60:たちの悪い風邪
朝起きたとき、体が軽かった。ここ最近感じていた体のだるさも、熱っぽさもない。
――体調を崩してもう一か月以上になる。起きてご飯を食べられる日もあれば、高熱にうなされ一日意識が朦朧としている日もある。咳や鼻水はなく、熱とだるさが主な症状だ。
この一か月、養護教諭のドロシア先生、外部の町医者、更にはリオノーラさんの紹介で権威あるお医者様まで診察してくれたけれど、依然原因は分からないままだ。
原因不明かつ、治癒魔法も薬も効かない高熱。もしアバドが関係していたのだとしたら、私は――
じわじわと恐怖に苛まれていたのだが、今朝は明らかに調子が良かったのだ。回復に向かっているのかもしれないという希望が湧き、私は慌ててベッドから抜け出した。
「マリアちゃん、起きて大丈夫なの!?」
すると隣のベッドから焦った声が飛んでくる。セシリーだ。
彼女は授業がないときはつきっきりで私の看病をしてくれた。意識が朦朧とする私に、セシリーは辛抱強くおかゆを食べさせてくれ、体も綺麗に拭いてくれたのだ。更にポルタリア王から褒章を授けられる式典についての打ち合わせも彼女が全て私の代理で出席し、予定を決めてくれた。その式典も実は日が迫っているのだが――正直なところ、この体調では出席できるか微妙だろう。
「うん、今日は体調がいいから」
「でも……」
「寝たきりだと体が鈍っちゃうよ」
ね、と笑いかけてもセシリーの表情は曇ったままだ。誰よりも近くで面倒を見てくれた彼女は、誰よりも私の弱った姿を見ただろうから不安なのだろう。
友人の心配を心苦しく思いつつ、私は授業に参加することを決めた。焦っていたのだ。一日でも早く“日常”を取り戻して胸の奥に巣食う不安とさよならしたかった。
第五生徒の教室まではセシリーが連れ添ってくれた。一生分の恩ができた彼女にどう返していこうかと頭を悩ませつつ、教室の扉を開けば、驚いた顔のクラスメイトと目が合う。
「マリア!」
「体調は大丈夫なんですか?」
一番に駆け寄ってきてくれたルシアンくん、その後に続いたノアくん、そして席に座っているもののこちらをじっと凝視しているギルバート。彼らは皆一様に目を丸くしている。
「うん。今日は体が軽いんだ。進学のためにも、なるべく授業受けておきたいし」
あはは、と笑って見せたが、セシリー含め誰も笑い返してくれなかった。それだけ心配をかけてしまっているのだろう。
元気なことをアピールするように、私は胸を張って胸元をドン、と叩いた。
「大丈夫だって、そんな心配しないで!」
ルシアンくんとノアくんは顔を見合わせる。その横顔には依然、緊張の色が浮かんでいた。
「でも、熱の原因も分かってないのに……」
それはこちらを気遣っての言葉だったのだろう。しかし私にとっては聞きたくない言葉だった。
原因不明の熱。もしこのまま治らなければ、私は――。
小さく頭を振る。そして自分に言い聞かせるように呟いた。
「ただのたちの悪い風邪だよ」
***
その後、教室にやってきたセオドリク先生にも心配された。しかしありがたいことに一か月以上のお休みは公欠になっているようで、出席日数に関係しないらしい。
理由を尋ねたところ、先生は気まずそうな笑みを浮かべて「理事長の判断だよ」と言った。学院側が私の熱をどう見ているのか、不安が再び顔を覗かせそうになったが、頬を軽く叩いて考えを振り払う。そして着席し、一か月ぶりの授業を受けていたのだが――
(だめだ、ボーッとする)
それは二時間目の終わりに差し掛かったときだった。
頭がぼうっとして考えがまとまらない。頬が火照っている気がする。心なしか、体もだるくなってきて――。
嫌な予感がしつつも、熱が上がった可能性を考えたくなくて、私は火照った頬を冷やすように頬杖をついた。手のひらの冷たさにほぅ、と息をつく。頬の熱が移って手のひらがあったまってしまったら反対側の手で頬杖をつきなおし、それを何度か繰り返して、騙し騙しで授業の終わりを待った。
終了のチャイムを聞いた瞬間、私は机に突っ伏してしまった。冷たい机が気持ちいい。このままじっとしていれば少しは体調も良くなるだろうか――と、不意に手を掴まれた。
冷たい指先に肩を竦める。思わず顔を上げれば、ギルバートが険しい顔でこちらを見下ろしていた。
「早退しろ」
「え……」
「顔が赤い。無理をするからまた熱が上がったんじゃないか」
ギルバートの手のひらが額に伸びてくる。彼は体温が低いのか、その手はまるで濡れたタオルのような冷たさで、私は気持ちよさに思わず目を細めた。
(冷たい……)
私が冷たさを感じていたとき、ギルバートは逆に熱さを感じていたのだろう。ちっ、と小さく舌を打って、こちらに背を向け地面に膝をついた。
突然座り込んだギルバートに何事かと首を傾げる。すると焦れたようにギルバートはこちらを振り仰ぎ「送ってやる」と早口で呟いた。
どうやらおんぶしてくれるつもりらしい、と気づいたのは十秒後。すっかり熱で朦朧とした意識の私は、座っていた椅子から崩れるようにしてギルバートの背にもたれかかった。
すぐさまギルバートは立ち上がり、歩き始める。背後からルシアンくんたちの声がしたけれど、今の私にはなんて声をかけてくれたのか分からなかった。
不思議と額が冷たいままだ。きっと魔法だろう。おかげで先ほどよりは幾分楽になって思考もはっきりしてきたが、だからこそ半日程度しかもたなかった自分の体調にじわじわとショックを受ける。
どうしよう。もしかしたら、このまま――
「このまま、死んじゃうのかなぁ」
気づけば私は呟いていた。それは熱のせいもあるだろうけれど、きっと誰かに不安を共有してもらいたかったのだと思う。
私をおぶっていたギルバートは動揺からか足を止めた。
「何を言って……ありえない」
彼は短い言葉で否定すると、私を背負いなおして再び歩き出す。
「王様、私のこと元の世界に戻してくれないかなぁ。それぐらいのご褒美あってもいいと思わない?」
否定してもらってもなお、私はぽつぽつと不安を吐き出すように呟き続けた。
お褒めの言葉も褒章もいらない。この世界を治める絶対的な王様だというのなら、創造神の最初の従者だというのなら、その力で私を元の世界に戻してほしかった。
「いやだなぁ。死ぬ前に、一度でいいからお母さんお父さんに会いたいなぁ」
ギルバートは何も答えない。ただ私をおぶるその腕に、力が込められたような気がした。
「それだけで、いいから」
ぽろり、と一粒涙が零れ落ちた。それは私の頬を伝って、ギルバートの制服を濡らす。
式典でレジスタンスは動くだろう。しかし私にはもう、その動きを探ることも、止めようと策を巡らせることもできない。それどころじゃない。自分の命の心配をするので精一杯だ。
いっそのこと、式典で醜くポルタリア王に縋ってしまおうか。自分の身分を全て明かして、褒章なんていらないから元の世界に戻して欲しいと、泣きわめいてしまおうか。
なんだかいいアイデアのように思えてきて、私はそっと口元に笑みを浮かべようとした。しかし今の私にはもう、口角を緩く上げる気力すら残っていなくて。
視界が掠れていく。意識が遠のいていき、
「大丈夫だ。アバドがアンタを殺すはずない」
すぐ近くで、くぐもった声が聞こえた。
「もうすぐ、ご両親とも会える」
優しい声だった。励ましてくれるような、寄り添ってくれるような、一緒に泣いてくれるような、そんな声。
「だから何も考えず、今は休め」
ぽんぽん、と優しく頭をたたかれて――そこで意識が途切れた。




