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74:あぁ、神様



 化け物はこちらを見下ろすと、大きく口を開いた。



「伏せろ!」



 ギルバートが叫ぶ。セオドリク先生の体が覆いかぶさってくる。その際、彼の大きな手が私の両耳を覆って――それでもなお聞こえてきた化け物の咆哮に、全身が震えあがった。

 本能的な恐怖を刺激する化け物の声。恐ろしさのあまり私は五感を全てシャットアウトするように身を丸め、目をつむり、自分も大声で叫んでいて。

 ――化け物の叫び声がポルタリア城を破壊し、間一髪セオドリク先生の魔法で怪我無く地上に降り立ったのだと気が付くまで、随分と時間がかかってしまった。



「マリア!」



 私の意識を呼び戻したのはギルバートの声だった。

 両肩を大きく揺すられ、ようやく目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、王都・ポルティカを蹂躙する化け物。そしてその化け物を必死に止めようと四苦八苦している、多くの魔術師。



「なんだよ、これ!? 何がどうなってる!」



 誰かが叫ぶ。自暴自棄になった魔術師が一人、化け物に向かって特攻した。魔術師の指先が化け物の体に触れる。瞬間、その体が“弾けた”。



『――王をその手にかけようとした反逆者は、たちまち肉体が内側から弾け飛んじゃったそうですよー』



 鼓膜の奥に蘇ってきたのはイルマの声。私がこの世界に召喚されてすぐ、彼女が教えてくれたこの世界の真実。

 甲高い悲鳴。逃げ惑う人々。街中がパニックになっていた。



「神が化け物になった」



 ギルバートが傍らで呟いた。私の肩を支えている彼の両手にぎゅうと力が込められる。



「魔法が吸収される!?」



 戸惑いの声を上げる魔術師たち。彼らの言葉通り、化け物のぶよぶよの皮膚はぶつけられた魔法をそのまま吸収していた。

 ――あの化け物は、紛れもなくポルタリア王なのだ。

 その事実は深い絶望と共に私の腹の底に沈んだ。

 どうすればいい。どうすれば化け物になった王を、神を、止めることができる。このままでは世界全てが飲み込まれてしまう――

 何もできずに立ち尽くしている私とギルバートの前に、どこからともなくルシアンくんが現れた。姿が見えなかったが、状況の確認に忙しくしていたのかもしれない。



「とにかく残っている住民たちの避難を優先する! それまでどうにかして足止めを! 協力してくれ!」



 声をかけられたギルバートははっとして私から離れていった。私は思わず彼の制服の裾を掴む。



「足止めって……それでどうにかなるの?」



 魔法は通じず、指先が触れれば体が弾ける。そんな相手をどう足止めするというのだ。死ににいくようなものだ。黙って見送ることはできなかった。

 私の質問に答えてくれたのはいくらか表情を柔らかくしたルシアンくんだった。



「体が腐り始めている。もう長くは持たないはずだ」



 ルシアンくんが化け物の体の“裾”部分を指さす。確かにそこは形を保てないのか泡をたてながら溶けだしており、時折どろりと大きく崩れていた。

 ただ“長くは持たない”というのはルシアンくんの推測でしかない。いったいいつそのときが訪れてくれるのか。最悪の場合、そのときが訪れる前に世界そのものが飲み込まれてしまうかもしれない。



「でも、魔法は効かないし、少しでも触れたら……死んじゃうんだよ!?」



 死んじゃう。その言葉を口にした瞬間、死という存在が私たちのすぐ背後に潜んでいるのだと改めて自覚して、私はギルバートの服の裾を握る手に力を込めた。

 こうしている間にも化け物は街を踏み荒らしている。悲痛な叫びが鼓膜を揺らす。人々の命が一つ、また一つと消えている。分かっているのに、ギルバートの服から手を離せそうになかった。

 家族を失い、友人を失い、元の世界を失い、その上ギルバートやルシアンくんまで失ってしまったら――

 冷たくなった私の指先をあたたかな手が包んだ。はっと顔を上げれば、緊張した面持ちのギルバートと目が合う。その瞬間、彼の口元がぎこちなく上げられた。へたくそな笑顔だった。



「俺たちが生きていく世界を守りたい」



 それはギルバートの決意だった。

 すべてを諦めていた彼が、全てを失った彼が、憎んでいたはずのこの世界を守りたいという。ギルバートが、私が――“俺たち”がこれから生きていく世界を、守りたいのだと。

 ギルバートのささくれ立った指先がゆっくりと私の拳を開く。服の裾から指が外れて――私は彼の手を、強く握った。

 私たちが生きていく世界を守りたい。それは、私も同じだ。

 このまま見ているだけなんて嫌だ。無力を噛みしめるのはもうたくさんだ。

 ぎゅっと目を閉じる。考えろ、考えろ。私にできることを。私だから、できることを――

 ふと瞼の裏の浮かんだのは、イルマの顔だった。



『ポルタリア王に絶対服従の証である魔力を持たないあなたならば、殺せる』



 ――そうだ。そのために私は呼ばれたんじゃないか。そのせいで、私は全てを失ったんじゃないか。

 脳裏に浮かんでいたイルマの顔が、ほんの一瞬、柔らかく微笑んだような気がした。

 顔を上げる。目を開く。私の様子を窺うように顔を覗き込んでくるギルバートに、恐る恐る問いかけた。



「あの化け物が本当にポルタリア王なら、私は、私だけが、殺すことができる?」



 ――あぁ、神様。まさかこんな日が来るなんて。

 神にも等しい存在の悪王を殺せと言われ、悲しみ嘆いたあの日を思い出していた。



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