76:「あんたでよかった」
――夢を見ていた。
軋む扉を開ける。狭く暗い室内に目を凝らす。ベッドとも呼べない硬い板の上に、二つの人影が寄り添うようにして座っていた。
そっと近づく。母親とその息子のようだった。既に息はなかった。
頬がこけ、目元がくぼんでいる。餓死したのか、力なき者はこの世界で生きてはいけないと自ら生を手放したのか。
――ふぇ……。
その声で、気が付いた。母親がその胸にまだ息のある赤ん坊を抱いていることに。
手を伸ばす。もう息絶えているというのに母親が赤ん坊を抱く力は強く、我が子を連れていかれることを拒んでいるようだった。
――哀れな。
こんな世界に生まれてしまって。力を持たずに生まれてしまって。生きることすらままならない。大切な人一人守ることすらできない。哀れで、愚かで、もの悲しい。
赤ん坊を抱いて外に出る。快晴だった。穏やかで、優しい日の光が心地よい。
柔らかな頬を撫でる。世界から祝福され、愛されるべき新たな命は、生まれてすぐに全てを失ったのだ。それなのになぜ、“あなた”は全てを持ってもなお弱者から取り上げようとするのか。
青空を見上げ立ち尽くす男性――フォイセの胸に生まれたのは、この世界に対する深い深い絶望だった。
***
――ぱちり。目を開ける。そこにあったのはボロボロの天井だった。
崩れた天井から差し込んだ光が眩しい。思わず眉を潜めた瞬間、傍らで甲高い声が上がった。
「マリアちゃん!」
ふと手元にぬくもりが触れる。ゆっくり、ゆっくりと声のした方へ目線をうつし――泣きそうなセシリーの顔を見た瞬間、脳内に様々な光景が蘇ってきた。
ポルタリア王の驚くべき姿。フォイセと“融合”し化け物になった神様。一瞬で弾けて消えていく命。名前を呼んでくれたたくさんの声。それから、それから――吹き飛ばされそうになった私の手を握ってくれた、“誰か”。
聞きたいことは沢山あった。けれど何よりもまず知りたかったのは、
「……セシリー、私、どれぐらい眠ってた……?」
――セシリー曰く、私は一か月近く眠っていたらしい。その間に世界は目まぐるしく変化していたようだ。
まず、世界を脅かしていた化け物である元ポルタリア王について、私が触れた瞬間、その体が弾け飛んだらしい。つまり私は正真正銘“救世主”になったようだが、正直なところ実感が湧いていない。
あまりにも呆気ない結末ではあるが、この世界の中心であったポルタリア王が死んだ今、偉い人たちはてんやわんやしているそうだ。一か月では今後の方針を打ち出すことすらできず、これから世界がどうなっていくのか、セシリーも不安そうな表情をしていた。
元ポルタリア王に蹂躙されつくした王都はまだ復旧にすら取り掛かれていないようで、私が寝かされていたのは王都近くの仮設施設とのことだった。それにしてはボロボロの建物だが、王都で辛うじて形を保っていた建物をそのまま持ってきただけだというのだから仕方ないのかもしれない。
そこまでセシリーから聞いたところで、セオドリク先生とルシアンくんが顔を出してくれた。
「カーガさん、本当によかった……!」
「全部マリアのおかげだ」
元担任の先生と元クラスメイトからしきりに感謝されて恐縮していると、その後もぞろぞろと来訪者が現れた。
長い肩書と長い名前を次から次へと紹介されて、寝起きの私の脳はオーバーヒートを起こしてしまったのだが、つまるところ「世界を救ってくれてありがとう」と偉い人たちからお礼を言われた、らしい。
どうしても実感が湧かず、「いやぁ、良かったです」なんて曖昧な返事を繰り返していたら、彼らの中でも一際立派な髭を蓄えた男性が優しい声で問いかけてきた。
「これからどうしたいか教えてください。できるだけあなた様のご意向に沿えるよう、努力します」
これからどうしたいか。
突然投げかけられた問いかけに思わず固まる。
正直、どうしたいか分からない。何ができるのかも分からない。これから大きく変化していくこの世界で、私はどう生きるべきなのか――
そのとき、ふと脳裏に浮かんだ顔があった。
“彼”は無事だろうか。無事だとしたら、“彼”はこれからどうするのだろうか。
――会いたいと、思った。
「あの、ギルバート・ロックフェラーさんはどこにいますか?」
***
夕暮れに照らされる小高い丘の上に“彼”――ギルバート・ロックフェラーはいた。
こちらに背を向けるようにしゃがみ込んでいる彼の背中に声をかける。
「ギルバート」
思いのほかその背中は素早くこちらを振り返った。
「もう起きていいのか」
驚いているのか、少しだけ目を丸くしている。ギルバートにしては珍しい表情だと思いつつ、彼の顔が見られたことにほっと安堵を覚えていた。
ルシアンくんが教えてくれた情報によると、ギルバートはこの一か月王都の復興に向けて瓦礫の除去といった雑用を行っていたらしい。媒介石を通してルシアンくんの魔力を間借りしまくっているようで、彼は少しげっそりとした様子だった。
私はギルバートの問いに小さく頷いてから彼の隣に立った。そこでようやく彼がこちらに背を向けていた理由を理解した。
ギルバートが向き合っていたのは小さな墓石だった。彼はその墓に向かって手を合わせていたのだ。
墓石には名前こそ刻まれていなかったが、ギルバートが弔っていた相手には心当たりがあった。
「イルマのお墓?」
「どこに弔うべきか迷ったんだがな。ここからなら、変わっていく世界を見渡せるだろう」
そう言ってギルバートは立ち上がる。そして丘から未だ復興の兆しすら見えていない王都を見下ろした。
夕日に照らされる瓦礫の山を見下ろしながら、イルマの最後を思い出す。今すぐには難しいだろうけれど、どうか将来、イルマが微笑んでくれるような“未来”が訪れてくれたらと願わずにはいられない。彼女がかつて夢見たような、彼女が認めてくれるような、そんな未来が。
「これから、どうなるのかな」
「分からない。ポルタリア王の逝去はしばらく伏せられると聞いたが……いつまでも隠し通せるはずもない。近いうち、世界中が大混乱に陥るだろう」
世界の中心とも言える存在が突然逝去したのだ。今回の騒動について、またポルタリア王の真実について、どこまで明かされてどこまで伏せられるのかは分からないけれど、世界中を巻き込んだ大混乱を引き起こすのは必須だろう。
きっと今頃、世界中の偉い人たちが頭を抱えているのだと思うと、さすがに気の毒な気持ちが湧いてくる。
「どうなっていくのかな。この世界は」
想像がまるでつかず、不安すら湧いてこなかった。
ちらりとギルバートを見上げる。彼は変わらず、夕日に照らされる王都を見下ろしていた。
「すぐにこの世界が変われるとは思えない。それでも、変わらないといけない。何年、何十年、何百年かけても……」
「うん……」
ギルバートの言う通り、今すぐこの世界が変わっていくことは難しいだろう。長い長い時間の中で築かれた価値観を、常識を、一気に変えることは不可能だ。けれど同じく長い時をかけて、新しい価値観を、常識を、育むことができたのなら――
甘い考えだと分かっていた。世界はそう簡単にはできていない。ポルタリア王に変わる権力者が現れるだけで、何も変わらないかもしれない。十年後も、二十年後も、私は同じ絶望を抱いているかもしれない。
――それでも、私はこの世界で生きていかなければいけないのだ。私はこの世界で生きて、この世界の土に還る。
この命が尽きる瞬間、どうか絶望ではなく希望を抱いて眠りたいと願う。
その未来のために、私はこれからすればいいのか。どうしたいのか――
「あんたでよかった」
「え?」
ぽつりとこぼされたギルバートの言葉に、思考の海から引き上げられた。
彼を見る。淡い紫の瞳はこちらを真っすぐに見つめていた。
「この世界に来たのが、あんたでよかった。隣にいてくれたのが、あんたでよかった」
紫の瞳に夕日が差し込む。美しい色をしていた。
――どうして私なのかとずっと思っていた。レジスタンスは誰でもよかったとのだと分かっていたからこそ、どうして“神様”は私を選んだのかと、ずっと恨めしく思っていた。
でも、それでも、誰か一人でも、私だから意味があったのだと、私でよかったと、そう言ってくれるのなら。いつか“神様”を恨めしく思わない日が来るのかもしれない――
不意に右手首を掴まれる。あ、と思ったときには抱き寄せられていた。
「この世界の救世主が、マリアでよかった」
じわり、目元に涙が滲む。
涙を隠すようにギルバートの肩に顔をうずめて言った。
「私も……ギルバートがいてくれたから。本当に、ありがとう」
背中に回された腕にぎゅっと力が込められる。私たちは互いに口も開かず、ただ互いの鼓動に耳をすませるように抱きしめ合っていた。
私たちはたくさんのものを失った。帰る場所も、友人も、家族も。ギルバートは私のせいで魔力を失って、私は元の世界を失った。
この手の平の中に残っているものはもうごく僅かだ。しかしギルバートはきっと、今自分が置かれている環境を悲観してはいないだろう。――抱擁を解き、見上げた紫色の瞳は、真っすぐに前を見つめていたから。
「これから、どうするの?」
するりと口元から零れ落ちた問いは、私が一番聞きたかったものだった。
先ほど同じことを問いかけられて答えに窮した私とは対照的に、ギルバートは迷うことなく答えた。
「旅に出ようと思う。魔力を失った俺が王都にいたところで何もできないし、そもそもレジスタンスの生き残りだからな。見逃してくれるだけありがたい」
ギルバートの処遇については聞いていなかったが、彼の口ぶりからして逮捕されたり身柄を拘束されるといったことはなさそうだ。彼の罪と功績を省みた結果、“見逃す”という結論に落ち着いたのだろう。
旅に出る――。
その答えを聞いた瞬間、私の脳裏にも一つの“答え”が浮かんだ。
「あんたは望めばどんな生活でも国が用意してくれるはずだ。好きなだけ贅沢を言うといい。それだけのことを成し遂げたんだから」
「でも、私、王様殺しちゃったし」
おどけたように肩を竦める。ギルバートは私の軽口に乗ることなく、むしろ深刻な表情で言った。
「……あいつはもう、王ではなかった」
ギルバートの言葉はきっと正しい。フォイセと“融合”した後のポルタリア王はもう、この世界の王様ではなく、人ですらなかった。
それでも私は、“化け物”に触れたあのとき、吹き飛ばされそうになった私の手を掴んでくれたやせ細った男性の顔が忘れられなかった。強くあたたかな手を思い出すと、今でも涙が出そうになる。
強い光の中、ありがとうと微笑んだ彼は、きっと――
「それでも……たぶん、この世界のことを大切に思ってただろうから」
ポルタリア王はこの世界のゆがみの原因で、すべての元凶だ。その思いは変わらない。しかしだからこそ、これから変わっていく世界をどこかで見守っていてくれたら、と思う。そして、私も――変わっていこうともがく世界を、人々を、一番近くで見ていたい。
ゆっくりと離れていくギルバートの腕を引き留めるように掴んだ。そして、
「あの、あのね、ギルバート。迷惑じゃなければ、あなたの旅に一緒についていってもいい? この世界のことを、もっと知りたいの。そして、この目で見たい。……変わっていくこの世界を」
ギルバートは何も答えない。しかし、腕が振り払われることもまた、なかった。
「足手まといには……なるだろうけど、でも、私も頑張るから。その、いろいろと……」
何を頑張ればいいかすら分からないくせに、曖昧な言葉でギルバートを引き留めようとする自分が滑稽だった。けれど今このときを逃せば二度と彼と会えないような気がして、必死で言葉を紡いだ。
迷惑だろうか。断られるだろうか。嫌そうな顔をしていたらどうしよう。ああ、顔が上げられない――。
「その、だから――」
瞬間、力いっぱい抱きしめられた。
言葉は何もなかった。ただ、苦しいぐらいに強く強く抱きしめられて、触れ合った頬が最初は冷たかったのに、だんだんとあったかくなっていって、それで。
夕日がゆっくりと沈んでいく。瓦礫の山の間に太陽が消えて、あっという間に暗闇と静寂があたりを支配する。
冷たい夜だった。寂しい夜だった。孤独な、夜だった。
きっと、こんな夜をこれから幾度も越えていかなければならないのだろう。日が昇るまでじっと息を潜めて、先の見えない暗闇に心を震わせて。
――けれど、ほんの少しだけ触れ合った、互いの頬のぬくもりがあれば、大丈夫だと思った。辛い夜には変わりないけれど、恐ろしい闇を打ち払うほどの力はないけれど、それでも。
ギルバートとなら、大丈夫だと思えた。それだけでもう、十分だった。




