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75/75

75:救世主



「あの化け物が本当にポルタリア王なら、私は、私だけが、殺すことができる?」



 私の問いかけにギルバートは束の間目を見開いた。動揺するように泳いだ淡い紫の瞳の焦点が、ゆっくりと私に合わされる。瞬きをゆっくりとひとつ、ふたつ、みっつ。

 ギルバートは私の目を見てしっかりと頷いた。



「おそらくは、そうだ」



 答えを聞いた瞬間、私の心に訪れたのはほんの少しの安堵と大きな絶望、それから自分の肩にとんでもないものがのしかかっているという恐怖。しかしそれでも、僅かに差し込んだ光を見なかったことにするなんてできない。

 どんどんうるさくなる心臓を落ち着けるように深呼吸をした私の肩に、ルシアンくんの手がかけられた。



「マリア、何を考えてる?」



 ルシアンくんは険しい表情を浮かべていた。

 賢い彼のことだ、私とギルバートの最低限のやり取りから何となく察しているに違いなかった。



「ポルタリア王の繭に私が触れた瞬間、一瞬で弾けたの。それと同じことがあの体でも起きるなら……」



 記憶に新しいポルタリア城での出来事。あの光景を見た瞬間、あぁこのためにフォイセは私を召喚したのだと理解したのだ。

 この世界の人々はポルタリア王に指一本触れることはできない。しかし異世界人である私が繭に触れた瞬間、一瞬で崩れた。それと同じことが化け物の体でも起こるなら――



「可能性は高いな。奴の体は外からの衝撃に極端に弱いはずだ。本来なら、その体に触れることができる人間は存在しない」



 ギルバートはこちらを見下ろす。彼に視線を返して――右肩をぎゅうと強く掴まれた。ルシアンくんだ。

 彼は私とギルバートの間を遮るように立って声を荒げた。



「そんなこと言って、マリアまで取り込まれたらどうする!」


「このまま手をこまねいていても、結局は同じことだ」



 心配してくれるルシアンくん、冷静な判断を下すギルバート。真正面からぶつかり合う二人の姿を見て、こんな非常事態なのに懐かしさを覚えた。

 決して長くはない学園生活の中で、何かとそりが合わない二人を何度も見てきた。今思うと平和だったなぁ、と思う。とはいってもギルバートはレジスタンスの一員だったし、ルシアンくんとセオドリク先生はレジスタンスの目論見を防ぐために潜入捜査をしていたのだから、呑気にしていたのは私とノアくんぐらいだったのかもしれない。

 楽しいことばかりではなかった。悩みぬいたし、この世界の理不尽に憤って、涙した日もある。けれど――苦しいことばかりでも、なかった。



「止められるのは、マリアしかいない」



 ギルバートが静かに言う。ルシアンくんは言い返さない。言い返せない。

 ――己の無力を嘆き続けた私が、最後の最後に、まさかこんな大役を務めることになるなんて。

 現実味がなさすぎて思わず笑ってしまう。自分の身に起きていることなのに、なんだか他人事のようにふわふわとしていて、緊張も恐怖もすっかりどこかへ消えてしまった。

 私の前に立つルシアンくんの腕にそっと触れる。そうすれば彼は弾かれたようにこちらを振り返った。



「マリア……」


「大丈夫。戻ってきた甲斐があるってもんだよ」



 冗談めかすように、己を鼓舞するように、笑ってみせる。そうすればルシアンくんはしばらくの間押し黙って、それから、笑い返してくれた。歪な笑顔だったけれど、私の決断を受け入れてくれたのだとすぐに分かった。



「救世主だな、まさしく」


「……ふふ、そうかも」



 ギルバートが呟く。私は笑って受け入れる。

 救世主なんてキャラじゃないと、幾度となく否定してきたけれど。どうか今回だけは――本当の救世主になれますように、と、そう心から願った。



 ***



 作戦決行まで時間がなかった。少し目を離している内に化け物はポルティカを蹂躙しつくしてしまったのだ。

 化け物は進路を東に取った。これ以上被害を広げないよう、新たな街に辿り着く前に“始末”しなくてはならない。

 短い時間で立てた作戦はお粗末なものだった。とにかく私が化け物に触れられれば良いのだ。道中はギルバートに運んでもらい、最後の数メートルは私が一人で走る。それだけだった。



「ギルバート、マリアを頼む」



 ポルタリア魔法学院があった場所から街を見下ろす。活気にあふれていた王都は見る影もなく、化け物に食らいつくされてしまった。

 王を失い、王都を失い、果たしてこの国は、この世界は復興できるのだろうか。脳裏を過ぎ去った不安を頭を振ってやり過ごす。――大丈夫。生きてさえいればどうとでもなる。生きてさえ、いれば。

 ルシアンくんが一足先に駆け出した。今も魔術師たちは効かない魔法を駆使して、一秒でも化け物の歩みを止められないかと苦心している。そこにルシアンくんが加わったが、化け物の皮膚があっという間に魔法を吸い込んでしまって、足止めすらままならないようだった。

 ――今からあそこに行くのだ。あの化け物と対峙するのだ。

 直前になってじわじわと恐怖が背筋からせり上がってくる。息を詰めた私の目の前に、ギルバートの右手が差し出された。



「行こう」


「……うん」



 手を取る。ぐいっとその手を引かれ、そのまま肩に担ぎ上げられた。ふわっと全身が浮遊感に襲われて、次の瞬間風をきってギルバートが走り出した。

 街の建物の影に、身を震わせる少女の姿があった。戦意を失い立ちすくむ男性の姿があった。懸命に魔法を発動させる魔術師の姿があった。

 ――彼らにも、一人一人大切な人がいる。この世界に、守りたい人がいる。

 ぐんぐん化け物に近づいていく。悪臭が鼻をつき、不快感と恐怖で全身が慄いた。

 魔法を吸収したからか、街を蹂躙したからか、化け物の体は明らかに大きくなっていた。しかしその分動きも鈍くなっており、あっという間に目と鼻の先まで追い付いた。



「走れ!」



 ギルバートが叫ぶ。体がやさしい風に包まれて、私の足が地面についた。

 走り出す。一歩、また一歩と前に進む。

 運動は得意な方だった。体育はそれなりにいい成績をおさめてきたし、リレーの選手にだって選ばれたこともある。だから足の速さには自信がある。それなのに、遠い。化け物の背中が、この世界の安寧が、未来が、遠い。



(もっとはやく、もっとはやく、動け!)



 心の中で叫ぶ。足を必死に上げて、必死に地面を蹴って、前へ進む。

 ――この世界に来てから私はずっと無力だった。救世主なんてキャラじゃない。その思いは今までも、これからも変わらない。それでも、こんな私でも、何かを守ることができるなら。この道の先に、大切な人たちの未来があるのなら。

 脳裏に浮かぶ沢山の顔があった。もう二度と会えない顔も、どうか無事でいて欲しいと願う顔も、脳裏に浮かんでは消えていく。



「マリア!」



 沢山の声が私の名前を呼んだ。それはきっと走馬灯にも似た幻聴だったのだと思う。けれどその声のおかげで、私はその“一歩”を踏み出せた。

 ――どろどろに溶けたその背中に指先が触れた瞬間、目の前で肉が弾けた。襲い来る閃光に強く目を瞑って、それでも足だけは止めずに進み続ける。

 指先に感触はなかった。おそらく私が進むごとに、化け物の体が弾けていっていたのだろう。

 世界から音が消える。風が止む。足を緩める。突然凄まじい突風に全身が晒されて、足元が浮いた。

 飛ばされないようにその場でもがいた。しかし風はどんどん強さを増していき、飛ばされてしまう――そう思った刹那、誰かの手が、私の手首を掴んだ。

 細い指だった。しわしわの手だった。しかしとても力強い手だった。

 縋るようにもう片方の手を伸ばす。するとその手も掴まれた。ぎゅっと握った手のひらは涙が出そうなほどあたたかくて、私は思わず目を開けた。

 強い光の中、やせ細った顔が僅かに見えた。“彼”は私を見て微笑んだ。

 ――ありがとう。

 乾いた唇が、そう動いたような気がした。



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