四章 光なき闇の夜
あれから何度、吸血鬼退治を行っただろう。
リティル組とカザフサ組の討伐数は、一進一退だった。
2組はあれ以来、接触を断っていた。廊下ですれ違えば、視線を交わすが言葉はなかった。
クローディアはシェラからの指導は受けられなくなってしまったが、代わりにシャーナの騎士であるリュカが指導を買って出てくれ、メキメキ力を付けていた。
「いやはや、驚きましたね。あなたがこれほどやるとは思いませんでしたよ」
リュカはカザフサの妃に求められるであろう知識やマナーなど、思い付くだけ詰め込んでみたのだが……クローディアは音を上げずに食らいついてきた。
「え?わたし、できてますか?」
褒められると思っていなかったクローディアは、目を丸くしてリュカを見上げた。しかし、と、クローディアは目の前のテストの答案を見下ろした。隣に座るシャーナと比べても、あまりいい点数とはいえない。
「ドンマイですわ、クローディアさん。あなたはこういうことまったく知らないのですもの、勝手がわからなくて当然です。それに……リュカのこの問題、意地悪です」
シャーナは恨めしげに婚約者を睨んだ。リュカはそんなシャーナの視線を、どこか嬉しそうに受け止めた。変態の気があるな。クローディアとシャーナは、意地悪で優秀な講師に共通の思いを抱いた。
「わたしも辛い立場です。それを、わかってほしいものですな」
リュカは、人の良さそうな顔にニコニコと腹黒そうな笑みを浮かべた。
「リュカは、宰相なんですよね?どんな仕事なの?」
初めは敬語を使っていたのだが、リュカにそのたびに必要ないと言われた。いいのかな?と戸惑ったが、シャーナにもリティルに話すように話してくださいと言われ、微妙に敬語の混じった変なしゃべり方になってしまっていた。本当にいいのかと未だに思う。
「王の補佐ですな。政治に携わってますよ。あとはそうですな……人を顎で使ってますかな」
「あの、インファさんもそういう人?」
「おや?気になりますかな?やはり、女子というモノは、見目麗しゅう者が好きですか」
「い、いえ!き、綺麗な人だとは思ってるけど、怖いって言うか……リティルと何か難しい話を……」
「聞きましたかな?」
「2人とも風魔法使いだもの。会話が聞こえたことないよ。リティルはシェラの隣に行きたいから、インファさんから習ってるのかな?って」
リュカはどう答えていいのか、刹那視線を彷徨わせてしまった。
リティルは風の王で、インファは息子で副官だ。風の王は野生の勘だとインファが言っていたが、無知でも無能でもないことはリュカにはわかる。ぶっきら棒な物言いで、童顔でよく笑う。あの容姿と態度で、彼の力量を見誤る者は多いだろう。だが、王だ。あの方は紛れもなく王者だ。
リュカは、最初の晩餐の時、リティルを見て驚いた。「風の王・リティルが、なぜここにいるんですかな!?」と動揺していた。リュカは雷魔法の使い手だが、雷とは風と光の複合魔法だ。しかし、光は得意だが、風はさほどでもない故に、二度見した時には、あれ?ただのウルフ族の混血か?と認識を改めた。
しかし、初見の勘は彼を風の王だと言っていて、モヤモヤが止まらなかった。
彼が名前のことで、あの脳筋・タイガ族のヘンリーに絡まれたときには冷や汗が止まらなかった。リティルは笑って受け流していたが、その隣、インファが苛烈な怒りを向けたからだ。そこで初めてリュカは、インファの存在に気がついた。そして、自分の魔力を疑った。リュカの魔力は、インファを人間ではないと言っていたのだ。精霊、しかも、日々お世話になっている力の司だと見えた。
「うええ?雷帝・インファ!?これは、どういう?」力を魔導具で抑えているとはいえ、さすがに得意魔法の長たる精霊を感じ損なうほど、未熟な魔導士ではない。そこで確信した。雷帝に庇われる、上手すぎるくらい上手く隠している彼は、紛れもなく風の王・リティルだと。
インファの怒りに気がついているはずなのに、リティルへの挑発をやめないヘンリーに「うおお、やめてぇ」と思ったのは、リュカだけではないはずだ。あのときは、本気で怖かった。恐怖で動けなくなるなんて、なんと情けないとは思ったが、タイガ族とは違い、好き好んで戦場へは行かないリュカではどうしようもなかった。あの場にいた大半は、インファの怒気で動けなくなっていたはずだ。傍観していたのではない。本気で怖かったのだ。インファが!
シェラの機転で、恐怖の呪縛から逃れたリュカは、強引にリティルを連れ出した。リュカがそうしたのは、インファとリティルが動かなかったからだ。
インファは殺る気だし、リティルはどうやら副官とヘンリーの精神的攻防の板挟みに遭い、動けない様子だったからだ。「勘弁してくださいよ」リュカは本気で泣きたかった。
後に、インファから接触を受けた時本当は内心「殺されるぅ!」と思っていたのだが、契約者にしてもらえ、あのときリティルを食堂から連れ出したことを感謝された。インファに「初対面ということにしていたので、ヘンリーを牽制する事しかできなかったんです」と謝られた。リティルは侮られることに慣れているようだが、インファは、そんな父王を見ていることが我慢ならないのだなと感じた。
その思いはわかる。リュカも、忠誠を誓う主君がいるからだ。それに、インファにとってリティルは父親。慕っているのだなと、グロウタースの民も精霊も、その心は変わらないのだなと思った。
「ああ、ええ……うん。リティルに教えることは、何もないと思いますなぁ」
「やっぱり凄い人なんだ。あの、リティルは……その、シェラにふさわしいと、思う?」
夫婦ですが!?とは言えないリュカは、答えに詰まった。
「あ、あのあの!わたしが!その……カザフサにふさわしくなったら、シェラはリティルを選んでくれる?」
ああ、なるほど。リュカはクローディアが何が言いたいのかわかった。
「あなたがカザフサ様に選ばれれば、気兼ねないでしょうなぁ」
そう言って笑ってやるとクローディアは、またやる気を得たようだった。
いい子だ。素朴ないい子。だから、カザフサが惹かれたのだとわかる。
何百年も風の王妃をやっているシェラと比べるのは酷だが、カザフサが王となるのはもっとずっと先の話だ。第15王子の妃として学ぶ時間はまだまだある。リュカの目から見て、クローディアはすでに妃の資質に目覚めている。カザフサが選ぶなら、リュカに異論はなかった。
だからリュカは、カザフサとリティルに他言しないようにと言い置いて、自分の正体をバラした。
「おまえ、亜人の国の宰相だったのかよ?どうりで強えーはずだな」
素直に驚くリティルに、インファから聞いていると思っていたが、彼は余計な事と思ってか伝えなかったのかとリュカは思った。
「強くないですよ?10組中10位です」
「はは、タヌキ」
しらばっくれると、リティルはそう言って笑った。本当に、親しみやすい笑顔を浮かべるお人だと思った。だからインファは心配なのだろうと察した。
「……オレ達に何の用だ」
警戒心を露わに、カザフサはリュカを睨んだ。
「カザフサ様、率直にお答えください。シェラとクローディア、どちらがお好きですかな?」
声こそあげなかったが、カザフサは息を飲んで瞳を見開いた。そして、リティルの顔色をあからさまに窺った。見つめられたリティルは「それ、オレも聞きてーな」と言って意地悪く笑っていた。
「…………オレの妃にふさわしいのはシェラだ」
素直か!とリュカは柔和な顔を崩さないまま、余裕の表情のリティルを伺ってしまった。
「だろうな。あいつは極上の女だからな。で?続き、あるんだろ?」
「何のしがらみもないオレは、クローディアが好きだ。許されるならクローディアを得たい」
ホッとした。ホッとしましたとも!リュカは、カザフサ様がお若くてよかった!と心底思った。……ああ、119才のわたしも、愛らしいという理由だけで妻を選びましたなぁ。と思った。
「では、あなたの妃に、クローディアを押しておきましょう」
意外な言葉だったのだろうか。カザフサは「え?」とあからさまに驚いていた。
「最近のクローディアの働きをご存じない?これはいけませんなぁ」
同意を求めてリティルを見れば、彼は笑って頷いた。
「あいつ、凄いんだぜ?魔法の精度も上がってるしな。この前負けたのは、クローディアが人命救助してたからなんだぜ?あのまま行ってたら、あんな点差は開いてなかったな」
近くで戦っていた騎士の負傷に、治癒能力のない巫女に代わって治療を優先したため、クローディアは吸血鬼退治に一時参加できなかった。そんな彼女を守るため、リティルと負傷した騎士の巫女は防戦に徹したのだ。
クローディアは「わたしのせいで負けて、ごめんなさい!」と言ったが、彼女の判断を間違っているとは思わない。リティルは「君は正しいぜ?次ぎ頑張ればいいさ!」と慰めた。
けれども、かなりの点差があり、クローディアの表情は浮かなかった。それでも「うん!頑張る!」と空元気で笑ってくれた。リティルの後ろに隠れて、影の薄かったクローディアはもういない。シェラにはまだ遠く及ばないものの、もうクローディアを侮る者はいなくなっていた。
「それは、人づてに聞いた。あなた達に助けられた騎士から、その1戦の討伐数を無効にしろと申し出があった」
「へえ?あいつ、気にするなって言っといたんだけどな?」
「シェラはすでに、同意している」
「はあ?それすると順位が狂うぜ?」
吸血鬼退治の順位は累計だ。一戦の討伐数を無効にすると、毎回1位と2位を争っている組とはいえ、順位が大幅に落ちてしまう。
「いやはや、お2人のチームの行方は、皆の関心を大いに集めていますなぁ」
それはつまり、この前の一戦を、全体的になかったことにしようという動きがあるという事だった。リティル・クローディア組にはありがたいことだったが、リティルは難色を示した。
「……それ、フェアじゃないぜ?オレは受けねーよ」
「そう言うと思った。シェラは同意するけれども、リティルが嫌がると思うと言っていた。なら、なんとか巻き返してくれ」
「ああ!任せとけ!」
「次は勝つ!」の宣言通り、リティル・クローディア組は、首位を奪還したのだった。
クローディアは思わず、疲れたため息をついてしまった。
吸血鬼退治中の人命救助は、シェラもやっていることだ。美しくて、強くて、優しくて、格好いいシェラに近づきたくて、思わず身の丈に合わないことをしてしまった。
そのせいで、またリティルに無茶をさせた。
人命救助の討伐次の討伐で首位に返り咲いたが、リティルはいつもより多く傷を負ってしまい、今、部屋で寝ている。
クローディアは、宮殿の玄関前にある花壇の前に座り込んでいた。この前シェラが、その綺麗な手が土で汚れるのも構わずに、手入れしているのを見掛けた。
リティルが「花が好きなんだよな」と言って、愛しそうに笑っていた。リティルは今、シェラに近づけない。近づくためには、勝つしかないのだ。だからリティルは、結果を出した。わたしは?あの人のために、何ができるのだろうか。リティルとシェラを、引き裂かない為に――
「クローディア?1人か?」
振り返ると、そこにはカザフサとシェラがいた。ハッとして慌てて立ち上がると、シェラは気まずそうに視線を外し「先に部屋に戻っているわ」と言った。
「ま、待って!」
クローディアは慌てて、去って行こうとするシェラを追っていた。少し距離があり、けれどもクローディアは、玄関に入ってしまう前にシェラを捕まえていた。しかし、なんと言っていいのか言葉を紡げなかった。
シェラは小さくため息を付くと、微笑んだ。
「少し、話しをしましょうか?」
「あ……うん」
最初は、冷たくて怖い人だと思っていた。リティルを遠ざけて、悲しませて!と思っていた。でも、違った。リュカに学んで、好きだけじゃダメなんだということを知った。シェラはただ、ずっと未来を見ていただけだ。
「シェラ、花のこと、詳しいの?」
「ええ。育てることも好きよ?あなたも詳しいと聞いたわ?」
「うちが果樹園なの。だからわたしは、花より団子。実のなる木のことは詳しいけど、花はからっきし」
でも、目の前の花のことはわかる。コスモスだ。たぶん。
「シェラは薬草学にも詳しいよね?」
「少しだけ。詳しい人がそばにいたの。同じ薬草があって、よかったわ」
「それだけ強い治癒魔法が扱えて、薬草にも詳しいなんて、」
「どうして?」と言いかけて、クローディアの脳裏にリティルが浮かんだ。急に口を噤んだクローディアを前に、シェラが穏やかな表情で首を傾げた。うう……もの凄く可愛い人!と刹那思ってしまった。
「あ、ええと、薬草も治癒魔法も、リティルの為……だったりしてって思って……」
シェラの、紅茶色の瞳が見開かれた。同じ紅茶色の瞳でも、持っている人が違うだけでこんなに美に違いが出るんだなと、クローディアは思ってしまった。
「ご、ごめんなさい!リティル無理して、今寝てて、わたし、何もしてあげられなくて、それで、シェラなら何かできたのかな?って」
シェラは瞳を曇らせると、コスモスに視線を向けてしまった。
「わたしにも……何もできないわ。傷は癒やせても、受けた苦痛を取り除くことはできないの。リティルは……苦しんでいるの?」
そんな傷を負ってしまった?とシェラは哀しそうに俯いた。
「ううん!傷は大したことなかったよ!ただちょっと、ううん!ちょっとどころじゃないわ!討伐数を稼ぐって言って、わざと腕を切って、血の臭いで吸血鬼を寄せたりするから!貧血なの!止めたんだよ?止めたんだけど……ごめんなさい!」
リティルは、前の吸血鬼退治のときに助けた騎士に「手伝えることはないか?」と言われ「吸血鬼をこっちに追い込んでくれよ」と頼んでいた。そしてさらに、効率を上げるためにわざと腕を切ったのだ。それを目の前で見せられた巫女2人は、真っ青になった。
「あなたがリティルのしでかしたことで、謝る必要はないわ。驚いたでしょう?」
「それはもう!リュカとシャーナが診に来てくれて、薬で眠ってるの。その、大丈夫だよ?」
「ええ。あの人は、丈夫さだけが取り柄だから」
シェラは優しく微笑んで、頷いた。その笑みにクローディアが見とれていると、シェラは綺麗な所作で立ち上がった。
「カザフサ、わたしは先に戻るわね」
「え?」
ボンヤリシェラに見とれていたクローディアは、慌てて立ち上がった。
「わかった」
背後でした声に、クローディアは恐る恐る振り向いた。そんなに変な顔をしていただろうか。カザフサは苦笑していた。
「久しぶり。ずっと何も言わずに、すまなかった」
なんと答えていいのか、わからなかった。ただ、カザフサに言われるまで、彼とはこの宮殿に来て、1度も言葉を交わしていないことに気がついた。
「ごめん……」
「うん?」
「カザフサのこと、忘れてた……」
カザフサが蹌踉めいた。だが踏みとどまった。大丈夫?と様子を窺うと、カザフサは情けない顔をしてこちらを見た。
「そんな気は、してた。宮殿に来てからディアは、リティルの事ばかり見てたから」
「えっ!そんなに見てた?」
「ついでにベッタリだった。リティルとシェラが両思いだって割とすぐに知ったから、なんとか、耐えてきたんだ」
ベッタリだったのは認める。それは、どうしようもなく怖かったからだ。リティルは、そんなクローディアを許してくれた。だから縋ってしまった。その自覚はある。自覚はあるが、耐えてきた?耐えてきたって何?とクローディアは怒りが湧いた。
「なによ!王子様だってこと隠してたくせに!わたしのこと、遊びだったんでしょう?」
「違う。そう思われてもしかたないけど、違う」
「シェラは綺麗で、強くて、お姫様で、わたしはただの平民だよ?」
「知ってるよ。シェラは確かに、王子妃にふさわしいけど、オレが手に入れちゃいけない人だ。リティルはきっと勝つよ」
「だとしても、わたしは釣り合わないよ?」
「そうかな?」
「そうだよ!生まれは変えられないの。どんなに教養を身につけたって、それは……」
「ディアの言ってることは正しいよ。でも、1つ間違ってる。選定の儀で選ばれ、集められた20人には平等の立場が用意される。ディアが望んでくれたら、オレはその手を取れるよ」
嘘。カザフサは、わたしのことを好きなの?
「あぶれちゃうから、しかたなくじゃなくて?」
あ、声に出ていた。カザフサが「え?」と耳を疑っていた。しかしカザフサは、次の瞬間笑っていた。
「ディア、オレは確かに王子で、君に対して失礼なことをしたけど、心まで王子じゃない。何も言えなかったのは、きっと苦労させるとわかってたからだ。ここへ来た頃のディアでは、耐えられそうにない環境しか用意できないと、わかっていたからだ」
――生まれ変わってもらうぜ?
カザフサが王子だと聞かされて、それでもカザフサがいいと言ったクローディアに、リティルが言った言葉だ。それくらいの覚悟がなければ、隣に立てないとリティルは教えてくれた。そしてシェラは、力をくれた。
「好きなだけじゃダメ……」
シェラとリティルが、それを目の前で示してくれていた。今ならわかる。欲しているだけではダメなのだと。クローディアはまだ恵まれている。欲しているものからも、手を差し伸べられているのだから。あとはこちらからも手を伸ばして、掴めばいい。
「わたしは、選んでもらえるの?」
「オレの隣で、戦ってくれるなら」
「じゃあ、見てて。わたしがカザフサにふさわしいか。それまでわたしは、リティルの巫女でいるよ!」
そう言って、クローディアは元気に走り去った。
そんなクローディアを、カザフサは呆然と見つめていた。
「言ったわね?」クローディアの勝ち気な笑みは、リティルが得物を前に見せる笑みに似ていた。
彼女はもう、震えて騎士に守られているだけのか弱い女の子ではない。自分の足で立ち、欲しいものの為に戦うことができる、戦士なんだとカザフサは自覚した。
彼女をそこまで育ててくれたのは、リティルだ。ただ、願うだけだったカザフサとは違い、リティルは彼女が得たいと口にできるように導いてくれた。
「オレも、戦わないとな」
カザフサも、部屋に戻ろうと歩き始めた。
クローディアが笑う度、リティルの心は温かくなる。
それを感じる度、ああ、クローディアは本当に風の王の安らぎなんだなと実感した。
だが、氷のような眼差しで、目も合わせてくれなくなってしまったシェラに感じる、地獄の業火のような激情に、襲われることはない。気をつけなければ「こっちを向けよ!」と押し倒してしまいそうになる。自分を抑えることが大変だ。クローディアに抱く思いは、もっとずっと健全で、肌を暴きたくなるそんな熱は湧き上がらなかった。ただ、守らなければと想うのみだ。
この違いは何だ?
リティルには、2人が同じ花の姫なのだと、どうしても思えなかった。
覚醒前だからか?とも思ったが、シェラには覚醒前から、触れたいと思っていたことを思い出した。紳士を貫き通して、とっくに夫婦だったのに、イシュラースへ引き上げるまで抱くのを我慢した大昔が懐かしい。
インファの方も、大詰めらしい。
契約者のリュカと共に、今度の吸血鬼退治で、影法師の精霊の領域に押し入ると言っていた。場所はとっくに特定していたのに踏み込まなかったのは、準備をしていたからだ。インファは慎重な方だが、それでも尻込みと取れるほどの慎重さだったのは、それほど影法師の精霊・ルッカサンが強い精霊だと確信しているからだ。
「大丈夫か?」と問えば「大丈夫でないのは、そちらでしょう?」と返された。
そして迎えた吸血鬼退治。
最初は順調だった。クローディアとの連携もとれ、このまま行けば、カザフサ組に勝てると確信があった。
「リティル、何か変だよ?」
障壁魔法で自分とリティルを守りながら、クローディアが背中を合わせてきた。確かに今回の戦場の空気はおかしい。いつものようなゲーム感がない。本物の死闘をやらされている気分だ。
「ああ。場の空気が乱れてるな!」
障壁から飛び出したリティルは、襲いかかってきたコウモリを一掃する。
「なんだろう?嫌な予感がする」
タタッと戦場を走り抜け、クローディアはコウモリに障壁をぶつけて屠っていった。高い浄化を練り込まれた障壁は、触れさせるだけで、勝手にコウモリ達が倒れてくれる。今やクローディアの得意魔法だ。
不安がるクローディアに答えようとすると、森の中から知った気配が飛び出してきた。
「リティル!」
カザフサだった。
「見たことのない吸血鬼が来る」
気配を探ると、大物吸血鬼よりもさらに強力な、制御などできない荒んだ気配がこちらに向かってきていた。
「ああ、この気配だからな、強そうだな。今回の勝ちは譲れよ。オレがやる」
「わかった。クローディアは任せてくれ」
シェラの入れ知恵か?と思えるほど、カザフサはすんなりその正体不明の吸血鬼を押しつけてきた。実際そうなのだろう。インファがシェラに情報を流していないわけはないのだ。これは、その工場だか研究所にいたヤツだろう。逃げられるなんてインファらしくないが、何か不測の事態が起きたのか?と少々案じた。
「待って!シェラは?」
「君を連れて彼女の所に戻る。心配ないよ」
カザフサの微笑みが優しい。クローディアもそんな彼に、心を許しているのは明白だった。
話しができたようで、何よりだ。こちらのほうも大詰めだ。若い2人の恋愛をこれ以上邪魔するのはダメだろう?とリティルはここにいないシェラに投げ掛けた。
「リティル!」
カザフサはクローディアを許しなく横抱きに抱き上げた。シェラの心配をしていたクローディアは、次は1人取り残されるリティルを案じた。本当に成長したものだなと、リティルは刹那カザフサと視線を交えて頷きあった。
「大丈夫だ。行けよ」そう答えようとした時だった。同時に気がついたリティルとカザフサはクローディアに覆い被さっていた。リティルの風とカザフサの闇が、飛んできた何かを防ぎきる。
「あそこにシェラが!」
男2人の下から顔を上げたクローディアが叫んだ。見れば、ライオンの体に竜と鹿の頭を持った見たこともない生き物がいた。コウモリの羽根が生えている所を見ると、あれも吸血鬼の一種らしい。こちらを襲ったのは、どうやら、あの尾の位置に生えた蛇が打った魔法らしい。
「リティル行って!」
クローディアが叫んだ。巫女に行けと言われ、リティルは地を蹴っていた。シェラは1人、何かの本に描かれていた、キマイラという想像上の動物にソックリな生き物の注意を引き付けていた。
無茶しやがって!リティルは振るった剣から飛んだ風の刃が、蛇の尾を断つ。痛覚がちゃんとあるらしいキマイラは咆哮を上げると、太い前足を振るった。その前足に、障壁を張ったシェラが突き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「――このっ!」
一瞬頭に血が上るのを感じた。だが、キマイラが倒れたシェラに追い打ちをかける姿を見て、冷静になる。
瞬間翼を背中に戻して空へ舞い上がったリティルは、風を纏いキマイラの上に落ちた。ゴッと吹き荒れた金色の風に、地に伏していたシェラは顔を庇って目をつぶっていた。
終わったのね?ホッと息を吐いたシェラの上に影が落ちる。
顔を上げると、爛々と輝く金色の瞳と目があった。高ぶったその瞳と、ゆっくりと大きく息をするその姿に、ゾクッとしてしまった。
「大丈夫ですか?」
インファが駆けつけてくれなかったら、たぶんリティルに攫われていた。そんな気がした。
「ええ。あなたは無事かしら?」
シェラはゆっくりと立ち上がった。こちらを無言で見つめているリティルの視線から逃れるように、シェラはインファと対した。
「ええ。すみません。逃げられてしまいました」
「おまえが逃がすなんて、珍しいな」
リティルが隣に並んでくる。シェラは震えそうになる体を何とか押し止めた。体の片側に感じるリティルの体温に、その体に触れたい衝動が襲ってくる。シェラは、その衝動から全力で意識をそらした。
「はあ、侮ってはいなかったんですが、少々意表を突かれましたね」
インファは情けないと、力なく笑った。もう、リティルから離れたい。シェラはさりげなく距離を取ろうとした。その腕が突如掴まれた。
「うっ……あ!」
悲鳴が漏れた。痛みに顔をしかめると、怒ったようなリティルの瞳と目が合った。
「隠してんじゃねーよ!クローディア、癒やしてやってくれよ」
ライオンに殴られた衝撃で、防御した右腕を折られていたのだ。骨折は癒やしたものの、治療は不十分だった。人間に身をやつしている為に、霊力の量が少ないのだ。これくらいの痛みなら霊力の回復を待って、後で癒やそうと思っていたのだが、リティルの目は誤魔化せなかったらしい。リティルの声ですっ飛んできたクローディアが「そんな乱暴にしちゃダメだよ!」とリティルに意見しながら、シェラの腕を注意深く取った。
そして、治癒を現す霊語を唱える。白い光がその手の平から溢れ、優しい魔力がシェラの自己治癒力に干渉するのが感じられた。
「……ありがとう。痛みはなくなったわ」
シェラが素直に礼を述べると、クローディアは弾けるような笑みを浮かべて、首を横に振った。
可愛いわね。その笑顔に、シェラは素直にそう思った。
時は熟したのだ。そう感じた。
機は熟した。
影法師の精霊・ルッカサンは、結果にほくそ笑んだ。だが、肝心のクローディアの覚醒にはまだ一歩足りない。キマイラはできうる限り強力に作ったが、風の王の敵ではなかった。もう少し、いい働きを期待したが仕方がない。イシュラースならまだしも、ここはグロウタースだ。しかも、精霊達が浄化して悪意の欠片も残っていない。こんな場所では、闇の精霊は真価を発揮できない。
しかし、もうこの地に用はない。最後の一手を打ち、闇の領域へ引き上げよう。蒔いた種は十分に育った。何人も、抜け出すことはできはしない。そう、何人も。
ルッカサンは、愛おしそうに目の前にある球体を撫でた。その球体は、金色を纏った白い光を強く発している。これでやっと抜け出せる。望みを手に入れる為に、理に縛られた精霊ができる手段は限られている。
「悪く思わないでいただきたい。風の王・リティル」
もう我慢の限界なのだ。そのように目覚めたのだからなどと、理不尽がすぎる。
「この地獄から、抜け出すのだ」
ルッカサンは、もう1度、シェラを現す球体を愛しそうに撫でた。
今回の結果は、キマイラを倒したリティル組が大幅に差を付けて首位を取った。
もう、あと数えるほどしか吸血鬼退治は残っていない。
この点差を覆すのは、もう無理だなと、シェラは思った。カザフサもそう思っただろう。チラリと結果を見上げるシェラを伺ってきた。シェラが許可すれば、カザフサはすぐにでもリティルに決闘を申し込む。彼からそう言われていた。
しかし、未だクローディアが目覚めない。何が足りないのだろうか。
このまま目覚めないのだろうか。迷い子は、目覚めないこともある。シェラの懸念は、取り越し苦労だったのだろうか。翳りの女帝・ロミシュミルの嫌がらせだったのだろうか。
部屋に戻ってソファーに腰を下ろしたシェラの頭から、ティアラのような金の髪飾りが唐突に外れて落ちた。
これは、リティルが婚姻の証にと贈ってくれた彼の霊力でできた品だ。
これを身につけている限り、シェラはリティルの妻でいられる。
慌てて拾い上げたシェラは、留め金が歪んで壊れているのを見た。どうやら、キマイラに攻撃されたとき壊れてしまったようだ。婚姻の証は、贈られた者か贈った本人にしか完全には壊せない。霊力を込めればすぐに直せるが、カザフサの前で直してみせるわけにはいかなかった。
「大丈夫か?シェラ」
気落ちして見えたのか、カザフサが気遣ってくれる。
「ええ、壊れてしまったわ……」
見せてと言われて手渡すと、カザフサはマジマジと髪飾りを観察していた。
「これは、リティルが?」
「ええ。壊れてしまったものはしかたがないわ。直せるときまでしまっておくわ」
彼の目の前で自身の力の中に収納するわけにはいかない。シェラは返されたそれを、大事に膝に置いた。
「シェラ、決闘のことだけど」
「そうね……考えなければいけないわね……」
これ以上は、カザフサにも悪い。
カザフサは、花壇でクローディアと会った日から彼女と交流を持っている。今やクローディアは、シェラに並ぶ巫女として認識され、カザフサも堂々と彼女と接している。
それは、リティルがシェラを抱きしめた一件で、リティルとシェラが騎士と巫女に選ばれる前、恋人同士であったことが噂され、瞬く間に浸透してしまったこともカザフサからクローディアに近づく大義名分となっていた。互いのパートナーも応援しているという情報まで加わって、リティル組を応援する空気がヒシヒシとシェラを追い詰めていた。
噂を操ったのはインファだと察しはついているが、シェラは「何があったかしらないけど、リティルを許してあげて!」と他の巫女に諭されたりと、完全に悪者だ。
「シェラ?具合でも悪いのか?」
フワリと意識が揺らめくのを感じて、気がつけばカザフサに体を支えられていた。
「え?ええ……少し疲れてしまったわ」
「休んだ方がいい」
カザフサはシェラの体を支えると、寝室まで送ってくれた。心配そうにしていたが、夕食の時間には1度声をかけると言って、すぐに部屋を出て行った。
疲れた……。シェラは自身の霊力の中に婚姻の証である髪飾りをしまうと、ベッドに横たわった。そしてそのまま眠ってしまった。
かすかな音で、シェラは目を覚ました。
どれくらい眠っていたのだろうか。カーテンを引いていなかった窓の外は真っ暗で、夜なのはわかったが時間まではわからない。
カタン。と共同部屋の方から音がした。夕食に行ったカザフサが戻ってきたのだろうか。
「……く――あ……」
シェラは飛び起きた。そして、裸足で走った。かすかに聞こえてきたのは、苦しげなカザフサの声だったからだ。
扉を開くと、カザフサが床に蹲っていた。
「カザフサ!」
駆け寄ろうとすると、彼は顔をガバッと上げた。
「来るな!」
フーフーと息をするカザフサの瞳には熱が籠もり、顎から汗が滴っていた。
いつも冷静な彼が見せた、肉食獣のような鋭い瞳と、初めて聞いた怒鳴り声に、シェラは驚いていた。
しかしすぐに冷静になる。風の城の皆は、特にリティルが多いのだが、怪我を負ったり、厄介な魔法にかけられたり、毒をもらったりと生傷が絶えない。それを癒やすのは、無限の癒やしの力を持つシェラの仕事でもあった。そんな威嚇は、シェラには効かない。シェラは、カザフサを刺激しないように、ゆっくりと近づいた。
「落ち着いて。何があったの?」
自分の腕に爪を立てて何かを耐えているらしいカザフサは、それでもシェラの問いに、熱い吐息の合間に答えた。
「食事、に……な、にか……が……」
食事に?毒?でも、この症状は?シェラはカザフサに近づきながらつぶさに観察した。
体温と心拍数の上昇、発汗から、興奮状態にあるようだが、見立てでは生命を脅かす毒の類いではなさそうだ。
「媚薬だ」
「媚薬?まさか、そんなことまでするというの?」
これは強制見合いで、既成事実込みとインファが言っていた気がする。シェラは目眩を堪えながらも、カザフサの所までたどり着いた。
「それが本当だとしても、心配しないで。無力化できるわ」
「うう……シェラ……」
ゆっくり触れたつもりだったが、カザフサには大きな刺激となったようだ。それでも彼は耐えていた。
「リ・ティル……行って」
「あの人も盛られているの?」
カザフサは荒く息を吐きながら、たぶんと言った。では、これは、カザフサだけを狙ったモノではなく、無差別もしくは全員に盛られたものだということだ。どこまでが被害を受けたのか?と被害状況を咄嗟に思ってしまった。
「うう……」
「カザフサ?大丈夫?」
泣き出した彼の様子に、シェラは少しだけ動揺した。屈辱なのはわかるが、泣くほどだろうか。それとも、わたしに触れられたくないということなのだろうかと、シェラは治療しながらそんなことを考えていた。
「リティル、は……性欲、強い?」
「………………え?ど、どうなのかしら?普通の基準がわからないけれど、健全なのではないかしら?」
リティルしか知らないシェラには、比較対象がない。一晩に3回は、多いのだろうか少ないのだろうか?
「う、そだ……!」
カザフサが顔を上げた。涙を流しながら怒るその顔に、なぜかリティルの姿が重なる。
彼はあれでいて、涙脆い。シェラは、何度泣かせたかわからない。こんなふうに、怒って泣いてくれたこともあったわね。なぜだろう。最近、リティルとの些細な思い出が蘇る。
「なぜ否定するの?」
「あなたを……見てた……!」
そんな目で?とシェラは首を傾げたが、あるかもしれないわねと、思ってしまった。
「そうね」
フフと、シェラは思わず笑ってしまった。キマイラを倒した直後のリティルの瞳は、そういえば、ベッドの上でシェラを見下ろすその瞳に、似ていなくもなかった。シェラを捕らえて放さない、熱い眼差し。今となってはシェラだけが知る、リティルの欲望だ。リティルは、シェラ以外の女性を知っている。恋愛感情はなかったと言っていたが、そんなことはシェラにはどうでもよかった。過去は過去なのだから。
「おしまいだ……!」
シェラはカザフサに覆い被さられていた。背中に受けた衝撃で息が一瞬詰まる。落ちた影に瞳を開くと、リティルによく似た、熱い眼差しが見下ろしていた。どうして、彼と重なるのだろう。風の王を継承する前のリティルが、ウルフ族の姿をしていたからだろうか。けれども、決定的に違う。リティルは、打ちひしがれて泣きはしても諦めたりしない。大好きな人を、放したりしない。
「カザフサ、いいの?わたしで」
ここで流されて後悔しないの?シェラは冷静だった。カザフサに襲われないと思っているわけではない。この類いの薬は抗いがたい。耐えられるのは、リティルとインファくらいだと思っている。それでも、リティルとインファであってもケロリとはいかない。耐えられるだけだ。カザフサは、リティルが負けてクローディアを抱くと思っているのだろう。絶望が伝わってくる。
「クロ……ディア……」
意識が混濁しているようだ。カザフサを見上げていたシェラはゾッとして動揺した。
彼の瞳に映るシェラは、クローディアだった。そのことに気がついたのだ。ボンヤリした視界では、髪の色と瞳の色が同じであるクローディアとシェラは、同じに見えるのだろう。
「カザフサ!しっかりして!わたしは、シェラよ!」
「クローディア……」
ダメだ。焦点の定まらない瞳が、シェラを見て笑った。薬で朦朧とした彼の頭と視界には、組敷いたシェラがクローディアに見えているようだ。
ハッとシェラは気がついた。今頃リティルも?リティルが耐えられるとしても、それは、目の前の女をシェラと認識していないときだ。これだけリティルにとっては焦らされている今、カザフサのような状態になったとしたら、リティルは、クローディアを抱いてしまうかもしれない。止めなければ!
「カザフサ!」
悲鳴に似たシェラの声さえも、甘美な歌声のように聞こえるのか、蕩けるような笑みを浮かべたカザフサの顔が、近づいてきた。これはいけない。こんな関係の持ち方は、最後には彼に身を委ねるのだとしてもダメだ。同意のないままに関係を持てば、カザフサはきっと壊れてしまう!
「――いただけませんね。情事の時、他の女性の名を呼ぶのはマナー違反ですよ?」
顔を背けていたシェラは、急に圧迫感がなくなるのを感じた。見れば、片手でカザフサの頭を持ち上げたインファが、何か、小さな試験管のような物を、真上を向かせた彼の口に突っ込むところだった。
「インファ……!」
インファは小さな試験管をカザフサの口から抜くと、ドサッとぞんざいに彼を床に落とした。床に落とされたカザフサは、ピクリとも動かなかった。
「彼なら大丈夫ですよ。セリアの薬を飲ませましたから。それより早く父さんの所に行ってあげてください」
シェラはそうだったわ!と立ち上がると、部屋を飛びだしていった。
そんなシェラの背中を見送りながら、インファは息をフウと吐いた。シェラが行かないという選択をしたら、終わったなと思うところだった。
やれやれ、これで夫婦喧嘩も終わるでしょう。インファは片膝をつくと、倒れて動かなくなったカザフサの介抱を始めたのだった。
シェラは暗い廊下を裸足で走り、リティルとクローディアの部屋にたどり着いていた。
リティルに、シェラとクローディアを混同させて抱かせてはいけない。その想いだけでここまで来た。シェラは、躊躇いなくその扉を開こうとして、手を止めた。
「――君は、オレ――んだ?」
リティルの声がしたのだ。そして、そんな彼の答えるクローディアの声も。
「わた――花……姫」
わたしは、花の姫!シェラは、扉のノブから手を放していた。そして、フラフラと蹌踉めくと、誰もいない静まり返った廊下を、当てもなく歩き始めた。
わかっていた事でしょう?シェラは、真っ直ぐ前を向いた。
けれども、その頬を、涙が筋を作って流れていた。
やられた。
まさか、食事に媚薬を盛られるとは思わなかった。
既成事実込みの逃げられないお見合いだとは聞いていたが、こんなことするか?
リティルが媚薬を盛られたことに気がついたのは、クローディアと部屋に戻った直後だった。廊下を歩いている時から、何か熱っぽいような気がしていたが、さすがに薬を盛られたせいだとは考え至らなかった。
シェラが体調を崩したとカザフサから聞き、見舞うか?と言われていた。
シェラに伺いを立てるから、部屋で待っていてくれと言われ、大人しく部屋に引き返した直後だった。
「リティル?どうしたの?ねえ、大丈夫?」
襲ってきた暴れるような欲望に床に蹲ったリティルを、何も知らないクローディアは驚いて気遣ってきた。どうやら、盛られたのはリティルだけでクローディアは無事だった様子だ。くそ。とんでもないことをしてくれる。
「はは。盛られた。媚薬だぜ?」
「び、媚薬!?」
素っ頓狂な声を上げて、クローディアは慌てて逃げた。
いい動きだな。とリティルは荒くなる息に、歯を食いしばりながら笑った。部屋に閉じこもりたいところだが、できれば動きたくない。
「部屋に閉じこもってろ。薬の類いには、慣れてる」
これは本当だ。媚薬は初めてだが、シェラに魅了漬けにされたことがあるし、毒も数々食らっている。襲う対象がいなければ、媚薬は誰も傷つけない。
クローディアはコクコクと頷くと、走って寝室に飛び込んで行った。
あいつは女じゃねーな。その後ろ姿に、リティルは思った。だったらなんなんだ?という問いが浮かんできたが、こんな薬を盛られても、クローディアに欲望をぶつけようなんて気は、まったく起きなかった。
欲望をぶつけたい相手。それは、いつだって1人だ。
「……シェラ……」
ハアと熱い吐息を吐きながら、もう、ここで抜くか?と開き直りそうになった。
シェラの裸体も、痴態も、嬌声も、すべて鮮明に妄想できる。頭の中で犯すなんて簡単だ。
それだけ長い間、夫婦をやってきた。これからもずっと「愛しているわ」と微笑むシェラを、腕の中に閉じ込められると思っていた。
「シェラ……!」
彼女が歌う歌声を、バルコニーに立って聞いていた。愛しくて愛しくて、触れられないことに気が狂いそうだった。カザフサのそばに置いておくのが苦痛だった。
ここに変わらずいてくれたなら、欲望をさらけ出してもシェラは、微笑んでその両腕を開いてくれたろう。大丈夫。そう言って。
なのにどうして?
「シェラ!……く……そ……!」
傷つけた。本物の花の姫なんて、そんな戯れ言でシェラを、傷つけた。
あの時、リティルがシェラを選んだあの時、彼女がいう本物とシェラがいたとしても、オレは間違いなくシェラを選んだと言いたい。
そもそも本物ってなんだ?偽物って何なんだよ?オレは、まだ10才にも満たなかったシェラの声に、声だけしかしらない君に恋をしたくらい、筋金入りに君一筋なのに!リティルは悔しくて奥歯を噛んだ。
遙か昔の、記憶に埋もれた想いなんて、今の君には無意味なものなのか?だったら、積み重ねることに何の意味がある?そう思って、ああ、だからシェラは諦めてしまったんだと哀しくなった。
精霊を縛る運命が、積み重ねた時間よりも勝ると、シェラは思ってしまった。そう思わせてしまったのは、リティル本人だった。
「君しか……いねー……んだ……」
リティルはドッと床に身を横たえた。熱い波が、内側から食い破りそうなほど暴れていた。視界が滲んで、何も見えなくなっていた。
捜してしまう。いつでも助けてくれた、守ってくれた、リティルだけの癒やしを。
「信じて……くれ……よ!シェラ!」
もう、届かないんだ……。絶望という名の闇が、心を塗りつぶす。
「リティル」
歪んだ視界の中、名を呼ぶ声に、リティルは顔を上げた。
たった一言、名を呼ぶ声が、リティルの心から闇を晴らす。
「シェラ……ごめん……傷――ついた……よな……?ごめんな……シェラ……!」
触れられない。その資格がない。リティルは体をきつく抱きしめて、謝罪を繰り返すしかなかった。
ただそばに座って、何も言わないシェラに、いつしか、リティルは泣いていた。もう遅いのだ。許されない。今まで許し続けたシェラを、傷つけてしまったのだから
「君しか……いねーんだ!ごめん……君が……いなくなるなら……オレは……すべて投げ出して、死にてーよ……」
風の王という理が、死を、許さなかったとしても、たった1つ、何者にも侵せない『リティル』という心は、リティルがリティルの手でどうとでもできる。去って行くシェラと共に、彼女の愛した『リティル』を殺すことができるだろう。
花の姫・シェラは、15代目風の王・リティルの弱点だ。
それは、イシュラースの誰もが知っている。知っているから、風の王の報復を恐れて誰もシェラに手を出さない。
慈愛の王と呼ばれる異色の死神を、死の化身に変える最愛の妃。
ああ……これが狙いだったのか?リティルはわかった気がした。風の王・リティルを無力化する為、シェラ自身がリティルから離れるように仕向けられた?効果は覿面だ。笑ってしまうくらいに。
そばに座っていた気配が動いた。体に手をかざされる。温かいぬくもりが、凶暴な熱を冷ましていく。強力な治癒魔法だった。あれだけ鈍っていた思考から、霧が晴れていく。
「シェラ……クローディア……?」
視界が鮮明になっていく。横になったまま視線をあげると、シェラだと思っていた彼女は、部屋に逃げ込んだはずのクローディアだった。
「わたし、わかったよ」
そう言って微笑んだクローディアの背に、モルフォチョウの羽根が咲くように現れた。モルフォチョウの羽根は花の姫の証。だが、リティルはそれを目の当たりにしても、彼女は花の姫ではないと確信していた。
「君は、オレの何なんだ?」
モルフォチョウの羽根は、花の姫の証だ。だが、リティルにはクローディアが花の姫でない事だけはわかった。クローディアは戸惑うように微笑んだ。
「わたしは、花の蕾姫。花の姫の娘だよ」
「シェラの……娘……」
クローディアは頷いた。
「シェラはお母さん。だからリティルは、わたしのお父さんだね」
彼女はそう言って、無理矢理笑った。
花の姫は神樹の花の化身。精霊的関係で、神樹の精霊はシェラの母親だが、彼女が生んだ娘ではないのだ。シェラには、人間の姫時代に人間の両親がいた。イシュラースに嫁いでから、神樹の精霊を「お母様」と呼んでいた。クローディアも同じだ。物理的に生んだ両親は別にいるが、精霊としての母親は花の姫であるシェラなのだ。花の姫・シェラの夫は風の王・リティル。よって、父親なのだ。
「そう……だったのか……。だから、君を守らねーといけねーって思ってたのか」
子を守るのは父親の務め。リティルはこんな容姿だが、父性の強い精霊だ。クローディアに感じる庇護欲の意味を、リティルはやっと悟った。
クローディアを性欲の対象には見られなかったが、何よりも優先して守らなければと思ってしまい、その気持ちを「オレにはシェラだけだ!」と必死に言い聞かせていた。その必要は初めからなかったのか。と、この強制見合いという特殊な環境に惑わされていたのだと、今更わかって、心底ホッとした。
だが、シェラだけでなくインファすらも誤解させた事は確かだ。あのお兄ちゃんなインファが、現在継続中でクローディアを拒絶しているのだから。それはなぜか。ここに闇の精霊がいるからだ。闇の精霊の力は暗い感情の操作だ。クローディアを気に入らないと感じたそのモヤモヤを、増幅させられているのだ。ここへついた初日、クローディアが過剰なほどに怯えていたのも『彼』の仕業だろう。
彼――翳りの女帝の側近である影法師の精霊・ルッカサンは、神の祠にはいない。だが、確実にいる。どこにいるのか。それは、吸血鬼の飛び回る戦場ではない。ここだ。この強制見合いの会場にいるのだ。
やられた。まんまとヤツの手の内だった。
「ありがとう。わたしを愛してくれて。大好きだよ。お父さん」
泣きそうな顔で、クローディアは笑った。
「クローディア……」
「だけどわたし……精霊になりたくなかった。カザフサと一緒に生きたかった!」
その為に、頑張ったのに!その絶望が、言葉にしなくても伝わってきた。
いつか王になるカザフサにふさわしくなりたくて、魔法も教養も必死に、付け焼き刃でも認められたくて努力したのに、その努力が、精霊としての目覚めをもたらしてしまった。
ついにクローディアのシェラと同じ紅茶色の瞳が決壊して、その涙を押し止めるように両手で顔を覆った。ああ、なんてことだ。リティルが接触しなければ、クローディアは目覚めることなく、人として一生を終えることができただろう。何らかの原因で精霊にならなかった魂は意外に多く、グロウタースに輪廻転生している。迷い子と呼ばれる魂の持ち主は、英雄や偉業を達成する者となりやすい。クローディアは、精霊の思惑に巻き込まれなければ、この見合いの場で魂を活性化させて、カザフサの妃に相応しい成長を遂げただろう。リティル達は、完全に邪魔をしてしまったのだ。
「泣くなよ……大丈夫だ。心配いらねーよ。君の魂から精霊の力を奪って、グロウタースの民に戻してやるよ」
「そんなことが、できるの?」
絶望の中に希望を滲ませて、クローディアが縋るように涙に濡れる顔を上げた。横たわったまま、リティルは頷いた。
眠い……だが、まだ意識は手放せない。大事な娘を安心させてからでなければ、手放せない。
「オレは風の王だ。命の行く末を見守る輪廻の輪の守護者だ。魂に干渉する力があるんだよ。クローディア、カザフサに決闘を申し込む。おまえを、あいつに嫁がせてやるよ」
「リティル……」
「幸せになれよ……?オレとシェラの愛・娘……」
スウッと、リティルは意識を失った。
インファは影法師の精霊を取り逃がしてしまった。リュカ達を巻き込んで戦闘してはいけないと勘が告げたのだ。吸血鬼生産工場を暴いたとき、待ち構えたかのようにキマイラが襲いかかってきた。しかも、狙い澄ましたかのようにリュカに向かって行ったのだ。リュカを庇えばキマイラは、興ざめしたかのように飛び去った。あの動き、今思えば誰を襲い次にどこへ行くのか命令されていたように思われる。そして、闇の結界の中はもぬけの殻だった。力の痕跡は残っていたが、どのように吸血鬼を造っていたのかなどは文字通り闇の中だった。
風の城で調べてくれていたインジュの話では、影法師の精霊は翳りの女帝など比較にならないくらい強い力を持った精霊で、戦闘能力は皆無に等しいが、力を抑えられた状態では捕らえることは不可能らしい。
おそらく、ルッカサンはもうグロウタースにいないだろう。よって、引き上げ時だ。精霊に戻って、闇の精霊の王である翳りの女帝に宣戦布告すると、リティルはインファとセリアにクローディアを引き合わせながら宣言した。
ここは、媚薬騒動が収まった直後のリティルとクローディアの部屋だ。
呼び出されたインファは、話を聞くまで険しい顔でクローディアを見ていたが、彼女が花の蕾姫で、精霊的関係性ではシェラと、その夫であるリティルの娘だと聞いて、言葉なく瞳を見開いた。
「あなたは、オレの妹、だったんですか?」
インファは、なんとか言葉を紡いでいた。理解が追いつかない、そんな顔をしていた。
「はい。ごめんなさい……誤解させるような態度取ったの、わたしだから……」
クローディアはシュンと俯いた。その姿に、インファは慌てて「あなたのせいでは……」と言いかけて「すみません……」と神妙な顔をしていた。
「お兄ちゃんなインファが気がつかないなんて、ここを支配してる影法師の精霊って、相当なのね」
「闇の精霊は、基本元素の1つだけどな、扱いが、ルキルースに近いんだ。ルキルースにいる精霊は、感情を支配してるヤツが多いだろ?そっち寄りなんだよ」
やられたぜ。とリティルは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「あの、シェラは……?」
クローディアは怖ず怖ずとインファを見た。媚薬騒ぎで、さらに誤解されたのでは?とクローディアは気が気ではない様子だった。
「行きませんでしたか?カザフサが、母さんとあなたを混同して危ない状態でしたから、引き剥がしてそちらに行かせたんですが……」
「えっ!わたしとシェラを間違えたの!?カザフサって……目が悪いの?」
あんな綺麗な人と、わたしを見間違えるなんて。とクローディアは軽蔑した色を、その瞳に浮かべた。
「いや、あいつの名誉のために言うけどな。殆ど目が見えなかったぜ?おまえとシェラは、髪の色も目の色も同じで、背格好も一緒だ。服装だって一緒だろ?オレもシェラだと思ったくらいなんだぜ?」
「襲いかかったんですか?」
「襲ってねーよ!……いや、シェラに罪悪感持ってなかったらヤバかったな……。カザフサのヤツ、シェラに襲いかかったのかよ?」
危ない状態って、どんな状態だよ?とリティルはシェラが心配というより、どちらかというとカザフサの心配をしているようだった。
「クローディアと呼んで、押し倒して迫っていましたね。母さんが為す術なくて、そちらのほうに驚きましたよ」
シェラなら、媚薬の解毒くらいお手のものだ。なんせ、花の姫は花の精霊の特徴を持ち、性的魅了の力がある。リティルも昔、シェラの渾身の性的魅了にかけられて大変な目に遭ったことがある。彼女なら、かけることも解くことも簡単なはずだ。
そのシェラが為す術なかったのは、なぜなのか?
しかしリティルは、シェラがカザフサを拒んだと聞いて、ホッとした。最近のシェラの様子を思うと、カザフサのことがまんざらでもないように見えていたからだ。
「わ、わたしの名前……」
クローディアは頬を両手で覆うと、ポッと顔を赤らめた。そんなクローディアの様子に、初々しいなと精霊達は和んだ。
「さっきのあれ、騎士全員が被害に遭ったのかよ?」
「そのようです。リュカもゲンナリしていました」
リュカは自力で解いたらしいが、自尊心を大いに傷つけられていた。シャーナが「わたしは襲ってもらっても大丈夫でしたのに!」と鼻息荒くしていたところを見ると、治療してもらえずに煽られたことは明白だった。「初めては、わたしも大事にしたいのですが……」と言ったリュカに、119才、よく耐えたとインファは慰めたのだった。
ちなみにインファは「盛られました」とセリアに申告した。するとセリアは「そうなの?解毒剤作るから、成分もらうわよ?」とまったく色気がなかった。
「オレも盛られたのは心外なので、執事のセバスを問いただそうとしたんですが、行方不明ですね」
セバスは、インファ、セリア、リティル、シェラが精霊だと知っていた。リュカが、亜人の王に送り込まれたその国の宰相であることも知っていた。それなのに、一緒くたにダメ押しの媚薬攻撃に巻き込んだ。そこには悪意を感じる。カザフサ組とリティル組が決闘を視野に入れていることも知っていたのに、ここでこれでは、間違いが起きてしまえば2組の恋人を引き裂く結果にだってなっていた。
「じゃあ、あいつが?」
影法師の精霊・ルッカサンか?とリティルはインファに同意を求めた。
「その可能性はあります。オレ達全員の行動を把握でき、指先1つで踊らせることができたのは、彼だけです」
「じゃあもう、解決でいいな」
「はい。あとは、クローディアをカザフサに渡すだけですね」
視線を集めたクローディアはすっと背筋を伸ばすと「お願いします」と言ってリティルに頭を下げた。
セバスは姿を消したが、ここは亜人の国の宰相・リュカがすぐさま宮殿を掌握した。
さすが現役宰相。決闘の段取りも、その後の儀式のこともすべて取り仕切ってくれるという。さらに、セバスは不正をしたとして、すでに亜人の王を通して獅子王に連絡が行っていて、全国指名手配したと、インファから報告された。仕事が早い。リティルはリュカとは殆ど関われなかったが、インファが契約者に選んだだけのことはあるなと、感心したのだった。
「オレ、シェラ捜してくるよ」
もう、こちらですることは終わったに等しい。シェラに帰還することを話してそれで、この騒動も終わりだ。早く、シェラと話しがしたい。風の城に帰れば、すべてが元通りだ。
リティルが扉を開くと、扉に挟まっていたと思われるカードが落ちた。そこにはシェラの字で『すべてが終わったら、薬草園でお待ちしています』と書かれていた。リティルは廊下をキョロキョロと見回した。だがそこには、薄闇に沈む無人の廊下が延びているだけだった。
かがり火に照らされた廊下を、シェラは走り、裸足はいつの間にか草を踏んでいた。顔を上げると、香りのある風がシェラの顔を撫でていった。ここは、薬草園だ。シェラはそのまま足を進め、月明かりに照らされた東屋にたどり着いた。切れた息を吐きながら、椅子に腰を下ろしていた。
終わった……役目は終わったのだ。クローディアが覚醒し、リティルに正体を明かした。偽りの花の姫の役目は終わったのだ。
「リティル……」
見上げた月が雲に隠れた。一層の闇がシェラが包む。幾度となく、リティルを失いそうな場面に遭遇してきた。それでも前を向けたのは、立ち向かえたのはリティルの風があったからだ。風の王の、決して屈しない力強い昼間の明るさを持った風が、シェラを暗闇から救い続けた。
けれども、それも、もう、失われる。
カザフサに何と言ったらいい?失った者同士、このまま――
シェラは首を振った。できないと思ったのだ。カザフサはいい人だ。彼となら上手くやっていけるだろう。でも、心が死なない。リティルとの今まで、今もこの胸にある想いを殺す事はきっとできない。こんなこと、ダメだ。今、恋に破れるのだとしても、カザフサから愛し合う未来を奪うことは大きすぎる代償だ。
このまま、偽りの花の姫として生を全うしよう。待っていれば、それは訪れる。世界は、優しい死を運んでくれる。
いい。この結末でいい。リティルを想ったまま、カザフサを選ぶことはできないと、シェラが心を決めた時だった。草を踏む音を隠さずに、気配を隠さずに彼は現れた。闇に目を凝らしたシェラは、ハッとその者を見た。
「あなたは……!」
闇を纏い、彼は、ニヤリと笑った。
「ごきげんよう、シェラ」
そうして優雅に、一礼したのだった。
訓練場には、リティルとカザフサの決闘を見ようと、宮殿中の人々が集まっていた。その中にシェラの姿を捜したが、リティルはどうしても見つけることはできなかった。
カザフサに決闘を申し込みに行ってから今まで、シェラとは言葉どころか、その姿も見てはいなかった。カザフサもシェラから置き手紙を受け取っていてそこには、休みたいのでそっとしておいてほしい。すべてを受け入れると書かれていたという。カザフサも心配していたが、休みたいと告げられてしまえば、踏み込むわけにはいかずという状況だった。
だが、もう終わる。この後いくらでも時間はある。そう思っていた。
いや、言い聞かせていただけかもしれない。
「リティル」
カザフサの声で、リティルは顔を上げた。
「ああ。じゃあ、始めようぜ?」
リティルは両手にショートソードを、風の中から抜いた。カザフサも長剣を構えた。
リティルは挑戦者だ。リティルがカザフサに勝たなければ、シェラを取り戻せない。
両者は、言葉なく刃を打ち合った。互角に見えた剣だったが、徐々に、リティルの素早さにカザフサが遅れを取り始めた。
「カザフサ!おまえ、クローディアを幸せにできるか?」
突然叫んだリティルの声に、カザフサは剣を振り上げて斬りかかった。
「一緒に、幸せになれる努力をする」
剣が交わる。剣を受けたリティルをねじ伏せようとするかのように、カザフサがぐぐっと競り合った剣に力を込める。1歩も引かない強い瞳が、リティルを真っ正面から睨んでいた。普段控えめな彼からは想像できない気迫だった。
「オレは王になる。そんなオレの傍らに立つのは、きっと苦労する。それでも!オレは彼女に、クローディアに選ばれたい!」
キインッと高い音が響いて、リティルが弾かれる。その手が、余韻に痺れていた。
十分だな。リティルは笑った。
追撃したカザフサは、リティルの姿を追ってバッと空を仰いで立ち止まった。立ち止まざるを得なかったのだ。その視線の先、跳躍では到底手が届かない上空に浮かぶリティルに、彼の目のみならず、ここにいるすべての者の視線が釘付けになった。
空中にいるリティルの背に、金色のオオタカの翼が生えていたのだ。
チャラリとかすかな音を立てて、左耳に現れたフクロウの羽のピアスが揺れた。腰に置かれた右手首に現れた、クジャクの羽根のブレスレットが風を受ける。黒いリボンに束ねられた髪が、さほど強い風が吹いてもいないのに見えない手に撫でられるかのようになびいていた。
バサッと音を立て、リティルの背後に金色のクジャクと金色のフクロウが翼を広げた。
2羽の魂を誘う金色の鳥を従えたその姿は、この大陸のすべての者が知る、かつて、この大陸を危機から救ってくれた恩人の精霊、風の王・リティルの姿だった。
「決闘の途中で悪いな。オレは15代目風の王・リティル!亜人の国15番目の王子・カザフサ!オレの娘、花の蕾姫・クローディアとの婚姻、許してやるよ」
2羽の鳥を空中に残し、地上に舞い降りたリティルの傍らに、モルフォチョウの羽根を生やしたドレスの娘が寄り添った。彼女の纏うドレスは黄色のサテンで、キラキラと光が波の様に動いて金色に見えた。微笑む彼女は紛れもなくクローディアで、カザフサは唖然とリティルとクローディアを交互に見ていた。
「クローディア、精霊の力を奪う。それでおまえは今まで通り、グロウタースの民だぜ?」
「うん。ありがとうお父さん」
跪いたクローディアに、リティルが手をかざすと、その体から透明に輝く光が抜けていった。背に生えていた美しい羽根が、幻のように消えていく。
「これは結婚祝いだ。オレの風、役立ててくれよな?」
笑うリティルと、泣きそうなクローディアは一度だけしっかりと抱擁を交わした。背をそっと押されたクローディアは、衝撃から立ち直っていないカザフサの前に立った。
「わたし、風の王の娘だったの。こんなわたしだけど、お嫁さんにしてくれる?」
「いろいろ聞きたいことはあるけど、今は全部忘れるよ。クローディア、オレから言わせてくれないか?」
緊張気味に見つめるクローディアの前で、カザフサは一度息を詰めると、居住まいを正した。
「オレの妻になってくれ。行く道は過酷になってしまうだろうけど、一緒に歩いてくれないか?」
「はい。どんな道でも一緒に行くよ?偉大な両親に恥じないように、カザフサの隣を歩くよ!」
2人は、大歓声と祝福の拍手の中、抱き合ったのだった。
ハア疲れた……。リティルはサッサと人混みに紛れて飛び去った。
カザフサからシェラを奪い返すと見せかけての、プロポーズのお膳立て。
クローディアは、人間の王の血を引いているとはいえ、それが表に出ることはない。身分のことでとやかく言われないようにしたことだったが、さて、良かったのか悪かったのかわからない。
あとはおまえ達次第だぜ?リティルはもう二度と会えない娘に祝福を送りながら、最愛の妃の気配を探して宮殿内を飛んだ。
媚薬騒動のあと、皆が後処理に追われているその時、シェラは、誰もいない薬草園の東屋に立っていた。彼女の瞳には、ある決意があった。その瞳は、死を待つばかりの精霊のものではない。
「ちょっと、放しなさいよ!どういうことよ?ルッカサン!」
騒がしい耳障りな声に、眉根を潜めて、シェラは振り返った。そこには、執事のセバスに腕を掴まれた翳りの女帝・ロミシュミルがいた。
「女王陛下、罪人をお連れしました」
セバスは、ロミシュミルを闇色の縄で縛るとドンッと、シェラの前に突き飛ばした。厚底の靴が災いして、ロミシュミルは蹌踉めくと膝をついていた。
「ルッカサン!わたしが罪人って何よ?それに、女王陛下って……」
サクッと草を踏む音が静かに響き、ロミシュミルはビクリと身を振るわせると、恐る恐る見上げた。そして、ヒッと息を飲んだ。冷たい紅茶色の瞳が、感情なく見下ろしていたからだ。
「わたしは、闇の女王・シェラ。こうなることを、望んでいたのでしょう?」
シェラはフフと冷たい眼差しで微笑んだ。その微笑みを見たロミシュミルは、青ざめてガタガタ震え始めた。あのとき、シェラに偽りの花の姫と投げつけたときとはずいぶん違う表情だ。この女は知らなかったのだろうか?シェラの異名を。
風護る戦姫。シェラはリティルの隣でただ微笑んでいるだけの王妃ではない。かつて精霊達に風の王の守護者と言わしめた、戦姫だ。今は一線を退いているが、城を攻められた暁にはそれ相応のもてなしができるほどには鈍ってはいない。
「待って……待って!ほんの出来心だったの!許して、シェラ!もう、二度とちょっかいかけないって誓うわ!だから、だから――」
「だから?」
シェラの冷ややかな笑みに、ロミシュミルは口を噤んだ。
「感謝しているのよ?本来のわたしに戻してくれて」
「本来って、何言ってるのよ?あなたは、ただの、花の姫の母親じゃない!人間の!」
スッとシェラの瞳が眇められ、ロミシュミルは何度目か口を噤まされた。この女はいったい誰から、シェラとリティルの物語を聞かされたのだろうか。リティルが予定通り目覚めていればそうなっていたが、リティルはシェラの時代に目覚めた。この魂に、花の姫の証がある限り、15代目風の王・リティルの花の姫はシェラ、ただ1人だ。そんなもしもの話でこの期に及んで挑発してくるとは、助かるとでも思っているのだろうか。
「わたしは、風の王の妻となる実の娘に嫉妬して、その身に宿った光を、闇の姿を照らし出す光に変える。そういう運命よ?闇は、光がなければ、その形を見ることすら叶わないわ。知っているでしょう?」
もしもの結末と違うのは、シェラにリティルと敵対する気がないということだろう。
もしも運命が、風の王・リティルに仇なせというのなら、全力で抗う。
あの人は今でもわたしの最愛。選ばれなかった偽りの女でも『シェラ』としてのプライドを守ってみせるわ!その為の第一歩だと、シェラは翳りの女帝・ロミシュミルを見据えていた。
風の王の手を、虚言で煩わせた、度しがたいほど頭の空っぽな女。今後、リティルの心を乱さないようにしてやらなければ、気が済まない。シェラの心は表情とは裏腹に、焼け付くような怒りの炎に支配されていた。
「女王陛下、そろそろ」
シェラの後ろに控えたセバス――影法師の精霊・ルッカサンはこれ以上の問答は不要と、シェラを急かした。クーデター。これは、影法師の精霊・ルッカサンの起こした、下剋上だ。
怯えて身構えるロミシュミルの姿に、シェラは汚物でも見るような目で眉根を潜めた。風の王を謀って、お咎め無しと思っていたらしいそのバカさ加減に呆れる。すでに風の城は、翳りの女帝との全面戦争に動き出しているだろう。風の王・リティルから、風の王妃を取り上げようとしたのだ。それが、どんな意味を持っているのか、それすらこの期に及んで気がついていないのだ。
こんな小者相手に、風の城が動くことはない。
「嫌!やめて!やめて!きゃあああああああ!」
シェラはロミシュミルに弓を引いていた。放たれた光の矢は彼女を貫き、その姿が闇となる。シェラがその闇に手をかざすと、ロミシュミルだった闇は、まるで生き物のようにシェラにまとわりつきながら、彼女の中に吸い込まれていった。
仕事を終えたシェラは、再び東屋に向き直った。
心は薙いでいる。もっと、引き裂かれてバラバラになると思っていたが、実際になくしてみるとこんなものなのだなと、シェラは思った。
シェラの魂から、花の姫の証が消えてなくなった。代わりに、翳りの女帝と呼ばれる闇の王の証が、魂と結びついた。