうち、日吉の降りる駅が近付いてきて、じゃあまたと声をかける。乗ってからずっとスマートフォンを弄っていた瀬川は空返事をした。
到着アナウンスと共に降り、そのまま改札へ向かおうとした時、袖がぐいと引っ張られた。
何かトラブルが?と一応謝罪を口にしながら状況確認しようとすると、目の前には宝石があった。
それには日吉がしっかり映っている。
「ついてきてくれてありがと」
見惚れたその一瞬だけ、雑踏にもアナウンスにも負けてしまうような弱さの囁き。
だけれど、日吉の体内には一気に染み込んだ。まるで、真っ白な紙にインクを零したように。
宝石の持ち主は、するりと人混みを抜けて電車へと戻っていった。その後、車内はほとんど人で埋め尽くされて、宝石の姿は見えなくなる。
気が付いたときには、家でスーパーの弁当を食べていた。
右手に箸、左手に缶ビール。テレビにはよく見るバラエティ番組が映し出されている。有名芸人の一言で会場がドッと沸く。
「……えぇ!?俺ワープした!?っと、おとととととと!」
あわや飲みかけのビールをこぼしそうになったが、危機一髪。無駄にせず済んだ。
喉越しとともに記憶を辿っていくが、やはりあの駅のホームから自宅までの記憶がない。
近くにあった鞄の中や、上着を手探るが貴重品も全て揃っている。だからこそ目の前にある物を飲み食いできている。
(……それにしても、可愛かったなあ、瀬川)
普段とはかけ離れた装い。でも口から出てくるのはいつも通りのそれで。
自分から謝罪をしたいと申し出て、逃げずにしっかりとやり遂げた。そうして気を許した寝顔や食べ物を頬張る姿を見せてきた。
皆、ああやって色々な環境で成長して、自分の手を離れる時がやってくる。来年にはそうなってしまう。今からでも目頭が熱くなった。
これで、やっとスタートラインに立てた気がする。だが、他生徒と比べて瀬川との距離はまだマイナスだ。
無理をさせず徐々にプラスへと近付けて、様々な体験をさせて楽しませてやりたい。三年次には修学旅行もある。少しでもクラスに馴染めるように続けて助力していかなければ。
「……よし!まずは休みを楽しむぞ!飯食ってすげえ寝て……!」
えいえいおー!と一人士気を高める日吉は、とある時この日を思い出して、酷く動揺するのだった。
――――――――――――
瀬川は布団の中で丸まっていた。
Liteを開いて、日吉とのトーク履歴を見ていた。
関わるな、と言ったあの日。今度また話そうと返してくれた。
逃げてから二週間分、ずらりと連ねられていた言葉は何度も読み返した。
今日の謝罪の件を申し出た時も、二つ返事で了承し、来てくれた。
たくさん食べていたし、話もして、兼村たちと笑っていたけれど、時折疲れた顔もしていた。
駅のホームで彼の様子が一番顕著だった。
改めて思った。もう関わらせないほうがいいのではないかと。自分に深く関わった人間は、疲弊させて傷付いてしまう。母親や、日吉のように。
でも、それでも、縋りたくなってしまった。
この“気持ち”が止められない。
だから、聞こえないようにあの喧しいホームで礼を口にした。
(……知らない、こんな気持ち。近しいものはあっても、喜怒哀楽のどれでもない。辞書にもどこにも載ってない……)
まんまるになっているうちに、七海からメッセージが届いた。
帰り際に話した通話の誘いだった。それに返事をして、準備を始める。
(……一旦忘れよう。期末考査の対策、しっかりしなくちゃ)
勉強セットを机の周りに配置する。しばらくするとスマートフォンから呼び出し音が鳴った。スピーカーモードにして、会話を始める。
この日、瀬川が抱いた気持ちに答えが出たとき、彼は酷く困惑するのだった。
さてさて、そろそろ距離が縮まってきましたね。まだまだ課題はたくさん残っていますが一段落。
黒縁眼鏡大好きです。
凪がかけてたらいいなと想像していた眼鏡とビタッとハマる商品があったので資料として買いました。推し、強い。