48:アバド
人々の悲鳴がホールにこだまする。何が起きたのかも分からないまま、ただ割れたガラスから逃げるように人々は逃げ出す。
私はその場に留まって、黒い靄を纏った“それ”をじっと見つめていた。“それ”はゆっくりと、堂々とした動きで、バルコニーから中へと入ってくる。
ゆらり、と蜃気楼のようにきらめいて、きらり、と黒い靄の中で何かが光って――目が合った、気がした。
「……アバド」
確証はなかった。けれどなぜか、私は確信していた。あの存在こそ、この世界の人々に多大な苦しみと恐怖を与え、セシリーの弟を襲い、叔母様の命をも奪った悪魔のような存在・アバドだと。
「マリア、しっかりしろ! 逃げるぞ!」
がっと肩を掴まれる。ギルバートの手だ。さすがの彼も焦っているようで、耳元で落とされた声は上ずっていた。
私は視線をアバドに固定したまま、ギルバートに引きずられるようにして歩き出す。不思議なことに、命を奪う化け物がすぐそこにいるというのに、恐怖心が湧いてこなかった。
アバドは魔力も奪っていく存在だ。魔力を持たない私より、エリート様の方が恐ろしいと思うのかもしれない、なんてのんきなことを考えつつ、ギルバートたちに被害が及ぶようなことはあってはならないので、後ろ髪を引かれる思いで駆け出す――そのときだった。
強風がすぐ横を通り抜けていった。次いで、重い衝突音。そして悲鳴。
「きゃあああ――!」
一際高い悲鳴がした方を慌てて見やる。すると壁に何か重いものが勢いよくぶつかったような衝突跡ができていて、中心にはぽっかりと穴があいていた。
壁が崩れたせいであたりに煙が舞う。ゆっくりと煙が引いていく中で、黒靄が揺らめいた。
――先ほど横を通り抜けたのは風ではなく、アバドだったのだ。
もう会場内はめちゃくちゃだ。人々は四方八方に逃げ回り、そのせいで警備の人たちもアバドの許へなかなか駆けつけられないでいる。一体どこに逃げれば安全なのか、それすら分からない。
壁に凄まじい勢いで衝突したであろうアバドは、体勢を立て直すためなのかその場でぐるぐると回り出す。そして“標的”を定めたのか、ぴたりと体の動きを止め――黒靄の中の“瞳”と目が合った。
(まさか、私を狙ってる……!?)
アバドと目が合ったのは二回目だ。先ほども私のすぐ横を駆け抜けていったし、もしかすると、アバドの狙いは私――!?
まさかそんな、と浮かんだ可能性を否定しようとしたときだった。一際大きく黒靄が揺らめいて、あ、と思ったときには私の視界からアバドの姿が消えて、
「きゃあ!?」
すぐ近くで悲鳴が上がった。
慌てて声の方を振り返る。すると黒靄が華奢な人影に馬乗りになっており――床に広がるオレンジ色の髪を見て、顔から血の気が引いた。
「コリンナさん!」
アバドに襲われたのはコリンナさんだ。
――このままでは彼女は魔力を、そして命を奪われてしまう。
瞼の裏に蘇ったのはコリンナさんの涙。散々苦しんできた彼女が、これ以上他者から奪われるようなことがあってはならない。
私は反射的に駆け出していた。もしアバドの狙いが本当に私なら、コリンナさんから引き剝がせるかもしれないと思ったのだ。
人気のない方――先ほどアバドが壁に開けた穴――へ向かい、声を張り上げる。
「こっち!」
ぴたり、とコリンナさんの上で揺らめいていた黒靄が止まる。アバドはゆらりと立ち上がって、体の向きごと私の方を向いた。
――間違いない、アバドの狙いは私だ!
確信した瞬間、とにかくコリンナさんの許からアバドを引き離すため、私は駆け出した。先ほどアバドが作った穴は人一人なら問題なく通ることができて、そのまま大きな廊下へと出る。
右か、左か、どっちに行くべきか。
――とりあえず、なんとなく、右!
どこへ行くかも分からないまま、どうすればいいかも思い浮かばないまま、私は走り出した。すると背後から大きな衝突音が聞こえてくる。
(やっぱりついてきた!)
振り返る余裕はないが、アバドが再び壁に穴をあけた音だろう。
慣れないヒールを脱ぎ捨てて、素足で柔らかな絨毯の上を走る。――と、不意に体が軽くなった。背中を柔らかくも力強い風に押しあげられているような、そんな感覚。おそらくこれは魔法だろう。魔法で走りを補助しているのだ。
「どうするつもりだ!」
すぐ後ろから聞こえてきた声に、私は間違いなくほっとした。
問いかけのすぐあとに、見慣れた人影が隣に並ぶ。――ギルバートだ。突然会場を飛び出した私を追いかけてきてくれたのだろう。
苦労人の彼を心の中で労わりながら答える。
「な、なんか私狙ってるっぽかったから!」
「だからって一人で飛び出すのはどうかと思う!」
反対方向から思いもよらなかった声がした。この爽やかな、ギルバートよりも高い声は――
「ル、ルシアンくん!?」
驚くべきことに、ギルバートだけでなくルシアンくんまで私の後を追ってきてくれたらしい。
彼は私を責めるような目でじとっと睨むと、今までになく硬い声で叫ぶ。
「今先生たちが街の人たちを避難させてる! とにかくアバドを追い返そう!」
――アバドを、追い返す。
ルシアンくんの提案に私はすぐに頷けなかった。私はアバドの正体を確かめたいと強く思っていたからだ。しかし、誰が被害にあうかも分からないこんな大混乱の中で、私情を優先させることなんてできない。それ以前に自分が狙われているという状況で、情けないかな、そんな余裕はない!
(本当にユーリかどうか確かめたかったけど、みんなの無事最優先!)
ギルバートを見やる。すると彼は珍しく大きく頷いて同意を示した。
そもそもなぜアバドは私を狙っているのだろう。もしや力がないと見抜いた? それともその正体に関係がある? ――なんて疑問を思い浮かべながら角を曲がった瞬間、すぐ後ろで衝突音が響く。あと一秒廊下を曲がるのが遅かったら、アバドに突撃されていたかもしれない。
――余計なことを考えている暇はない。下手をすればここで命を落とす。
顔を上げて前を見た。正面にはバルコニーへと繋がるガラス張りの扉が見える。その手前にはおそらく階段があるはず。
とにかく地上階に降りて、街から離れるべきだ。そう判断し、階段に向かって大きく踏み出した瞬間。
「担ぐぞ」
低い声が耳元でそう囁いたかと思うと、ふわっと体が浮いた。突然の浮遊感にぎゅっと目を瞑れば、ぐわんと体が反転して――気づいたときには、ギルバートの肩を体で挟むような形で抱き上げられていた。俵抱きというやつだ。
「ルシアン! バルコニーから外へ出るぞ!」
ぎゅっと私の足を固定するように強く抱いて、ギルバートは叫ぶ。
肩に抱き上げられているせいで進行方向を見ることができない私は、ギルバートのタキシードの背中を縋るように両手で掴んで、ぎゅっと目を閉じた。
ひやり、と冷たい風が頬を撫でる。外に出たのだと思った瞬間、ギルバートがぐっと体を屈めたのか指先が冷たい大理石に触れて、それから――飛んだ。
風をきる感覚に瞼を開ける。
目下に広がるのは美しい街並み。ほとんどの建物の壁が白で塗装されているため、夜中だというのに月の光を反射して、やけに明るく見えた。
上半身を起こして空を見上げる。いつもより近い夜空に浮かぶ月は、全く欠けていないまん丸の満月だった。




