70:イルマとギルバート
ポルタリア城の吹き抜けになっているエントランスホールで、ギルバートとイルマは目にもとまらぬ速さの“魔法合戦”を始めた。
私は大きな柱の影に身を隠し、魔法を打ち合う彼らの姿を見つめることしかできない。
(すごい、ギルバート、魔力をほとんど失ってるはずなのに……)
私を元の世界に戻したことで、ギルバートの魔力は尽きてしまっているはずだ。媒介石を飲み込んでルシアンくんたちを魔力の“タンク”にしているとはいえ、あの特別生徒のイルマに引けを取っていない。
二人の魔法がエントランスホールの真ん中でぶつかり、大きな爆発を起こす。その衝撃で、私が身を隠している柱のすぐ近くにイルマの華奢な体が転がってきた。
イルマはすぐさま体勢を立て直す。しかしカッと目を見開いたかと思うと激しく咳込み、口元を押さえていた手の隙間から血が少量ながら噴出した。
「もうよせ、イルマ!」
爆発の煙で姿こそ見えなかったものの、ギルバートの声が思いのほか近くで上がった。彼はやはり、イルマと戦うことは本意ではないようだ。
その一方でイルマは血が滲んだ口元を手の甲で乱暴で拭くと、好戦的な笑みを浮かべる。その足元には魔方陣が浮かび上がり、ギルバートへの敵意がありありと感じられた。
「どうせ死にかけてるんだから、あたしがトドメさしてあげる!」
すぐ近くで感じた熱風はイルマの炎魔法によるものだ。炎の柱はギルバートへ向かってごうごうと伸びていき、その体を飲み込んだ。
私が咄嗟に悲鳴を上げるとイルマの横顔は恍惚と微笑む。手ごたえを感じたのか、彼女は魔法を弱め――その瞬間、凄まじい速度の火の玉がイルマを襲った。ギルバートの反撃だ。
制服に火がうつったのか、イルマは甲高い悲鳴を上げた。そして癇癪を起す子どものように叫ぶと、先ほどよりも一回り以上大きな魔方陣を展開する。
瞬間、周りの温度が一気に下がった。全身を突き刺す冷たい空気に私は身を縮こまらせる。は、と吐いた息は白く、ぱちりと瞬いた睫毛は氷を纏って重くなっていた。
「この、死にぞこない――!」
髪を振り乱してイルマは魔法を発動させた。
槍のように鋭い氷柱が何十、何百本とギルバートに向かって飛んでいく。最初こそ魔法で応戦していたギルバートだったが、迫りくる冷気に足元まで凍らされてしまったようで、一度その身に氷槍を受けてしまったらもう駄目だった。襲い来るイルマの魔法に呑み込まれ、彼は先ほどまでの魔法の応酬で積み上がった瓦礫の上に倒れこんだ。
駆け寄ろうとして、立ち上がれないことに気が付いた。あまりの寒さに全身に力が入らない。ギルバートの名前を叫ぼうにもがちがちと歯が鳴って、座り込んだ体を両手で支えるだけで精一杯だった。
「良いザマね、ギルバート」
落ち着きを取り戻したイルマがゆっくりとギルバートの許へ歩みよっていく。ギルバートの炎魔法のせいで彼女が身に纏っている制服はボロボロだった。特に右袖の部分は大半が焼け落ちており、肩まで大きく露出していて――そのとき、私は自分の目を疑った。
(な、なに、あれ……)
イルマの後ろ姿に目を凝らす。寒さのあまり見た幻覚かと思ったが、目をこすっても“それ”は変わらなかった。
露出したイルマの右肩は――明らかに人間の肌ではなかった。つるりとした質感に、何より黒く淀んだ色。遠目に見て、表面をよく磨き上げた石のようだ。二の腕から指の先までは何ら変わりない人の肌をしているだけに、その境目がぬいぐるみの歪な継ぎ目に見えてぞっとする。
――果たしてイルマは私たちと同じ人間なのだろうか。
「ねぇギルバート。あんた、人殺したことある?」
仰向けに倒れこんだギルバートの傍にイルマは悠然と膝をつく。ギルバートは先ほどの魔法で大きなダメージを受けたらしく、上半身を起こすだけでいっぱいいっぱいのようだった。
「ないでしょ。あんたの両親、ああ見えてあんたのこと愛してたもんね」
イルマの口元は優雅な曲線を描いているのにどうして、その口から紡がれる声は氷にも負けない冷たさを纏っていた。
「あたしはあるよ。両親に言われて離反者をいっぱい殺した」
淡々とした口調で言うイルマに言葉を失った。
――自分とそう変わらない年齢の少女が、人を殺したことがあるという。それも、両親から言われて。
ギルバートも知らなかった事実らしい。淡い紫色の瞳を見開いていた。
「だからあたしはもう戻れないの。フォイセについていくしか、道がないの」
黒く淀んだ石で覆われた肩が震えている。
イルマの後ろ姿がやけに小さく見えた。迷子の子どものようだった。
「同じはずだったのに。あんたとあたし。一緒に生まれ育ったのに」
俯き、声を震わせるイルマ。もう戻れないと語った彼女は、どんな表情をしていたのだろう。
思わず手を伸ばす。今この瞬間は何もかも忘れて、ただその震える背中をさすってあげたいと思った。これがただの哀れみだとしても、余計お世話だと突っぱねられるとしても、一人で震える小さな女の子の後ろ姿が、あまりに切なく、胸が苦しかったから。
共に生まれ育った、イルマとギルバート。レジスタンスの親を持ち、人生と世界に絶望と諦めを抱きながら、隣にいたはずの幼馴染。そんな二人の道が、いつから別れてしまったのか――
不意にイルマが顔を上げた。その横顔には歪な笑みが張り付いていた。
イルマはゆっくりと立ち上がる。そしてギルバートを指さすように右手を彼に向かって突き出した。
「ま、あんたはもう出枯らしの死に体だもんね。幼馴染のよしみとして、苦しまないように殺してあげる」
「――待って!」
イルマの指先に小さな魔方陣が浮かんだ瞬間、私は叫んでいた。ギルバートにとどめを刺すつもりだと思ったからだ。
鮮やかな朱の瞳がこちらを向く。先ほどまでの張り付いた笑みすら、彼女の顔から消えていた。
「なに見てんのよ、救世主サマ」
足に力は入らないままだ。それでもなんとか近づこうと、両腕を使って匍匐前進のような体勢で進む。――視線はイルマに向けたまま。
それが彼女の癇に障ったのか、ギルバートの許を離れてこちらに歩み寄ってきた。
「この世界で誰よりも無力なあんたすら、あたしを憐れむワケ?」
地面の上をもがき進む私と、ゆっくりと大股で歩くイルマ。私たちはちょうどエントランスホールの真ん中で向き合う形になった。
先ほど叫んだとき、冷たい空気を大きく吸い込んでしまったらしい。喉がカラカラに乾燥して息をするだけで痛みを訴える。
地面に体を伏せ、苦しみ、もがく私の姿はイルマから見てさぞや哀れなものだろう。彼女の言う通り、今この瞬間の私は、この世界で誰よりも無力なはずだ。――それでも、ただ黙って見ていることはできなかった。
「バッカだよねぇ。元の世界に帰ったところでだーれもあんたのこと覚えてないのに、どれだけ学院でいじめられても健気に頑張っちゃってさぁ」
こちらに顔を近づけるようにしゃがみ込むイルマ。丁度その頭越しに大きなシャンデリアが見えて、強い照明のせいで逆光になったイルマの表情がよく分からなかった。
「その上戻ってきてるんだもん。どーせ耳触りのいい言葉にコロッと騙されてんでしょ? あは、ここまで人を疑わずに大きくなるなんて、どんなぬるま湯世界で育ったんだか」
イルマはどんどん早口に、どんどん大きな声になっていく。首元をぐっと力強く掴まれて喉が詰まった。
シャンデリアが眩しい。目がくらむ。寒さのせいもあるかもしれない。遠のく意識を必死に繋ぎ止めて、どうにかイルマの顔を見ようと目を凝らした。それなのに、ピントが合わない――
そのときだった。ぐらり、とシャンデリアが大きく揺れた。そして、
「ほんと、羨ましい。あんたの生まれた世界に、あたしも――」
軋む音。照明が落ちる。暗闇の中、ゆっくり、ゆっくりと落ちてくるシャンデリア。全てがスローモーションに見えた。
目の前の体に手を伸ばす。しかしその手はイルマに届かず、私はただ叫ぶことしかできなかった。
「イルマ! 逃げて!」
「マリア!」
硬く冷たい何かが、私の体に覆いかぶさった。




