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なりたくて  作者: 神咲
13/15

きらめきセーブデータ

【全部教えてよ】


あらすじ

カツアゲをしてきた加害者相手に一人立ち向かう瀬川。見つけられないまま過ごしていた日吉の元へ、一人の生徒がやってきて──?


 日吉たちが全力疾走していた頃、話し合いは着々と進行していた。

 相手方が作ってきたらしい資料を瀬川へ提示し、すぐ読むように指示をしてきた。

 舌打ちしながら開いた資料には、今回の騒動の内容、それにおける被害者側からの措置や要求などが詳細に書かれていた。応じない場合、民事裁判に持ち込むとのことだった。一応和解の余地はあるらしいことも記載されている。

 事前に調べていた情報と、考え得る状況とが合致する。変わらず崖っぷちに立たされているのに、なんだか面白くなってきた。

 たぶん弁護士やら専門の人間に書いて貰ったのだろうと考え、後学のためにじっくり読んでいると、大人たちは返事を急かしてくる。

 それをハイハイ、と手であしらった。目は資料から離れない。

 

「わぁってるっつーの。考える時間くらい貰えねえのかよ。金持ちはもっとゆったり優雅な奴らだと思ってたけど意外とせっかちなんだな。どっちにしてもそっちは金もらえるんだからさあ、そちらさんはゆっくり世間話でもしてたら?おれもゆっくり読ませて貰うわ。こういうのってさ、隅っことかに小さい文字で大事なこと書いてあったりするし」


 大人たちは各々非難を口にしたが、すぐに自分の子どもたちも交え世間話を始めた。

 ポーカーフェイスを装いながらも、頭の中はぐしゃぐしゃだった。考えても考えても良い案は浮かばない。

 ふっかけた時から分かっているし、逃げている間だって良い案は浮かばなかった。

 というか、自分を手助けするようなものはこの世に存在しない。

 それでも、何か抜け道があるんじゃないかと、浅ましくも希望を求めてしまう。


(落ち着け。考えろ、考えろ。時間稼ぎしたって意味ないことくらい知ってる。払えるわけないんだって。でも……どうする、どうする、一人で何とかする方法。たくさん調べたろ?何かあるはず……考えろ考えろ考えろ……っ)


 ポケットの中で握っている拳に強く強く爪が食い込んだ。血が滲んでいる気がしてくる。吐血までしそうな思いだ。

 もう、苦しい。それでも、意地でも表情は崩さない。

 意外と時間が経っていたらしい。大人たちは、どうするのかと再度問うてくる。

 瀬川のこころは緩やかに諦めへと向かっていく。


(……ま、やっぱ敗訴決定、中退返済ルートしか……)


 瀬川は思う。

 このこころは、何回ため息を付いただろう。何回粉々になるのだろう。ここまで叩き潰しているそれを、今度は容赦なく轢き殺す。

 でも、それは全部自分が悪いから、とまた諦めが来る。

 はいはい負けました、と瀬川が言いかけたとき、扉が勢いよく開いた。

 全員が驚いて見ると、そこには一人の生徒が立っていた。


「瀬川君!助けに来たよ!」

「っ……!?君……!」


 あの日、瀬川がカツアゲから助けた生徒、高橋が立っていた。

 高橋はキッと大人たちの方を見てから、唖然とする瀬川の左隣に座った。


「な、なんで」

「後で話すよっ。先生ー!」

「はいはーい」

「……!」


 高橋が呼んだその人は、間延びした返事をした。

 精悍な顔付きをしたその人は黒のスーツに身を包んでいて、より高身長が際立っている。髪はしっかりセットされていて、清潔感もある。


「失礼しますー。あのう、俺も同席していいですかね?」

「あ、アンタ……」

「うちの校長が時間を間違えて、この子を一人で寄越したらしくて。代わりに保護者として同席させてもらいます」

「いや、それはおれが」

「お子さんはともかく、大人数人で寄ってたかってこの子一人追い詰めるのはどうかな、と思いましてね」


 そうやって朗らかに右隣に腰掛けてきたのは日吉だ。だけれど、いつものゆるっとした雰囲気は微量も感じられない。

 ぽかん、としながら左へ右へと視線を動かしていると両側から「大丈夫」と言われた。


(は?えっ……なにが……夢?)


 同じ状態だった大人たちも我に返り、突然なんだ!と喚き立てる。

 それにも負けず、高橋は大きく息を吸い込んだ。立ち上がり、机を叩いてハッキリと言い切った。


「僕は!この三人に!カツアゲされかけました!それを助けてくれたのが瀬川君なんです!彼は悪くありません!」


 しん、と静まり返る室内。座り直した高橋が、瀬川へ手渡す。

 彩都の校章の入った手帳だった。


「これ……」

「うん。あの日、落としてっちゃったんだよ」


 返却が遅くなったことを謝る高橋に、瀬川の顔は曇る。


「……喋んなって言ったじゃん」

「うん。でも、僕が嫌だったんだ。ずっと隠して君のせいにして、あとから後悔するのが嫌だった」

「でも……」

「それとね、今日来たの僕だけじゃないんだ。みんな!入ってきて!」


 高橋が呼びかけると、ぞろぞろと他の生徒たちが入室してきた。男女問わず20人近くいる。高橋と徒党を組んだ例の彼らである。

 どさっと大量の紙束が相手方へ落とされた。大人たちがそれを凝視する間に、高橋は説明を始める。

 それを見た瀬川の顔はますます曇った。 


「瀬川君の件とも関係あります。僕を初め、みんなこの子ら……ううん、こいつらお金持ち組にいじめられてました。これ、こっちから訴えるための署名です」


 顔を見合わせながらも証拠を出せ!と大声を出す大人たちにも怯まず、高橋は続ける。


「はい、みんな何かしら持ってます。写真とか、録音とか色んな方法で。出そうと思えば今出せます」


 すると控えていた他の生徒達が色々と取り出す。

 現場を撮った写真の引き伸ばしや、ボイスレコーダー等。

 流した音声や見せた写真に我が子たちの面影があることが分かり、そんな話聞いてない!と、今度は自身の子を問い詰め始めた。

 だんだんと焦ってくる相手方を見て、瀬川が口を挟んだ。


「とまあ、こういう三文芝居を付ければ許してもらえるかなー、とか思ったりして。抜け道探してたんだよねー。ちょうどいいタイミングで入ってきてくれて助かったよ。あー、端金払ってよかった」

「瀬川、嘘つかなくていい」

「っ……!」

「そうだよ。これ、本当の話なんだもん。僕たちも我慢できなくて来たんだから、ゆっくり休んでて」


 日吉、高橋が話を進める中、イレギュラーが発生した瀬川の頭の中はパニックを起こしていた。考えていたシナリオからずれてしまって、どうしたらいいのか分からない。

 自分一人、舞台で踊り、フィナーレを迎えようとしたところに、新たなキャストが入ってくるなんて思っても見なかった。

 もうアドリブが利かない。


(な、なんで、どうして……他人が介入するのは、絶対にだめで……)


 巻き込んでしまったことへの自責で、瀬川の顔はどんどん青ざめていく。高橋を初め、生徒たちのフォローをしながら、日吉はそれを見る。

 たぶん、今日吉たちが入ってこなければ、瀬川は自分の罪として何もかもを受け入れて、言う通りにし、また黙って姿を消すだろう。

 そうやって、自分に罪をなすりつけてでも他人を助けようとするのに、自分に対してはどこか他人事のような振る舞いを見せる。

 どうして“そう”なるのかが知りたい。

 考えているうちに、問い詰められていた鐘森の生徒が大声で謝り始めた。

 カツアゲもしかけたし、他の生徒が言っていることも本当だと白状した。自らの子どもと供に平謝りする大人たちへ冷ややかな目を向けながら、今後の方針を決めるべく、話し合いは続けられた。

──結果的に、今回は和解と近い形で終結した。

 条件として、出来るだけお互い干渉はしないこと。

 今後、カツアゲなどいじめ行為をした場合、今度こそ証拠等を使って徹底的に追い詰めること。この点については少々非難を受けたが、被害者側にも弁護士がいることを伝えると黙った。

 すごすご帰っていく加害者側を見送ったあと、生徒たちは歓声を上げた。

 そうして、彼らは今、帰宅すべく廊下を歩いている。嬉々とした表情を見て、日吉はほっとする。生徒たちと別れ、駐車場まで見送りに来た高橋が大きく頭を下げた。


「日吉先生、ありがとうございました!」

「いいえ、こちらこそ。助けてくれてありがとう。俺だけ来たって、証拠がないんじゃ信憑性に欠けてたしさ」

「僕たちも誰か大人がいないとって考えてたので……どっちも解決できてよかったですっ」


 遠くでこちらを見ている瀬川に気が付いた高橋は、彼へ走り寄って行く。

 すぐに両手を握られて驚いた瀬川は少し後退りした。


「なっ、なに」

「ほんとにありがとう」

「……」

「瀬川君のおかげで、僕はあそこまで勇気を出せたんだよ」

「……それは、君が元々そういう力を持ってただけじゃない?」

「ううん。持ってたとしてもさ、発揮できなかったら宝の持ち腐れ、だよね」

「……」

「きっかけをくれたのが瀬川君だから、改めてお礼が言いたいんだ。ありがとね」

「……」

「僕、頑張るよ!もしまた何かされてもやっつけてやるんだ!そうだ、Lite交換しない?喧嘩教えてよ!」

「い、いや、教えるレベルじゃ……」

「QRコード出すね!えーと……」


 愛車に近付きながらそのやり取りを見て、少し安心した。もしかしたら、瀬川にも気の許せる相手が増えるかもしれない。

 お互いにスマートフォンをしまって、二人へ元気にお礼をしてから高橋も帰宅していった。駐車場に残されたのは、日吉と瀬川だけだ。

 しばらく沈黙が続いたあと、じゃあ、と瀬川も去ろうとする。


「いやいや待ちなさいよ。こっからじゃ遠いでしょ」

「電車乗る」

「ここ定期区外じゃない?電車賃浮くよ?」


 車の扉を開けながら手招きすると、舌打ちが飛んでくる。もうこれにも慣れっこになってしまった。

 渋々乗り込む瀬川は言わずともシートベルトを付けた。こういうところは本当にしっかりしているな、と日吉は改めて感心する。

 鐘森を出てから少しして、日吉から話しかけた。


「ったく、アレ相手に一人で何とかしようなんて、天才瀬川君にしては無策過ぎない?」


 説教ついでに皮肉も付けてみたが無反応だ。怒りもしないし当然笑いもしない。

 予想していた態度だ。気にせず話を続けた。


「先に言っとく。愛車なんで暴れないで欲しいんだけど。……お母さんを頼ろうとはしなかったの?」


 その言葉に瀬川は大きくため息をつく。窓の開け方を聞かれたので運転席から開けてやった。

 風を受けながら遠くを見る瀬川は言った。


「っていうかさ、皆なんで母親ありきで話を進めるのかが理解できないんだけど」

「……え?」

「記載番号に何回かけても繋がらない?んなの当たり前だろ、いないんだから。ずーっと前に男と出てったきり」

「……!」


 思わず赤信号を通り過ぎそうになった。車はしっかりと停止線内で止まっている。

 ルームミラー越しに見る瀬川は、変わらず窓の外を眺めていた。

 普段と同じ澄ました顔のままで。


「あれから変えたんだろ、どうせ」

「……変えた番号、瀬川は知らないの」

「知らねえ。会ってねえから」


 信号が青に変わる。

 一旦運転に集中しようとするが、すぐに脳はあのアパートを映し出した。

 人の行き交いから外れた、老朽化が進むあの場所。

 廃墟とまではいかないけれど、人が住むには少しさみしいあの場所。

 しばらく車を走らせると、彩都が見えてくる。左折ランプの音がやけに大きく聞こえる。

 駐車場に車を停めて、一呼吸おいてから日吉は瀬川に向き直った。


「じゃあ、あそこに一人で住んでるってこと……?」

「そうだけど何か問題ある?」

「家賃とかは?振り込んでくれたりとか」 

「するわけねえじゃん。出てくときに通帳だけは死守したけど、いざ開けてみたら雀の涙だった。だからそこからはバイトバイトバイトの日々ってわけ。家賃、学費の差額、通信費、光熱費やらなんやら……首が回らないとはまさにこの事」

「……」

「あーあ、そろそろ次のとこ決めないと。切り崩すものもないし」

「……Gerberaに戻る気はないの?」

「こんな問題児、また雇う気になる?おれが経営者だったらなりませんって」


 呆れたような、諦めたような声音でそう言う。皆心配していることと、いつでも戻ってきて欲しいと思っている旨を伝えても態度は変わらなかった。

 日吉が黙っているとだんだんとイライラしてきたのかお得意の貧乏揺すりが始まった。


「早くこっから出してくんない?帰りたい」

「……家まで送ってく」

「は?んなの必要ねえよ」

「ここ二週間ちょっと疲れたでしょ。少しは休みな」

「おい、開けろったら……!」


 瀬川はすぐに、運転席側に各扉のロック機能があることに気が付いたらしい。日吉は聞かないふりをして構わず発車させた。


「聞いてんのかよ!出せって!」

「事故りたくなかったら暴れんな」

「……!ちっ!」


 もうルームミラーは見なかった。これから先、目が合わないことを知っていたから。

 商店街近くのタイムパーキングへ車を止める。扉のロックを解除すると同時に、瀬川は何も言わず去っていった。日吉はその後を追う。

 平日の昼でも商店街は賑わっている。不思議と、人混みの中でも瀬川の背中を見失うことはなかった。

 商店街を抜けると、少しの間静寂が訪れる。一人の高校生と、スーツを着た成人男性。他に歩行者はいるし、特別二人が目立つわけでもない。

 前を行く瀬川の背中はいつもより小さく見える。小石を蹴りながら歩いているらしい。

 案の定アパートは通り過ぎた。やはり、帰宅したかを確認しに追跡したのは間違いではなかった。近くのT字路を右へ曲がる。

 遠くから子供の声が聞こえてきた。すると、すぐ公園が目に入る。楽しそうな声が響いていた。

 近くの保育園、幼稚園から散歩へ来たらしい子供達や、母親父親と遊ぶ子供達がたくさんいる。

 瀬川はそこへ入ると、自販機で飲み物を買って、ベンチへと座った。

 きゃっきゃとはしゃぐ子供達はきらきらと輝いて見える。その光景を目にしながら、彼は何を思うのか。しばらくすると立ち上がって公園を後にした。

 来た道を戻ってアパートの入口まで戻ってくる。瀬川は、そこでぴたりと足を止めた。日吉もその後ろで同じく足を止める。

 瀬川は振り向かずに言った。


「入口から付けてるの、知ってたよ」

「……」

「もしかして、センコーとか?」

「……不思議だなあ。ごく最近の話なのに、そのセリフがなんだか懐かしく感じるよ」

「……なんで付いてくんだよ」

「ちゃんと家に帰るかが心配だった」

「……確認したって、アンタが帰ったあと、どっか消えるかも」

「そしたらまた探すよ」

「……疲れ切った顔で言うんじゃねえよ」


振り返りざまにぽい、と投げられたのは缶コーヒーだった。先程買っていたのはこれだったらしい。

 微糖の文字が目に入って、口元が緩んだ。


「もしかして心配してくれてる?」

「な……っ!?ちがっ……ぅし」


 近所迷惑になると思ったのか瀬川は少し声を潜めた。そのあと、少し迷ったような素振りをしてから、アパートを指した。


「ん?」

「……。……話が、ある」

「おお。聞きましょう聞きましょう」


 少しおどけたように言ったが、以前のように拳だったり口撃は飛んでこなかった。というか、いつもよりだいぶ大人しい気がした。いつ崩れるかもわからない階段を登って、瀬川の部屋へ。

 先に彼が入っていった。お邪魔します、と一声かけてから後に続く。

 フローリングの廊下にミニキッチン。その先は扉で区切られている造りのようだ。

 廊下の真ん中付近で瀬川が立ち止まった。どさり、とバッグが落ちる。

「今から問題を出す」と彼は言った。日吉は困惑した声を上げたが、無視される。


「アンタはそれに答えろ」

「え、はい」

「A、Bの二択問題だ。……これから、主人公日吉惣次郎は、悪役に対してどのような態度を取るか。また、悪役はどちらのセリフを発するか答えよ」 

「……」


 悪役、とは自分のことを指しているのだろうか。小さな背中がますます縮こまって見える。

 それでも、凛とした声は設問を読み上げていく。


「問一。A、日吉はここに残る。B、そのままこの場を立ち去る」

「……」

「問二。A……うざってぇから今すぐ消えろこのクソ教師!」


 肩で息をして、彼はそう言い切った。

 それを見つめながら、黙る瀬川へ日吉は問う。


「……瀬川、Bは?」

「……B、は」

「……」

「……だきしめてよ」

「!」

「だきしめてよ、それができないなら、もうこっちこないで、くるしいだけだから」


 静かに零された言葉へすぐに日吉は歩を進める。瀬川がゆっくりと振り返った。

 見慣れたはずの涼しい顔をしていた。でも、今はそう見えない。

 左の壁へとん、と寄りかかり、腕を組んでそっぽを向いた。視線は斜め上に行っている。


「さあ、どう答える?日吉大センセー?」


 ふざけたような、煽るような言い方をされる。日吉は即答した。


「問一、A。問二、B」

「……」

「正解は?天才少年瀬川凪君」

「さーあね。知らねえ」

「瀬川、ちゃんと……」

「知らねえよ、本当に。だってどうなるかは、これから……」


 だんだんと視線が下に落ちていって、床を見つめ始める。

 そうだ。どうなるかは日吉の行動によって変わる。でも強制はされていない。選択は自由だ。

 もしここから立ち去れば、これ以降必要以上に関わらなくなるだけだ。

 頑張ったけど無理でしたー、と投げ出せば本来の生活に戻ることが出来る。

 心配を屁理屈で返されたり、朝から晩まで探させたり、悪態をつかれてムカッ腹を立たせる生徒のいない、楽園へ帰ることができる。

 悪魔はそう囁いたが、この男には通じない。


(……そんなの、俺は望まない)


 日吉はずんずんと瀬川へ近付いていく。ハッと顔を上げた瀬川の腰を引き寄せて、その胸に収めた。

 思った以上に薄い体だった。服越しなのにとても冷えているのが分かる。あたためるように背中を撫ぜながら、日吉はやさしく言葉をかける。


「……頑張ったな」

「……!」

「怖かったろ。もう大丈夫だから」

「……」

「はあ……無策じゃねえよな。なまじ頭が良いから、どうせあれこれ無理に考えて行動したんだろ?ったく、少しは大人を頼りなよ」

「……分かってた」


 ぽそりと瀬川は呟く。


「分かってたんだ、ずっと。おれ、“ここ”から出なきゃよかったんだって」

「え……?」

「自分のこと、死ねばいいのにって、ずっと思ってた……いや、思ってる」

「……!?」


 思わぬ言葉が飛び出したことに日吉が動揺する中、淡々と瀬川は続けた。


「どうして、殺してくれなかったんだろう。外に出なかったら、勉強も覚えなかったし、誰にも迷惑かけなかったのに」

「瀬川……?」

「あんなに叩いて蹴って首絞めて、毎日死ね死ね死ね死ねってさ。じゃあいっそ殺せよ。いつだって殺せたじゃんか」

「お前……まさか……っ」


──虐待の一種にネグレクトも含まれているが、瀬川の言葉からして、身体的、心理的虐待をも受けていたようだ。日吉は絶句した。


「そもそもさぁ、産まれた時に……」


 瀬川がそこまで言いかけてから、日吉は異変に気がついた。瀬川の肩が小さく上下する。

 だんだん背中がひくついてきて、とうとう嗚咽が漏れた。


「……産まれた時に、ころせば……っ」

「……!」

「なみだけ、たすけてくれれば、それで、よかった」

「そんなこと……!」

「おかあさん、おれのことうまなきゃよかったってゆってた」

「……っ」

「なんで、おなかのなかで、とちゅうできえるとか、できなかったんだろう。おれのこと、わらわないからきもちわるいってゆってた、おれのせいだ、おれのせいでおかあさんぐあいわるくなっちゃったんだ」

「違う、よ、瀬川、それは……!」

「いいこにしてなかったから、かえってこなくなっちゃったんだ、いなくなっちゃったんだ」

「だから、ちが、っと……!」


 ここで瀬川は膝から崩れ落ちた。体を支えて座らせて、また抱きしめ直す。

 細い体から一生懸命絞り出すように瀬川は叫び始めた。


「おかあさんごめんなさい!こんどこそいいこになるからかえってきてよ!べんきょうがんばるから!なんでもいちばんになるから!」

「……っ……瀬川はすっごい頑張ってる。それに、他人を思いやれるとっても良い子だよ?」

「でもかえってきてくれない!せんせいもいなくなっちゃうんだ!おれがわるいこだから!きらわれちゃったからもういなくなっちゃうんだ!」

「嫌いになんてなってない。一言もそんな……」

「こわい、こわい……っ!もう、っひ、ひとりでいるの、やだぁ……!」

「……大丈夫。いなくなったりしないから。俺はちゃんとここにいるよ、瀬川」


 日吉のシャツをぎゅっと握り締めながら、瀬川はずっと泣き続けた。背中を撫ぜ、ぽんぽんとあやしても、自分が悪い、ごめんなさい、産まれてこなければ、と自責の言葉ばかりを叫んでいる。

 色々な言動を経て、この姿を見て、やっと腑に落ちた。

 だから、自分のことを後回しにするのだ、と。

 昨今、セルフネグレクトという言葉を耳にすることが増えたけれど、瀬川はそれをもやってしまっているようだ。

 日吉は悔しい気持ちで一杯だった。勉学を特技として持ち、楽しさだけ追求しているのではないと分かってやれなかったからだ。

 彼のこころは子どもどころか、産まれたての赤ん坊だったのだ。子どもにすらなれないまま、ここまで来てしまったのだろう。

 いつの間にか横向きになっていた瀬川は、必死に日吉の腕へしがみついていた。

 助けて欲しい、行かないで欲しい、という気持ちがひしひしと伝わって来る。

 体を抱き直して、脇腹あたりに手のひらを置いた。やはり冷たい。手が浮き出た肋骨を掠めてどきりとする。  


「……隠れてる間、ちゃんと食べてた?」


 泣きながらこくこくと頷く。何を食べていたのか聞くと、しゃくりあげながら答えた。安い菓子パン一つを、一日3回に分けて食べていたと聞いて胸が痛くなった。


「寝泊まりは?あったかいところにいた?」

「……みちに、いた」

「……!?」

「だんぼーる、しいて……ぶるーしーと、かぶって……」

「……っ。……どうして逃げたの。そこまでしなくても、俺たちはお前を絶対匿ったし、あいつらまとめてぶんなぐ……相手にできたのに」

「っう、それ、は、めいわ、く、だから」

「迷惑なんかじゃないって。みんなも……おっとと……」


 また大号泣が始まってしまった。

 いつも屁理屈や知識で負かしてくる口が、もう自責しか吐かない。

 自分で自分を攻撃して、壊れてしまった蛇口のようにあふれ出るそれを、今の日吉にはただ受け止めることしか出来ない。


(家庭環境に問題があった生徒は浅川にもいたし、似たようなケースはあった。でも……ここまで酷いのは始めてだ)


 不意に呼ばれて、どうしたのか問うと、こわいこわいと連呼される。


「どうした?何が怖い?」

「つれて、かれそうに、なって」

「……え?」

「おとこの、ひとが、いいの、みつけたって、うで、ひっぱって……」

「……!何もされなかったか!?」


 頭は縦に動いた。ちゃんと逃げたと聞いて胸を撫でおろす。


「でもね、でも、せんせ、ならいい」

「え?」

「せんせい、なら、こわく、ない」

「……それは、どういう……」

「へんなこと、されても、だいじょうぶ……」

「……!」


 つい、パッと手を離してしまった。

 そんな邪な気持ちは持っていないし、今、誰も彼らを見る者はいない。けれど、教育者としてそれだけは絶対にだめだ、と理性が判断した。

 安心して緩んでいた瀬川の腕からするりと抜ける。それにハッと意識を取り戻した瀬川は日吉から距離を取った。


「……気持ち悪いこと言ったごめん」

「あ、いや、俺も逃げたわけじゃないんだよ、その」

「……と、まあ、そういう三文芝居を見せたかっただけでした。帰っていいよ」


 普段の澄ました顔に戻してしまった日吉は心のなかで自分をぶん殴った。

 この、少し暗い廊下でも、瀬川の目元は赤く、腫れ始めているのが見て分かる。鼻をすんとすすってまた明後日の方向を見ている。


「……気持ち悪いとか、そういう意味で離れたんじゃないのは分かってほしい。俺は教師だから……」

「生徒にそういう事言われたら困るってことだろ。分かってるよそんなの。おれだって別にそういうつもりで言ったんじゃない」

「でも、助けたい気持ちは本物だ。お前の言ってたことだって……」

「いいや?芝居だよ。上手かったろ?褒めてほしいくらいだね。あーあ、一攫千金狙って俳優にでもなろうかな」

「瀬川」

「帰りなよ、早く。もし万が一漏れたら、またおれのせいにしたらいい。生徒が迫ったって。自分は何もしてないって。おれもそう言うよ。自分が迫ったって。センセーは何もしてませんって」

「……そんなことしないよ」

「……」

「お前が今言ったこと、搾り出したのは全部本音だろ?」


 優しく問いかけると、瀬川の体制は徐ろに体育座りに変わる。膝の間に頭を埋めて、小さく小さく丸まってしまった。

 きっと、こうやってずっと一人で過ごしてきたんだろう。

 さっき吐き出したことは誰にも言えず殻にこもりひたすら耐えてきた。

 虚勢を張って、強がって、全てを隠してきた。


「……なあ、もっと教えてよ」

「……?」 

「瀬川のこと、もっと教えて」


 スーツの上着を脱ぎ、それで瀬川の体を包んだ。

 そうやってもう一度抱きしめると、縋るように背中へ爪を立ててきた。

 再び吐き出すような泣き声を聞きながら日吉は思う。


(うちの可愛い生徒を、よくもこんなボロボロにしてくれたな。肉親だろうが女だろうが関係ない。どんな手段使ってでも探し出して、一発お見舞いしてやるよ)



入れるか悩んだシーンがすごーく多いんですが扱っているテーマ上ぶち込むことにしました。

ひよしん怖いからね、ママンは震えて待っていて下さいね

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