婚約破棄、忘れました
鬼の形相をした花嫁がいる結婚式場に、参列したことはあるだろうか。
そこに居合わせてしまった不運な参列者たちは、ひたすらにじっと下を向いて、もじもじと組み替える自分の手元を眺めている。
美しいウェディングドレスに身を包んだアリア・グレイ伯爵令嬢は、仁王立ちで腕を組み、背中に憤怒の炎を背負って傲然と立っていた。うっかり目でも合おうものなら、取って食われそうなのだ。
結婚式。
女の人生で最大の晴れの日。
新婦のアリアは、本来ならば皆からチヤホヤされて、今日ばかりは世界暫定一位の美人になれるはずだった……新郎が問題なく教会に来ていれば。
「コントスのやつはまだ見つからんのか」
新郎、コントス・ザランディの父であるザランディ伯は、そわそわと行き来する召使にコソコソと聞いている。
義父になるザランディ伯ですら、アリアの気迫に圧されてこのありさまだ。だが、知ったことではない。父親に罪はない。朝から行方をくらましている、バカアホマヌケの愚息には痛い目見てもらう他ないが。アリアの心の中にいるコワイおじさんが、さっきから「これはメンツの問題じゃけぇのぉ」と言っては木刀を素振りしている。
と、そこに教会のドアが開き、お集りの皆さんがざわめいた。
ザランディ家の召使い数人に捕獲されたコントスが、抵抗しながらも連行されてきたからだ。
「何すんだオマエらふざけんなー! クビにすんぞゴラー!」
「クビはオマエじゃアホー!!」
すっとんで行ったザランディ伯は、脱ぎたてホヤホヤの靴で息子の脳天をスパーン! と叩いた。中身の入ってなさそうな、いい音だった。
「どこ行ってたんだ! 結婚式をすっぽかすなどお前……ザランディ家の名に泥塗りおって」
「そうね。これはメンツの問題ですからね」
アリアがゆらりと親子の前に出た。木刀おじさんのオーラを纏いながら。
「ボテくり回したいのは山々ですが……それは後のお楽しみにして今はとりあえず、式を済ませてしまいましょうか。皆様も待ちくたびれているようだし」
参列者の皆様は話を振られてビクリと肩を揺らす。
コントスは襟元を正し、胸を張って堂々と言い切った。
「何を言ってる! なんでお前と結婚しなきゃいけないんだ、その話は破棄しただろう!」
ハァ!? と、コントスを除く他一同の表情が揃った。フィーバー。
「な、何だそれは! 本当に!? 聞いてないぞ!?」
アリアよりザランディ伯の方が動揺している。アリアは最早、行き過ぎた感情のため無表情だ。
「そうですね。初耳です」
そこで初めて、コントスも「アレッ?」と思ったらしい。
「えっ……したよー、お前との婚約を破棄する! っつって、ズバッと人差し指突き付けたじゃん! そしたらお前が泣き出して……」
「記憶にございませんが?」
「……いや、ウソつくなよーアリア、やだなー。ビックリしたじゃん。アレだろ、婚約破棄されたの恥ずかしいから誤魔化してるんだろ?」
アリアは微動だにしない。二人の間に奇妙な沈黙が流れた。この上ない緊張感に、一同、固唾を呑んで見守る。コントスはキョドって頭を掻いた。
「あっじゃあ……その。忘れてたかも? 破棄するの」
忘れてたかも? 破棄するの。
幸せ絶頂女の夢詰め込んだ結婚式ツブしておいてこの言いぐさ。
アリアはこの上なく邪悪な笑みを浮かべた。同じ顔をしてみせるインナーおじさんは、こりゃあ指じゃ済まんのぅ、と呟いていた。
「大方、夢でも見てたんでしょう。さ、戯言ぬかしてないで結婚しますよ結婚」
「い、嫌だ! だって俺したもん絶対婚約破棄!」
「いつですか。何時何分何秒ですか」
「えっと、先週? 水曜だったと思う……」
コントスの答弁はこの上なく自信なさげに口籠っていたが、それとは逆に、スッと座席から立ち上がった一人の令嬢が、顎を軽く上げ、ハキハキとした声でもの申した。
「先週水曜。午後14時32分18秒。コントス様は婚約破棄をなさいました」
突然の告発に、皆が彼女に目をやった。あまりに揃った所作に、音が聞こえるほどだった。
令嬢は青い顔をコントスに向けた。
「……それは私のことかと思います」
何かを思い出したらしい。コントスは、アッ! と小さく叫ぶと、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
やっと我に返ったザランディ伯が叫ぶ。
「追え! 何をしとる、追わんか! ヤツをひきずってでも連れてこい!」
帰ってきたばかりの召使たちが、再び慌てて駆け出していく。声をあげた令嬢は、その場に蹲り、ワッと泣き出した。
「ちょっと貴女。それは本当なの?」
泣いてる令嬢に駆け寄って、アリアは聞いた。ええと。誰だっけこの栗毛。
隣のマダムが「まぁ、ケイトちゃん……」と声を詰まらせたので、マーゴット伯爵さん家の令嬢ケイト・マーゴットだということは理解できた。
マダムが宥め、なんとかかんとか話を聞き出したところ、ケイトとコントスは今年の初めからそのような仲になり、「いつか結婚しよう」という言葉の元に、イチャイチャイチャイチャしていたらしい。
恥ずかしいから、周りには内緒にしていよう。両親への挨拶はそのうちに、と言っていたらしい。それは……計画的犯行では?
「それで……いつ結婚できるのかと思ってせっついていたら、先週水曜、言われたんです。お前との婚約は破棄だ、って。私には愛するイボンヌがいるから……って……」
痛いシーンを思い出したのか、ケイトはまたわあわあと泣き出した。ザランディ伯の顔はもう土気色をしている。
アリアは眉間に皺を深く刻んで、憮然と呟いた。
「イボンヌって誰よ……」
もはや辛抱たまらん、あのクサレひよひよ男、この手でぎったんぎったんにしてくれるわ!
腹を決めたアリアは教会の扉をバタリと開け、自らハンターとして追跡に回った。
後に続くはザランディ伯とケイト・マーゴット。一緒に獲物をブチ殴ってくれるのか、行き過ぎるようならアリアを止めようというのかは分からない。それに、ヤジウマしたい参列者がぞろぞろ。
逃げたと思しき方向へずんずんと進むと、こちらに向かっていた馬車が止まり、中から犬を抱いたご婦人が降りてきた。
「ちょっとアナタ! 大変なのよ!」
と、ザランディ伯に手を振ってみせる。誰かと思ったら、ザランディ伯夫人……つまりはコントスの母、マリエラ・ザランディだ。そういえば、バカ息子と同じく式場には姿を現していなかった。
「コントスを見なかった? あの子、結婚式だっていうのに、いつのまにか式場から逃げ出しちゃったのよぉ」
そこまで言って、夫の隣にいるのはアリアだと気づいたらしい。マリエラは、いかにも嫌そうに眉を寄せた。
「まぁ……なんで一緒にいるのアナタたち。それに何、その恰好」
ピキッ?!
少年漫画のようなキレエフェクトがアリアに入る。アリアとマリエラは折り合いが悪かった。嫁いびりをしたいタイプのマリエラは、何でもズケズケ言ってしまうアリアのような女は気に入らないのだ。
「近眼すすんだのかしらババ……奥様。見ての通り結婚式なもんでねェ」
「あら……そりゃおめでとう。まあどうでもいいわ、私はコントスの結婚式で忙しいのよ。ねぇアナタ、コントスを探してちょうだい。早くしないと式が台無しになっちゃうわ」
「ハァ? もうなってんだが!? おたくのご子息のせいでね!」
アリアの怒号を聞いて、思い出したようにケイト・マーゴットが後ろでふぇぇと再泣きした。
「何でアンタが被害者面してんのよ、関係ない人は黙ってて頂戴。先方様は待ってるのよ? レイトン伯爵になんと言えばいいのか……」
ザランディ伯は、妻の言い分にギョッとした。
「レイトン伯爵!? なんでレイトン伯爵がそこで出てくるんだ」
「何言ってるのよ、結婚するからに決まってるじゃない! 今日はイボンヌ・レイトンとの結婚式なのよ」
「そいつが犯人だー!」
怪盗を見つけた気分でアリアは叫んだ。名前一致、間違いない。
「結婚式? 今日? ハッ! 孝行者の息子さんですねぇ?? 親を安心させるために結婚式あげちゃうかぁ一日二回も!! どこなの? どこにいるのその女は、話を聞かせてもらうわ」
「うちの息子と結婚するつもりなの? 私は許しませんからね! レイトン伯の娘さんはそりゃあいい子なのよ……ねぇアナタ、何か言ってやってくださいな」
「……知らん。わしはアリア・グレイ嬢と結婚するもんだとばかり思っていた。これは息子の不始末だマリエラ。どこの教会だ。早く教えろ」
腹痛を堪えるような顔でザランディ伯は言った。結婚式までは認識してたとしても二人で別の式場に行くあたり、夫婦仲の冷えっぷりはよくわかる。
「嫌ぁよ、息子の幸せを壊すの? 早く捕まえて、イボンヌ嬢と添わせてあげないと」
ところで、マリエラの宝物は二つある。
一つはかわいい息子ちゃん。
二つ目は腕に抱えている、もっとかわいいワンちゃんだ。名前はアウグスト。客観的に見てかわいいかどうかは、人による。
へちゃむくれのちんくしゃで、ハムのような胴体に短い手足。首輪に付けられた貴族然とした白い襟飾りは、顔の周りに偉そうに広がっている。ザランディ邸の庭には金色に塗られた立派な犬小屋が庭にあり、普段はそこにお住まいになられているお犬様だ。なお、広さは召使にあてがわれた部屋の二倍はある。マリエラ溺愛の愛玩動物なのだ。
なので、アリアはにこやかな笑みを浮かべて、大袈裟なフリをつけてこう言った。
「あっらぁー、いつもながらお可愛らしいワンちゃんですねぇ!」
「な、なによ……」
「可愛らしいですねぇ! いつまでも元気でいて欲しいですよねぇ……ねぇ? どこの教会です?」
みんなも心に一人、コワオモテのおじさんを飼うといいと思う。随所において便利である。
マリエラは青い顔でアウグストちゃんをギュッと抱きしめた。
マリエラが白状した教会に一同が乗り込んだ時、まさに婚約破棄が行われている真っ最中だった。
「イボンヌ・レイトン嬢! 悪いが婚約を破棄させてもらう!」
ウェディングドレスの女性に、やけくそのような大声をぶつけるコントス。
ズバリと宣言する姿にフラッシュバックしたか、ケイト・マーゴットは三たび泣き出す。
それより反応が良かったのは、言葉と人差し指を突き付けられたイボンヌ・レイトン嬢だ。うーんと一言呻いて気絶し、棒が倒れるように後ろにパタリといった。なるほどマリエラが見込んだ女性なだけある。打たれ弱い。
代わりに吼えたのはイボンヌの父親、レイトン伯爵だ。
「今更何を言うか! もう婚約の段階じゃないわ! 結婚式だわ今日は!」
ごもっともだ。
「だって、言いづらくて……」
「言いやすかったら言っていいのか!? 舐めとんのか!」
言い争いの後ろで、アリアはまだ泣いているケイトの首っ玉を引き寄せ、耳元に声を吹き込んだ。
「いい、覚えておきなさい。貴女は言いやすかったから言われたのよ。その通りよ。舐められてたの。もう都合のいい女になるんじゃないわよ」
「でももう言ったから! そういうことなので! では!」
無理矢理話を終わらせ逃げようと踵を返したコントスは、入り口がアリア以下関係者で埋められているのを見て、ビクリと動きを止めた。アリアは腰に手を当てた。
「呆れた。こちらさんにもまだ婚約破棄してなかったんだ?」
「……今したからいいだろう。仕方ないからわざわざ言いに戻ってきてやったんだぞ!」
口をとがらせて言うが、レイトン伯爵の手前あまり強くは出られないらしい。アリアの問いに答えた体で、声を抑え気味にしている。ヘタレだな。
「コントスちゃん、どうして……? どうして結婚しないの、イボンヌ嬢はいいお嬢さんじゃない!」
マリエラの呼びかけにコントスは俯いたが、意見は変えなかった。
「嫌だもん! イボンヌは好きだけど、結婚は嫌だ!」
「じゃあ誰ならいいの? アリアさんはダメよ」
「あ? やんのかババア」
アリアとマリエラの間に火花が散る。
「アリアも好きだ!」
コントスは叫んだ。あまりの言葉に、いがみ合う二人もポカンとしてしまう。火にそそぐ油としては意外性に富みすぎて着火に至らない、サラダ油のようだった。
「ケイトも好きだし……マーちゃんも好きだ!」
「マーちゃんって誰よ……」
即座に入るアリアのツッコミにもこたえる余裕のないコントスは、必死に自分の主張を訴える。
「みんな好きだけど、俺はまだ結婚したくない! 面倒だし! 責任とか取りたくないし! 家に縛られたくない! みんな結婚を迫ってきて嫌だった! そんなことしなくても、ありのままの自分を愛してほしい!」
アリアが、ついにアルカイックスマイルを見せた。ケイトの涙が止まった。イボンヌがむくりと起き上がった。
女たちの心は一致した。冷めた。急速冷凍だった。ただマリエラ一人が、うんうんと頷いていた。
「いいのよ、ゆっくり決めていいの。やっぱり私のことが一番好きなんだもんね。大丈夫よ、いつまでもお母様の子供よ」
「お母様! ありがとう! あとよろしく!」
コントスは走り出した。また逃亡しようというのか、ええい小癪なマネを。結婚なぞ最早どうでもいいが、責任だけは取ってもらわずばなるまい。
出口に向かうコントスを迎え撃とうと、一同カバディの格好で構えたが。
「アウグストちゃん、行って!」
号令が響くと、マリエラの腕の中からむっちりとしたハムが飛び出し、扉を塞ぐ連中にガウガウと飛び掛かり、大きく吠えたてた。
この隙だ、とばかりコントスは素晴らしいフットワークを見せ、思わず逃げ腰になる人の間をすり抜ける。
アリアが伸ばした手はサッシュベルトをなんとか掴んだが、ぐいと引かれた帯にクルクルと三回転を見せ、ハイッ! ポーズを決めたコントスは抜かれたサッシュベルトを置いて再び逃げ出した。横に流れたそれは、アリアに飛び掛かろうとしたアウグストちゃんの顔をふわりと覆う。視界を奪われた推定13キログラムのハムは、ザランディ伯に正面衝突して共倒れとなった。
「待ちなさーい!」
アリアたちはすぐに追う態勢に入った。今度は逃走は難しいはずだ。距離は近い。
ぞろぞろと追いかけてくる一同にコントスは叫ぶ。
「来るなー! 俺はマーちゃんと幸せに暮らすんだー!」
女たちは口を揃えて叫び返した。
「マーちゃんって誰よー!!」
ケイト・マーゴット、イボンヌ・レイトン、ザランディ夫妻、アウグストちゃん、他当事者の皆様と、二件分の結婚式参列者を引き連れた先頭に立ち、アリアはこれを代表して聞いてみた。
「……で。あなたがマーちゃん?」
「いかにも、私がマーニー・ベイント。バトルというなら受けて立つわよ」
コントスは街中に逃げ込み、その中の一軒家を叩いたのだ。「マーちゃん助けてー!」と言いながら。そして家の中に入ったコントスと入れ替わりに出てきたのが、このホウキを油断なく構えてみせる女性であった。これだけの人数を前にしても怯まず、闘気がいい具合に五体を巡っている。相手にとって不足はない。しかし。
「こんな町娘まで手玉にとって本当にあのバカ……」
情けなさに頭痛がしてくる。別に、この娘とやり合いに来たわけではない。同じ立場なら彼女だって被害者だ。
「落ち着いて。どう聞いているのか知らないけど、私たちは借金取りじゃないわ」
「違うの?」
やっぱりか。デタラメ言いやがって。
「そうね。言うなれば、コントス・ザランディ被害者の会」
「何よそれ。コンちゃんのこと悪く言うと、容赦しないんだからね!」
ホウキで風をきって見せるマーニー嬢に、まあ落ち着いて、と掌を見せる。
「あなたもどうせ、『キミとの未来を真剣に考えている。結婚しよう』とか言われてるんでしょう?」
「それがどうかしたの!?」
ケイトが横から口を挟んだ。
「『大丈夫、何があっても俺が守るよ』とかも言われたんでしょう」
「……そうよ。だから何よ……」
イボンヌも震える声で参戦した。
「『世界一かわいい子猫ちゃん、食べちゃいたいよ』とかも……」
「うわキモ」
「キモっ」
被害者の会メンバーにも引かれ、イボンヌはちょっと涙目になった。アリアは話を取りまとめる。
「まあね、つまり全部ウソよ。みんなアイツのかわいい子猫ちゃんだし、未来なんか全然考えてくれないわ。なんなら守ってもくれないし、むしろアイツを守ってるの貴女じゃないの!」
確かに。ホウキを握りしめたマーニーはしみじみ考え、確認した。
「結婚してくれないってこと……?」
「間違いないわ」
女たちは力強く頷いた。マーニー、やおらくるりと回れ右をしてバーン! と扉を開け放った。
「……ちょっとどういう事よー!! この人たちの言ってることは本当なの!? 結婚は!? 貴族になれるって話は??」
不穏な様子が伝わっていたのだろう、コントスは窓を開け放っているところだった。
「開けるなよぅ! 騙されちゃダメだマーちゃん、そいつら悪いヤツらなんだぞ!」
「生活の保障はどうなるの!? 私のお腹の中には赤ちゃんがいるのよっ!」
爆弾発言。
その場は一瞬静まり返り、次に女たちの悲鳴で満ち満ちた。
「そんな……そんな……うちの世継ぎが……!?」
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない顔をしてワナワナと震えているマリエラ。死んだ顔で童謡「チューリップ」を口ずさむザランディ伯。「そーでしょうそーでしょう、いつかやると思ってたわあのバカ」と腕組みするアリア。あーあ顔のケイト。オロオロしているイボンヌ。ヘッヘッヘッと舌を出しているアウグストちゃん。阿鼻叫喚である。
もっとも、一番思い切って鉄火場に突き飛ばされたのはコントスだ。
「な、な、なんだって!?」
「子供よ! パパになるのよ、しっかりして!」
「イヤだぁ!! 結婚も嫌なのにパパとかなりたくない! 責任は取りたくないって言ってるだろーマーちゃんの裏切者ぉ!!」
コントスは窓枠に足を乗せて、往生際悪く逃亡を図っている。
「裏だ、回れ!」
出たところを捕まえようと、アリアを筆頭に女たちは裏路地へ回り込んだ。
「いない!?」
「上よ!」
ケイトの指さす方向を見れば、伸びあがったコントスが屋根に手をかけるところだった。窓から身を乗り出したマーニーがホウキを振り回していたが、せいぜい尻をつつかれるだけでそろそろ攻撃範囲から逃れようとしている。
必死で屋根に登ったコントスは、お集りの皆様を見下ろし得意満面の笑みを見せ(ものっすごく腹の立つ笑いだった)、とっとと屋根伝いに逃げ出そうと背中を向けた。
今がチャンス! アリアはイボンヌの抱えていた大きなブーケをむしり取る。
「でっりゃああ!!」
大きく振りかぶり、投げた!
声に振り返ったコントスは、このブーケトスをあわやというところで避ける。強肩の剛速球、真っ当に当たったら顔面だった、ただではすまなかったところだ。重い花束はドサリと音をたて、コントスの足元に無惨に散った。
「ふっははー、残念だったな! あばよ!」
嬉しそうなコントスは自由への一歩を踏み出……したつもりだったが、思いっきり広がった花を踏んでしまった。
気持ちいいほど足を滑らせ、胸及び顎を強打しながら屋根に転がり、傾斜を流れて滑落していく。あっという間もない、ポーンと投げ出された先は、用水路の真上だった。
どぼーん。
「いやぁーすみませんねぇ、お騒がせして」
溢れそうなほどの紅茶を景気よくおかわりしながら、マーニーは頭を掻いた。
「おっとっと、もうそのへんで」
「クッキーもお食べ、マーニーちゃん」
「ほどほどにしますね。また胸やけするといけない」
「良かったじゃない。胸やけで済んで」
言いながらイボンヌもクッキーに手を出した。
マーニーはママになどなっていなかった。健啖家である彼女が感じていた体調不良は、前日に屠殺した豚肉をポークチョップにして三人前、心地よく召し上がったせい。つわりではなく胸やけであったのだ。良かった良かった。
おかげでこうして、皆で卓を囲める。ケイトがアリアのカップにもお茶を注ぎ、優雅なアフタヌーンティーは楽し気に進む。
すっかり仲良くなった女たちは、「次こそはいい男を探そうの会」のためにこうして集まっては会議を重ねるのだ……ザランディさん家の庭で。
「今日も元気そうで何よりね」
アリアが金色に光る犬小屋を見ると、同席の女たちもなんとなくそちらに注目してしまう。
「アウグストちゃーん、今日も世界一かわいいねー」
地面に這いつくばってコントスがニヤニヤと脂下がる。アウグストちゃんは澄ました顔でナンパ男に尻を向けると、無言で屁をこいた。
「全くもう、ツンデレさんだなぁ!」
これで許せるから愛が深い。
屋根の上からダイブしたコントスは、どこぞか打ちどころが悪かったのか、水から上がった後は自分のことを犬だと思うようになっていた。
そこで出会ったアウグストちゃんに一目ぼれし、今ではきんきらのアウグスト邸で一緒に暮らしている。二匹? とも仲は悪くないと聞くが、アウグストちゃんを一番に愛しているとの自負を持つマリエラは何となく面白くないらしく、愛犬を守るように抱き寄せ、黙って眉を聳かすばかりだ。
「アウグストちゃんってメスだっけ……」
「オスだったはずよ」
「そう……」
まあ、愛の形はそれぞれだ。いいじゃん。幸せそうだし。
「……それで? カンツニーリ領の領主も買いって話だったわよね」
「そこもいいけど、ダットン伯の惣領もなかなか」
「私、こっちにしようかなぁ」
各々、好きなリストを取り上げて「お願いしまーす」とザランディ伯に手渡した。
これで後ほど、お見合いを組んでくれる手筈になっている。庭先のワンコになってしまったコントスに賠償は求められない。なので、今はこれくらいで手打ちにしよう、という話がついたのだ。来たれ、幸せな結婚。
「よーし、頑張ろうねー!」
励まし合う掛け声とともに、四つのティーカップが掲げられた。
「じゃ、成功を願ってー……乾杯!」
命短し恋せよ乙女、っちゅうからなぁ。
心の中のおじさんも、半透明の幻影として青空に浮かびながら、満足そうに盃を掲げるのであった。