52:作戦開始
「マリアちゃん、そこから動かないでねー!」
「はい!」
見晴らしのいい広場の真ん中で、ぽつんと置かれた椅子に私は腰かけていた。――アバドをおびき寄せる“餌”になるために。
ブレンダさんたちは私の周りに半径数メートルにも及ぶ巨大な魔方陣を描いている真っ最中だ。どうやらこれが“罠”であり、魔方陣の中に足を踏み入れた者を誰彼構わず捕まえてしまうらしい。私が間違って踏み入っても発動するらしいから、動かないように繰り返し言いつけられていた。
(本当にアバドは来てくれるかな……)
一番の心配はそこだった。
セレネアで襲われてから勢いだけで今日まで突っ走ってきてしまったが、果たしてこの作戦が本当に成功するのかどうか。しかし私が無理に押し切ったわけではなく、最終的な判断はアバド対策本部が下したのだから、失敗したところで責められることはないはず――なんて心の中で責任を転嫁する。情けない。
胸元にはレジスタンスからもらった媒介石と、叔母様から頂いた守護石に修学旅行中ルシアンくんからもらったネックレス。そしてさらに対策本部から与えられた大きな守護石が輝いている。かなり強力な魔法でも防げるそうだが、大きく重いため肩が凝りそうだ。
「準備できたから、よろしくね、マリアちゃん!」
魔方陣の外からブレンダさんが声をかけてくる。私は大きく頷いて、用意された椅子に深く座りなおした。
――結論からして、休日を二日費やしたにもかかわらず、アバドが姿を見せることはなかった。
私は大いに落胆したが、アバド対策本部はもとより長期戦を想定していたらしい。気落ちした様子は全くなく、来週は待機場所を変えてみようと早くも“次”の話をしていた。
そして翌週。私が座らされていたのは“事件現場”だった。
「じめじめしたところでごめんね。具合が悪くなったらすぐに言って」
心配そうに顔を覗き込んでくるブレンダさんに頷くことで答える。
彼女の言葉通り、最初の事件現場は人通りのない路地裏でじめじめとした空気が漂っていた。華やかな大通りとは一転、店の裏口が立ち並ぶ路地裏は言ってしまえば汚く、鼻を突くような臭いが充満している。確かに長くいると調子を崩してしまいそうだった。
おそらくは被害者が亡くなっていた場所に椅子を置いて、私は餌として待機する。見晴らしのいい広場で待機していた先週とは全く違い、背中を嫌な汗が流れていった。
(こんな場所で、どんなことを思いながら亡くなったんだろう……)
嫌でも被害者のことを考えてしまう。
突然襲われて恐ろしかったに違いない。襲われてから命を落とすまでの時間はどれだけあったのだろうか。その間、何を思っていたのだろうか。暗い裏路地で、ただ一人、孤独に――
この日もアバドは現れなかった。
それから週末は“事件現場”を回ることになった。周辺の封鎖作業の許可が取れた場所から順不同で、被害者がアバドに襲われたまさにその場所に椅子を置き、半日以上座り続ける。
ただ座っているだけだが、私の体には着実に疲れが溜まりつつあった。事件現場は路地裏をはじめとして薄暗い場所が多く、何もやることがないのでついつい事件当時のことを考えてしまい、気が滅入ってしまう。
夢も見るようになった。座っていた事件現場でアバドに襲われる夢だ。なすすべもなくアバドにすべてを奪われ、人生を嘆きながら自分の命が消えていく感覚に恐怖する――悪夢としか言いようがない。
しかし自分から言い出したことだ。弱音を吐くのは恥ずかしくて、情けなくて、目の下に刻まれた隈をどうにか誤魔化して日々をやり過ごす。
――そうして何度目かの週末を迎えた頃、とある森を訪れた。どうやら近くの村に住む少年がこの森でアバドに襲われたらしい。
今回協力してくれる村の人々に挨拶をしたとき、見慣れた薄桃色の髪を持つ女性を見つけた。彼女がアバドの被害者である少年の母親らしく、まだ悲しみから抜け出せていないのか、痛々しいほど頬がこけている。
(まさか、セシリーのお母様……?)
とても本人に話を聞ける雰囲気ではなかったため答え合わせはできなかったが、ほぼ確信していた。この森はセシリーの弟さんがアバドに襲われた場所だ、と。
『五人目の被害者だった。森に遊びに行って、そのまま……帰ってこなかった』
いつものように椅子に座っている最中、セシリーの話を思い出していた。
『弟が亡くなってから、親も故郷もみんな、死んでしまったようだった。アバドは弟だけじゃなくて、周りの人の生きる気力も未来への希望も、全部全部奪っていった』
脳裏に蘇るのは先ほど挨拶をしたセシリーのお母様をはじめとした村の人々。確かに彼らは鬱々とした様子で、生気を失ってしまっているようだった。
ざわざわと茂みが風に揺れて音を立てる。木々が作る暗闇は深く、暗く、吸い込まれてしまいそうだった。
森に入ったときは、まさかもう二度と帰ることができなくなるなんて考えてもいなかっただろう。セシリーたちも同様に、弟さんが帰ってこないなんて露ほども思っていなかったはずだ。
村は目と鼻の先にある。あと少し、早く帰っていたら。もしくはあと少し、遅く帰っていたら。今頃弟さんは変わらずあの村で暮らしていて、他の人々も活気にあふれた生活を送っていたかもしれない。セシリーも教師を志すことなく、その優秀さからポルタリア魔法学院には通っていたかもしれないけれど、今とは違う未来を思い描いていたのだろうか――
背後で大きく茂みが揺れた。私はその音に過剰に反応して、勢いよく振り返る。しかしアバドが現れたわけでも野生動物が姿を見せたわけでもなく、ただの風の悪戯だったようだ。
神経が過敏になっている。心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。
もし今この瞬間、あの茂みの向こうからアバドが突然現れたら。弟さんと同じようにあっという間に全てを奪われて、暗く冷たい森の中でこと切れる――
「――……っ!」
息が浅くなる。額に脂汗が浮かぶ。上半身を折りたたんで、うるさい心臓を落ち着けるように、両手で左胸を抑えつけた。
どんな最期だったのだろう。死ぬ瞬間、何を思ったのだろう。誰かを恨んだのだろうか。この世界を呪ったのだろうか。それともただ、大切な人たちを思い出していたのだろうか。
脳裏に浮かんだのは今は会えない家族の顔。元の世界の友人たちの顔。彼らが私の名を呼ぶ声を、もう思い出せない――
「ギルバートくん!」
誰かが叫んだ。次いで、大きな破裂音。
何が起こったのかと顔を上げれば、至近距離で薄紫色の瞳が二つ、こちらを見つめていた。
「体調が悪いのか」
大きな手がそっと肩にかかる。どうやら私の体は冷え切っていたようで、手が触れた個所からじんわりとぬくもりが広がった。
あったかい――
あれだけうるさかった心臓が徐々に落ち着きを取り戻す。ぼやけていた視界の焦点も合いはじめて、このときようやく目の前にいるのがギルバートだということに気が付いた。
彼は地面に膝をついて、下から私の顔を覗き込んでいた。
「ギルバート……」
「隈がひどい。今日は中止だ」
端的に言うと、ギルバートは私の腕を強く引いた。バランスを崩した私はそのままギルバートの胸元に倒れこむ。すると彼は素早く私を抱き上げた。
恥ずかしいとか申し訳ないとか、様々な感情が胸の内を渦巻いていたが、私にはもうそれを口に出す体力もない。気づかないうちに私の軟弱な体は限界を迎えていたようだ。
ぬくもりに縋るようにギルバートの胸元に頬を摺り寄せた。そうすれば、頭上で大きなため息がこぼされる。
「自分の体調くらい、自分で把握しておけ」
言葉こそ突き放すような冷たいものだったが、声音には一切棘が感じられなかった。まるで子守歌のように優しい声に、私は瞼をゆっくりと降ろしていて。
意識を失う直前、優しい指先が額に浮かんだ汗を拭ってくれた。




