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63:元の世界



 ゆっくりと意識が浮上する。足先が何か硬い物にあたった。寝転がっている床も硬い。狭い場所に押し込められるような体勢で寝ているとすぐに分かった。



「ここは……?」



 体を起こして立ち上がる。ぼやける視界で必死にあたりを見渡して、“自分”と目があった。――鏡だ。洗面台だ。

掃除が行き届いていない曇り汚れが散見される大きな鏡。生活感溢れるコップと先の開いた歯ブラシ。コンタクトの空箱、ドライヤー、コテ――それらは私が、マリア・カーガが暮らしていた世界にはなかったもの。これは、つまり、もしかして。

 確信に至ろうとした、まさにそのときだった。



「――! ――、――!?」



 取り乱す声が背後から聞こえた。慌てて振り返ると、洗面所の入口に見慣れない女性が立っていた。

 彼女は私を指さして叫んでいる。あまりの慌てように何を言っているのか聞き取れなかったが、あまりにもラフな格好にこの家の主なのだろうと瞬時に判断が付いた。

 ――おそらく彼女から見た私は、不法侵入をした不審者だ。



「えっ、あっ、ご、ごめんなさい!」



 私は慌てて洗面所を出て、そのまま玄関へと走った。数歩歩けば横断できてしまう狭いワンルームだ。あの世界で過ごしてきた寮部屋とは何もかもが違う。

 心臓がバクバクと音を立てている。アパートの入口まで全力で走り、後ろから女性の声が追いかけてこないことを確認した後、はぁ、と大きく息を吐いた。



「私、戻ってきた……?」



 踏みしめる足元はコンクリート。じりじりと頭上から照り付ける太陽はどこの世界でも変わらず、しかしむわっとむせ返るような湿気は間違えるはずもない、私が長年暮らしていた日本のものだ。

 自分の身に何が起きたのか、なぜ元の世界に帰ってこられたのか、必死に記憶を辿る。

 あれは、そう、式典でのことだ! 空から城が降ってきて、そこからポルタリア王が現れて、その瞬間、体が異常を訴えて――指先から立ち込める黒い霧が最後の記憶だった。

 きっとレジスタンスが私の体に何かしたのだ。それだけは確かだったけれど、その“何か”が分からない。

 途方に暮れた私はあたりを見渡した。このままここに突っ立っていても何も変わらない。とにかく元の世界に帰ってきたのだから、一度家族や友人と合流しよう。異世界に召喚されていた間、“加賀まりあ”がどういった扱いになっていたか確認しなければ。

 もしかしたら既に死んだと思われているかも――あながち否定できない想像にぞっとしつつ、ふと先ほど飛び出してきたアパートの看板が目に入った。そこに書かれていた名前には、ひどく見覚えがあった。だってそれは――異世界召喚される前、私が暮らしていたアパートだったのだから!

 そこではたと思い出す。数歩足らずで横断できたワンルームの間取りに、やけに見覚えがあったことを。部屋番号までは見ていなかったけれど、もしかして、あの部屋は。



(さっきの部屋、私の部屋じゃ……行方不明になったから別に人に貸し出したのかな。それじゃあ私の荷物は……?)



 処分されてしまったのだろうか。しかしだとしたら、家族や友人に連絡を取る手段がない。

 じわりと額に汗が浮かぶ。真夏の日差しよりは優しいが、春の日差しにしては熱を持っている。体感的には初夏の気候だった。

 不運にも、私が着ている制服は冬服だ。その上式典用のケープまで身に着けており、何が言いたいのかというと、とても暑い。熱中症になってしまいそうだ。



(とにかく一回実家に連絡取ろう)



 ケープを脱ぎ、首元を楽にして、私はゆっくりと歩き始めた。目的地は通っていた大学。在学生だと大学側で確認が取れれば連絡手段を借りられるはずだ。

 アパートから大学まで徒歩十分程度。大学に近づくにつれ、おそらくは同じ大学の生徒だと思われる若者の姿が増えていく。それと共に、向けられる視線の数もどんどん増えていった。



(うぅ、視線が痛い……)



 明らかに服装が浮いている。豪華で丁寧な作りのポルタリア魔法学院の制服は、こちらの世界ではコスプレ衣装のように見えてしまうに違いない。

 向けられる視線に身を縮こまらせながらも、私はちらちらと周りの様子を探っていた。私を見てくる無数の瞳の中に、友人がいないかと必死に探していたのだ。

 ――羞恥に耐えること数分。とうとう私は見慣れた顔を人混みの中に見つけた。



「あっ、めいちゃん!?」



 それは同じ学部の友人だった。

 私は慌てて“めいちゃん”に向かって駆け寄る。彼女は突然変な恰好をした人物に声をかけられて、驚きに固まっているようだった。しかし私は構わず話を続ける。

 よかった。友達に会えた。めいちゃんから話を聞いて、一緒に大学に行ってもらって、それで、家族に連絡を取って――。

 安堵が心の奥に満ちていく。自然と笑みが浮かび、強張っていた体から力が抜けた。



「あの、私のこと分かる? まりあ。加賀、まりあ」



 ――しかし、名乗ってもなお、“めいちゃん”は怪訝な表情を崩さなかった。てっきりすぐ「まりあちゃん!?」と驚きつつも受け入れてくれると思っていたのに。

 もしかして想像以上にこちらの世界では時間が経っていた? 私が姿を消してから一年以上経っていて、すっかり忘れられてしまったのだろうか。

 徐々に不安が顔を覗かせる。一瞬浮かんだ笑顔はすっかり消えて、明らかにこちらを警戒する“めいちゃん”に「まりあ、加賀まりあ」と自分の名を繰り返した。

 何度自分の名を口にしただろう。不安がピークに達したとき、ようやく“めいちゃん”は口を開いた。



「――? ――……、――?」



 ――口を開いた、はずだったのに。

 彼女のかわいらしい声は、私の鼓膜を揺らしたのに。

その声には、確かに聞き覚えがあったのに。



「……――、――……――?」



 “めいちゃん”が何を言っているか、分からなかった。

 まるで全く違う言語を使う宇宙人と話しているようだった。



 ***



 ――言葉が通じない。

 それが数人と会話を試みて辿り着いた結論だった。

 “めいちゃん”だけじゃない、皆が皆、宇宙人語を話している。向こうにも私の言葉は通じていないようだし、身振り手振りだけではとてもフォローできるようなレベルではなかった。

 ただ不思議なことに、街のあちこちに溢れている文字は日本語なのだ。問題なく読めるし書ける。ただ話す言葉が通じない。

 ――これはいったいどういうことだろう。

 何も分からず途方に暮れていたのだが、運良く大学への道すがらで交番を見つけた。一瞬躊躇ったものの、意を決して足を踏み入れる。するとすかさず一人の警察官が出てきて、



「――?」



 宇宙人語で問いかけてきた。

 言葉は通じない。けれど文字は読める。それなら、もしかすると。



(紙とペンを……)



 右手でペンを持って書く仕草を示した。そうすれば警察官は数秒こちらの様子を窺っていたものの、意味が通じたのかすぐに鉛筆とメモ用紙を持ってきてくれる。

 私はそれを受け取って、ゆっくりと文字を綴り始めた。



『声が出ず、耳も聞こえません。かばんを落としてしまって、家に連絡を取りたいので、電話を貸してもらえませんか?』



 書いている最中、手が震えた。もしこれで通じなかったらどうしよう。明らかに恰好も言い分もおかしいし、疑われたらどうしよう。

 鉛筆を置き、メモを警察官に渡す。彼がどういった反応を示すのか恐ろしい。

 それからの数秒は永遠にも感じられる長さだった。警察官が私の書いた文字を読んで、内容を咀嚼し、それから――私を手招いた。

 手招かれた先、固定電話が目に入った。どうやらこれを使っていいらしい。

 私は喜び勇んで受話器に手を伸ばしかけたが、言葉が通じないことを思い出しはっとその手を引っ込める。そして先ほどのメモに再び文字を綴った。



『私の代わりに、電話してもらえませんか』



 その下に自宅の電話番号を書く。そのメモを見た警察官は小さく頷いて、メモを見ながら番号をプッシュした。

 プルルルル、プルルルル。電話がかかる。コールが重なる度、私の心臓の鼓動も大きくなる。不在か、すぐに手が離せない状況なのか、なかなかコール音は途切れず――諦めかけたその瞬間、繋がった。



「――、――」


『――?』



 受話器の向こう側。漏れ聞こえてきた女性の声。それは間違いなく、母親のものだった。

 瞬間、涙が滲む。帰ってきた。帰ってきたのだ、私は! 今すぐ飛んでいきたい。今すぐ抱きしめて欲しい。あぁ、お母さん――

 警察官が電話口で数言話した後、不意にこちらを向いた。かと思うと鉛筆を手に取り、



『あなたの名前は?』



 文字で尋ねてくる。

 そこでようやく自分の名前を告げていなかったことに思い至り、私は慌ててメモに殴り書いた。



『加賀まりあ。一人娘です』



 警察官は頷いて、おそらくは電話口で母に私のことを告げた。

 その様子を眺めながら、どうして言葉が分からなくなってしまったのだろう、とぼんやり思う。異世界で過ごす時間が長すぎて、耳が変化してしまったのだろうか。

 そもそも元の世界で言葉が通じていたことがおかしいのだ。もしや翻訳魔法のような便利な魔法が私にかかっていて、それを解かずに戻ってきてしまったから、元の世界で言葉が通じない事態に? だとしたらどうすればいいのだろう――



「――っ?」



 そのとき、警察官が驚いたような声を上げた。彼は私とメモを何度か見比べながら、早口で何かを捲し立てる。何を言っているかは分からないが、切羽詰まった様子に嫌な予感がした。

 戸惑いを隠せない様子で警察官は鉛筆に手を伸ばす。そして私に視線を向けることなく、“その事実”を書き記した。



『まりあという名前の娘はいないと言っていますが』



 ――うそ。

 目の前が真っ暗になる。

 まりあという名前の娘は、いない? そんなはずはない!

 私は慌てて自分が書いたメモを見直す。もしかしたら、間違った電話番号を書いてしまったかもしれない。実家の電話番号なんて最近ではすっかり思い返すこともなかったから、記憶が曖昧になっていたのかも――

 しかし何度見返しても、番号は間違っていない。それに先ほど電話口から聞こえたのは間違いなく母の声だった。聞いた瞬間、涙が出たぐらいだ。聞き間違えるはずがない。

 それなのに――まりあという名前の娘は、いない?

 呼吸が浅くなっていくのを感じながら、私は鉛筆を走らせた。



『母の名前は貴子です』



 その文章を読んで、警察官が電話の向こうに確認する。そして鉛筆を手に取り、



『お名前は一緒のようです。ただ、加賀貴子さんには息子さんしかいらっしゃらないと……』



 再びありえない事実を綴った。

 ――息子なんていない。子どもは娘である私ただ一人!

 唖然とする私に、警察官の胡乱な視線が突き刺さる。彼は私を疑い始めている。それも無理はない。おかしな恰好をした少女が、事実とは異なることを喚いているのだ。怪しく思われないわけがない。

 これ以上付き合っていられないと判断したのか、警察官は大きなため息をついて受話器を置こうとした。私は咄嗟にその腕に掴みかかり、受話器を奪う。そして叫んだ。



「もっ、もしもし! お母さん!?」


『――?』



 先ほどよりも鮮明に聞こえた母の声。浮かんだ涙が眦から零れ落ち、喉が震えたけれど、必死に言葉を紡いだ。

 思い出して。私は加賀まりあ。あなたの娘。あなたには息子なんていない。だって、あなたは、私だけのお母さん。



「私、まりあ! えっと、昔木から落ちて骨折したことあるし、お母さんはお父さんに隠したいものは靴箱にしまってて、それで」



 家族しか、私しか知り得ない情報を大声で捲し立てる。そうすれば、思い出してくれるのではないかと、先ほどの会話は悪い冗談だったのではないかと、そう一縷の望みをかけて――

 ぶつん。

 電話が、きれた。

 最後の望みが、他でもない母親の手で、きられた。

 全身から力が抜ける。足元がふらついて、踏ん張ることもできず、その場に崩れ落ちる。

 この世界は、私が生まれ育った世界とよく似た、けれど全く違う世界なのだろうか。帰ってきたと思ったら、また別の世界に飛ばされてしまったのだろうか。それとも、まさか。



「私の存在が、消えてる……?」



 唖然と呟いた、そのときだった。



「――っ!?」



 すぐ近くで男性の悲鳴が聞こえた。先ほど対応してくれた警察官の声だと分かったが、その悲鳴はもはや絶叫に近く、様々な訓練を受けているはずの警察官がここまで動揺するとは何事かと顔を上げる。――と、信じられない光景が視界に飛び込んできた。

 警察官が、禍々しい黒いオーラを纏った獣に襲われていたのだ。



「な、何!?」



 思わず叫ぶ。すると獣はぎろりとこちらを向いた。

 獣の体は溶けていた。うまく形を保っていられないのか、特に下半身はスライムのようにドロドロしており、その体液をまき散らしながらこちらに近づいてくる。

 ――逃げなきゃ。

 何も分からない。けれどこの獣には絶対に捕まっていけないと、本能が叫んでいた。



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