65:決意
(とにかく、人が少ない通りに……!)
反逆者フォイセが差し向けてきたあの“獣”は私を狙っている。だからこそこの世界の人々が巻き込まれることのないよう、私は人混みを避けてひたすら逃げた。
大学など大きな建物は避難所になっている可能性があるから駄目。大通りは見晴らしが良いから掴まりやすいかも。
回らない頭を必死に動かして、気づけば私は見慣れない裏道に迷い込んでいた。
“獣”の唸り声は聞こえてこない。一時的にでも撒けたのだとほっと息をついて、悲鳴を上げている足を少しでも休ませるべくその場にしゃがみ込んだ。
(どうして、こんなことに……)
じわり、涙が眦に浮かんだ。
自分の不幸を呪い、不甲斐なさを嘆き、どうしようもない現実に打ちのめされる。どうして。その言葉しか出てこない。
どうして、どうして――どうすれば、よかったの。私にできることは、なにかあったの。
近くで咆哮が聞こえた。竦みあがる心臓。震える足。それでも逃げなければと立ち上がって一歩踏み出した、そのときだった。
「あっ」
疲労のせいか恐怖のせいか、足が絡まってそのまま前に倒れこんだ。
――ばしゃり。咄嗟に地面についた手がしっとりと濡れる。雨は降っていなかったはずだが、でこぼこの道路の上に薄く水が張っていた。
体を起こせない。足に力が入らない。前を向くことが、できない。
私は体をぎゅっと丸めてその場に蹲った。浮かんだ涙が頬を伝って水たまりに落ちる。一粒の雫は水面に波紋を広げ――ある人物の姿を浮かび上がらせた。
水面に映し出されたのは銀髪の青年。暗く狭い部屋の中、ぐったりと項垂れるその人は、
「ギルバート!?」
俯いているせいで顔立ちは分からなかったが、あの美しい銀髪はギルバートに違いない。いったい彼に何があったのかと水面に目を凝らし、はっと“思い出した”。
――闇魔法発動の核となった私を、ギルバートが魔法でこの世界に戻してくれたのだ、と。
(転移魔法を使ったら、その人の人生は、台無し……)
異世界に召喚されてすぐ、レジスタンスのイルマがそう教えてくれた。そして彼女はこう続けたのだ。自分の人生を捨ててまで助けてくれる人なんていないから、おとなしく救世主になった方がいい、と。
それなのにまさか、よりにもよって“あの”ギルバートが人生を棒に振ってまで私を帰してくれたなんて。――ただ悲しいことに、戻った世界に“加賀まりあ”という人間は存在していなかったのだけれど。
(ごめんね。せっかく帰してくれたのに……)
水面に映るギルバートの髪を指先でそっとなぞる。
レジスタンスの一員でありながら計画を邪魔して、まさしく彼は四面楚歌の状態だろう。私が見ている光景が今のギルバートの姿なのだとしたら、捕まってしまっているのだろうか。いったい誰に? レジスタンス? それとも学院側に? これからどんな処罰を受けるのだろう。
一言でいいからお礼を言いたかった。もし私にできることがあるのなら、ギルバートの助けになりたかった。だって彼は、私のせいでたくさんのものを喪っただろうから。
いったい私に何ができるだろうかと考えて――再び“獣”の咆哮が鼓膜を揺らした。思わず身を固くして俯いたけれど、そのすぐ後、人々の悲鳴が聞こえてきてはっと顔を上げる。
急いで体を起こし、悲鳴が聞こえた方へと走った。“獣”の狙いは私だ。他の人々を巻き込まないよう、できるだけ誘導しなければ。
大通りに出ると逃げ惑う人々の波にかち合う。私は流れに逆らって、“獣”がいるのであろう悲鳴の許まで走り出した。
「――! ――!?」
鼓膜を揺らした泣き声に、私は思わず足を止めた。
一人の少女が泣いていた。顔を真っ赤にして、大きな口を開けて、はぐれてしまったのであろう親の姿を必死に探していた。
私は慌ててあたりを見回す。彼女の親が近くにないか探すためだ。我先にと逃げ惑う人々の“群れ”からそれらしい姿を見つけるのは極めて困難だが、それでも、この子だけは――
「まりあ!」
女性の声が、確かにそう呼んだ。
私は思わず振り返る。視界に飛び込んできたのは一人の女性。黒髪を振り乱して、安堵に顔を歪めて、何度も「まりあ」と名前を繰り返し呼んで――その女性は私のすぐ横を通り過ぎて、一人泣いていた迷子の少女を抱きしめた。
(このままこの世界に私がいたら、多くの人が傷つけられてしまう)
逃げる人々の波は途切れない。
ここにいる全員に、きっと大切に思う人がいる。名前を呼んで、涙を浮かべて、必死に抱き寄せたい“誰か”がいる。
(私が生まれ育った世界。大切な人たち)
家族。友人たち。みんな私のことは忘れてしまったけれど、彼らを思う気持ちに変わりはない。
どうか幸せであって欲しいと思う。危険に晒されることがないように願う。だから。
(私にも、できることがあるはず)
己の無力を嘆くのも、己の境遇を嘆くのも、もうやめよう。立ち止まり俯くのもやめだ。顔を上げて、できることだけを見つめて、ただ走る。自分のためじゃない。大切な人々のために。自分が生まれ育った世界のために。――私のせいで、全てを失ってしまった彼のために。
まだ私は自分の足で立っている。だから自分の足で進んでいく。例え道の先が、何も見えない真っ暗闇だったとしても。
「ルシアンくん、セオドリク先生、聞こえてますか?」
『聞こえてるよ、マリア』
「私、そっちの世界に戻ります。これ以上自分が生まれ育った世界を、壊されたくないから」
自分の未来を決めるはずの決断は、思いのほか軽く口からこぼれ落ちた。
知り合いもおらず言葉も通じない世界で生きていくのは無理がある。結局のところ、遅かれ早かれ召喚された世界へ戻るのは避けられないことだったのかもしれない。――ただ、不可抗力ではなく私が自分で戻ると決めたのだ。そこには天と地ほどの差があると信じたい。
胸元でネックレスが光瞬く。
『君の決断に心から感謝する』
答えてくれたのはセオドリク先生の声だった。
「どうすればいいですか?」
『道は開かれている。……フォイセが作った道だけどね』
とうとう“獣”が姿を目視できる距離まできた。向こうが私を認識しているのかは分からないが、大通りをこちらに向かって走ってくる。
『君はその道を通ってこちらに戻ってきてほしい。ただそれじゃあフォイセの許に再び召喚されてしまうだろう』
悲鳴が耳を劈く。逃げる人々と肩がぶつかって思わずよろけた。
『だから我々が邪魔をする。詳しいことはともかく……君は我々のことを強く思ってほしい』
「それだけでいいんですか?」
『あぁ』
なかなか難しい注文だった。失敗すればおそらくレジスタンス・フォイセの許に再び召喚されてしまうのだろう。そうなれば一巻の終わりだ。
私は脳裏にセオドリク先生たちの姿を思い浮かべる。ポルタリア魔法学院で過ごした日々を思い出す。ルシアンくん、ノアくん、セシリー、リオノーラさん……辛く、理不尽で、そして楽しかった、最後の学園生活。
「それで、道っていうのは……」
『あの獣に捕まってくれ』
「そんな気はしてました」
苦笑を浮かべ、“獣”をねめつけた。
まだ少し距離があるが、こうして観察してみると眼球がないことに気が付く。それに加えしきりに鼻を動かしているのを見るに目が見えないのかもしれない。それなら、と私は声を上げた。
「こっちだよ!」
その声は周りの悲鳴に紛れたはずだった。しかし“獣”はぴたりと一瞬動きを止め――確かに私を見た。どうやら見つかったようだ。
一歩踏み出す。足が震えてよろける。呼吸を整えて、もう一歩踏み出す。歩き出して、小走りになって、そして――すれ違った人々の中に、自分によく似た誰かを見た気がした。
それはこの世界の私だったのか、まだ何も知らない過去の自分だったのか、目の錯覚だったのか――。
獣のドロドロの体にぶつかった瞬間、強い力で体を引きずり込まれた。すさまじく早いジェットコースターに乗っているような感覚に気が遠くなって、下唇を強く噛みしめる。
(ルシアンくん、セオドリク先生、ノアくん、セシリー、リオノーラさん……!)
言われた通り、ぎゅっと目を閉じてルシアンくんたちのことを考える。脳裏に浮かんでは消える彼らの笑顔に強く手を伸ばせば、ふと全身があたたかなぬくもりに包まれ、引きずり込まれるような感覚も消えた。
――これは、成功したのだろうか。
恐る恐る目を開ける。しかしそこは自分の手元すら見えない、闇に包まれた空間だった。
浮遊感が消え、両足が地面につく。確かめるように何度かその場で足踏みをしたが、コンクリートに似たしっかりとした硬い感触が足裏に伝わってきた。
どうするべきか悩んでいると、胸元が小さく振動する。先ほどまでルシアンくんたちと繋がっていたネックレスかと思い制服のボタンを緩めると、仄かに光を発する石が飛び出てきた。
その石は――レジスタンスからもらった媒介石だった。
(……ギルバート?)
その名前が脳裏に浮かんだのはなぜだろう。ともすればレジスタンスに呼ばれていると感じてもおかしくないのに、私は恐怖も疑問も感じることなく、光り輝く媒介石にそっと手を伸ばした。
――この光は、きっとギルバートに繋がっている。
胸元で石を握りしめて瞼を閉じる。そして心の中で名前を呼んだ。
ギルバート。ギルバート。ギルバート――!
瞬間、強い光に晒されて瞼の裏が真っ白になる。くらりと眩暈がして足元がよろけた瞬間、地面が“消えた”。
再び訪れた浮遊感に思わず悲鳴を上げる。空中で身を丸めて、これから来るかもしれない衝撃に備え――やがて光が遠ざかった頃、
「マリア……?」
鼓膜を揺らした声に、何よりも先に『戻ってきたのだ』と思った。
浮遊感が消え、背中が地面につく。私は丸めていた体を起こして、ゆっくりと瞼を開けて――ボロボロになったギルバートと再会を果たした。
ここはどこだろう。暗く湿っぽい、薄汚れたこの場所は。
ギルバートは手錠をかけられていた。端正な顔は煤で汚れて、淡い紫の瞳は仄暗く沈んでいる。
――私を帰してから、いったいどんな目にあったのだろう。どんな思いをしたのだろう。
「ごめんね、ギルバートくん。せっかく人生賭けてくれたのに……戻ってきちゃった」
えへ、と冗談めかして笑おうとして、失敗した。一度失敗したらうまく取り繕うことができなくなって、ぽろりと涙が零れ落ちた。
ギルバートに近づく。そして彼の手首を拘束する手錠に手を伸ばして、そのまま頭を垂れた。
「ごめんね……」
きっと泣きたいのはギルバートの方だ。自分の人生を棒に振ってまで元の世界に帰してやったクラスメイトが、何を血迷ったか再びやってきたのだから。私が彼の立場だったら、自分の犠牲を無駄にしやがって、と怒鳴り散らしていたかもしれない。
――けれどギルバートは怒るでもなく、呆れるでもなく、項垂れる私に寄り添うように、そっと大きな体を曲げて包み込んでくれた。何も言わず、何も聞かず、私が泣き止むまで、ずっとそうしてくれていた。




