読めないパスワード 【月夜譚No.292】
悪筆過ぎて解読不能である。机の上に広げたメモ帳を前に、彼は頭を抱えた。
遡ること数時間前。彼は所属する組織の任務で、とある屋敷に忍び込んでいた。警備の目を搔い潜り、防犯カメラの死角を擦り抜け、様々なトラップを回避して屋敷の奥へと進む。
いくらプロとはいえ、ひやりと肝を冷やすシーンもある。しかしそこは冷静に行動し、どうにか目的のものを盗み出して、誰にも悟られず屋敷を後にした。
――のは良いのだが、まさか屋敷の主の筆跡がこんなにも汚いとは思わなかった。
盗んだメモ帳には、とある大企業の機密データに入り込む為のパスワードが書かれているはずだった。主はそういったものをデジタル上で管理することに懐疑的で、大事なことはアナログで保存するようにしていると聞いている。
だからわざわざ盗みに入ったというのに、これでは本人以外には読み取れないではないか。
(……ある意味、防犯上では良いのだろうが)
というか、これだけ字が汚いと本人にも判るのかどうかというほどだ。
とりあえず、上層部にはこのメモを直接持っていくことにしよう。
特殊なプログラムで突破が難しいと言っていたハッキング班の苦い顔が目に浮かぶ。
彼は心の中で同僚に詫びながら、メモ帳をそっと閉じた。