64:真実
背後から悲鳴が波のように押し寄せてくる。振り返る余裕はなかったが、先ほどの“獣”が人々を襲っているのだろうということは容易に想像がついた。
「なに、なんなの!?」
走りながら叫ぶ。悲鳴が上がる距離が一定以上離れないことから、“獣”の狙いはおそらく私だ。
あんな異様な存在、私が生まれた世界――この世界には存在しなかった。心当たりは一つしかない。つい数時間前まで、私が“召喚”されていた世界の――
不意に胸元でどくんと何かが鼓動を刻んだ。制服の下から光が漏れる。慌てて制服のボタンを緩め、“何か”の正体を確かめようと胸元を覗き込んだ。
――瞬間。
『マリア!』
光り輝く小さな石が視界に飛び込んできた。そして鼓膜を揺らしたのは聞き慣れたクラスメイトの声。
「ル、ルシアンくん!?」
『よかった、“繋がった”!』
石は光瞬きながらルシアンくんの声を伝えてくれた。こんな摩訶不思議な石を持っていたかと疑問に思い、それが修学旅行のときにルシアンくんが買ってくれたネックレスだと気が付く。
何が何だか分からないまま、それでも私の胸は確かな安堵を覚えていた。言葉が通じない世界で異形の獣に襲われている状況で、ルシアンくんの声は間違いなく救いだった。
「どうなってるの!? 私、元の世界に帰ってきたと思ったのに言葉が通じないし、お母さんにも知らないって言われるし、よく似た異世界に来ちゃったみたいで……訳わかんないよ!」
不安を全てぶつけるように叫ぶ。そのせいか息が上がって、走る足を緩めた。
気づけば悲鳴は聞こえなくなっていた。警察が出動して避難指示を出しているのか、はたまた応戦しているのだろうか。
私は完全に足を止めて、壁に寄りかかるようにしてずるずるとその場に座りこんだ。
『マリア、落ち着いて聞いてほしい。今マリアがいる世界は、マリアが元いた世界で間違いない』
ようやく落ち着いてきていた心臓が再び騒ぎ始める。
「そんな……それならどうして言葉が通じないの!? どうしてみんな、私のことを知らないの!?」
ぎゅう、とルシアンくんと繋がっている石を握りしめた。そして縋るように額にあてる。光瞬く石は冷たくて、涙が出そうだった。
重い沈黙が耳に痛い。ルシアンくんの躊躇うような表情が脳裏に浮かんで、沈黙の向こうで彼が苦心しているのだと手に取るように分かった。
『……それは、マリアが“闇魔法”で、元の世界から俺たちの世界に存在ごと“奪われた”からだ』
長い沈黙を破ったのは、ルシアンくんの重々しい声。
彼の言葉をすぐには理解できず、口からは「は……?」と戸惑いの声がこぼれた。
――存在ごと、奪われた?
『闇魔法はただの転移魔法じゃない。相手の存在全てを奪う。人の記憶からも……奪われた後、はじめから無かったことにされる』
「なに、それ……」
徐々にルシアンくんの言葉を飲み込んでいく。飲み込まざるを得なくなる。だって、納得してしまったから。この世界に帰ってきてから感じた違和感に、異変に、説明をつけられてしまったから。
――私は魔法で存在ごとこの世界から奪われた。だから母は「まりあなんて娘はいない」と答えたのだろう。そう、いないのだ。この世界に加賀まりあなんて人間は、存在しない。
「じゃあ私は、どこの世界の人間で……」
唖然と呟いたときだった。
「――!」
再び悲鳴が近くで上がった。
慌てて振り返る。するとこちらに走ってくる数人の男女グループの背後に、例の“獣”の姿が見えた。
『マリア、逃げろ!』
ルシアンくんが叫ぶ。私ははっとして、再び走り出した。
「な、なんなの、あれ……!」
『反逆者フォイセがマリアをもう一度こちらの世界に連れ戻そうとしている!』
どうやらあの“獣”はレジスタンスがこちらに差し向けた刺客だったらしい。捕まってはいけないという私の直感は当たっていたようだ。
いくつか角を曲がって別の通りに出た。再び悲鳴が聞こえなくなったのを確認して、上がった息を落ち着かせるために速度を緩める。
騒ぎのせいかすっかり人通りのない通りをぐるりと見渡して――立ち並ぶブティックのショーウィンドウに信じられないものを見た。
そこに映っていたのは、ボロボロに荒れ果てた街並みだった。今私がいる大通りが映りこんでいるのではない。この街は――すっかり変わり果ててしまっているが間違いない、王都・ポルティカだ。
「なに、この景色……」
『何が見えてる?』
「ボロボロになった……王都・ポルティカ」
じっと目を凝らす。街の中心にあったはずのポルタリア魔法学院は“吹っ飛んで”いた。まるで学院の中心に爆弾でも落とされたような有様だ。
『式典の最中、マリアを核にした強力な闇魔法が発動した。ギルバートが核となったマリアを転移魔法で飛ばすことで、最悪の事態はなんとか免れた……とは言い難いかな』
瞬間、瞼の裏に蘇ってくる一つの顔。細められた淡い紫の瞳。今にも泣きそうに微笑んだ、一人の青年――ギルバート。
その唇が、さようなら、と動いた気がした。
「……今、どうなってるの?」
『ほとんどのレジスタンスは捕縛した。ただ二人……フォイセとイルマの二人がポルタリア王を人質に城に立て籠ってる』
ルシアンくんの言葉に、景色の中でもひときわ異彩を放つ空中に浮かんだ“ポルタリア城”を睨みつけるように見た。街は見るも無残に荒れ果てているのに、驚くべきことに城はほとんど無傷だ。
荒廃した大地の上に忽然と輝く権威の象徴。その光景はまるで、あの世界の構造そのものだ。
『――そして彼らは、カーガさん、君を差し出すように我々に要求してきている』
突然第三者の声が割って入った。しかしそのルシアンくんではない別の声にも私は聞き覚えがあった。
間違えるはずもない、私たち第五生徒の担任であるセオドリク先生の声だ。
『ルシアンはまどろっこしいから単刀直入に言おう。君にこちらの世界へ戻ってきてほしい』
私は戸惑った。彼らは私をレジスタンスに差し出すつもりなのだろうか。
ルシアンくんたちに向けていた信頼が揺らぐ。ショーウィンドウに映っている景色から目を逸らして、ずり、と後退した。
「何を言って……私はようやくこっちに戻ってきたのに……」
『その世界はもう、君が育った世界じゃない。似て非なる世界だ』
私の呟きに、セオドリク先生は非情な言葉を被せてくる。
先生はいつだって穏やかな笑みを浮かべて、優しく声をかけてくれた。こんなに冷たく、固く、感情を感じない声を聞いたのは初めてだ。
『言葉も通じず、家族や友人もいない。そんな世界で一人、どうやって生きていく?』
「それは……」
言葉に詰まる。正直、セオドリク先生の言う通りだった。
この世界に私の居場所はない。私を知っている人はいない。保護してもらったところで言葉も通じない。それにレジスタンスが私を取り戻そうと送ってくる刺客に対抗する術を持たない。今ルシアンくんたちの手を振り払ったところで、レジスタンスの手に落ちるのが関の山だ。
しかし彼らは私を守ってくれるのだろうか。あの世界に戻ったところで、レジスタンスとの交渉材料にされるだけではないか。
『君の力が必要なんだ。この世界を、救ってほしい』
そう言ったセオドリク先生の声は震えていた。それが演技でないのなら、彼らも相当切羽詰まった状態なのだろう。
世界を救ってほしい? そんなの、まるで、救世主みたいな――
『カーガさん! 後ろ!』
ネックレスが眼前で強い光を発する。瞬間、立っていられないほどの突風に晒されて、私は地面に倒れこんだ。
「きゃあ!?」
あたたかな光に体全身が包み込まれる。そのおかげか、かなり勢いよく倒れこんだものの痛みは一切感じなかった。
魔法でセオドリク先生が護ってくれたのだと理解したのも束の間、『逃げて!』と石から声が上がる。その声に従って、私は周りの状況も確かめずに立ち上がって走り出した。
背後でガラスの割れた音がする。壁に何かが衝突したような轟音が鼓膜を震わせる。あの獣が追ってきているのだと、振り返らずとも分かった。
(どうして、どうして、どうして――!)
視界が涙で歪む。足がもつれる。それでも足を止めるわけにはいかない。
どうして私だったんだろう。ただ平々凡々な日々を過ごせればそれで満足だったのに。異世界に召喚されて、レジスタンスに救世主だと祭り上げられて、劣等生だと学院内で虐げられて、ようやく戻って来れたと思ったらすべてを失っていて、それで、それで――世界を救ってほしいと、請われて。
私はこんな未来、望んでいなかった。ただ加賀まりあとして生きていけたらそれでよかったのに。――救世主なんか、キャラじゃないのに。
どうして、私だったんだろう。




