47:異変
「すみません、すみません」
コリンナさんが盛大に零してしまった飲み物は、主催者側の係の人たちによって一瞬で拭きとられた。幸い大理石の床は水分を弾き、グラスは落としても割れない素材で作られていたらしく、大きな被害はでなかった。
片づけが終わった後、改まってコリンナさんと向き合う。彼女は両手に何も持っていない状態で、今度こそ大きく頭を下げた。
「わ、わたし、コリンナ・バグリーと申します。先ほどはありがとうございました……!」
彼女からのお礼になんと答えるのが正解か分からず、「気にしないでください」と曖昧に微笑む。
実際私は虎の威を借りる狐よろしく何もしていない。コリンナさんを助けたのだって、私が勝手に腹を立てたからだし――けれど、泣きそうに瞳を潤ませている彼女を見て、エリート様たちを追っ払えてよかったと心から思った。
「本当に、助かりました」
吐息交じりに落とされたコリンナさんの言葉を最後に沈黙が落ちる。
――こ、この後どうしよう! 颯爽と立ち去る? でもコリンナさんを今一人にしたらまたエリート様たちから絡まれるかもしれない。だから一緒に行動を共にしていた方がいいと思うのだが、それにしたって初対面同士で盛り上がる話題もなく……。
助けを求めるようにルシアンくんを見上げる。彼はこの中で間違いなく一番コミュニケーション能力が高い。が、しかし、見上げた瞬間、釣り目がちな緑の瞳と視線が絡んだ。どうやら彼も私に助けを求めているらしい。
確かに、第五生徒の中で唯一の同性である私から声をかけた方が彼女も怖がらないかもしれない。とにかく重く気まずい沈黙から逃れたくて、私は声が若干裏返ったまま、早口で言った。
「そ、そうだ、コリンナさん、食事されました? せっかくこんなにあるんだから、一緒になにか取りに行きません? ほら、あっちに美味しそうなケーキとかありますし!」
とにかく何か食べよう。そしてこれ美味しいですねー、何の食材ですかねー、好きな食べ物とかってありますー? なんて当たり障りのない会話で場を和ませるのだ。
私はコリンナさんの傍らに立って、美味しそうな料理が所狭しと並べられている長机を指さす。そして「取りにいきませんか?」と顔を覗き込み――瞬間、彼女の眦からポロリと零れ落ちた涙にぎょっとした。
「コ、コリンナさん!? 大丈夫ですか!? さっきの人たちに何かされました!? それとも私が何か粗相を!?」
次から次へと溢れ出てくる涙に私は慌てる。ルシアンくんたちも慌てて駆け寄ってきて、他の人たちの目からコリンナさんを隠すように囲んだ。
私はそっと震える肩に手を伸ばす。そして再び顔を覗き込めば、彼女はぶんぶんと大きく首を振った。
「ち、違うんです、こんな風に誘ってもらえたの、久しぶりで、嬉しくて……うぅう……」
嗚咽交じりに紡がれた言葉に、私は心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に陥った。
――ただ料理を取りに行こうと声をかけただけなのに。それなのに、こんな小さな子どもみたいに声をあげて泣くなんて。
一体コリンナさんは学院内でどのような扱いを受けているのだろう。彼女に優しく寄り添ってくれるクラスメイトは一人もいないのだろうか。それとも、彼女に声をかければその人もまた、“標的”にされてしまうのだろうか。
おさまったはずの怒りが再び腹の底で燃え上がる。ぎゅ、と下唇を噛みしめた。
いじめなんて生易しいものじゃない。エリート様のくだらないプライドのせいで、彼女は心を、将来を、人生を壊されかけている。こんなこと、あってはならない。許してはならない。
――そのときだった。私とコリンナさんの顔の間にぬっと突然ハンカチが現れる。紺一色のシンプルなハンカチ。それを差し出したのは、ギルバートだった。
「使え」
すぐにコリンナさんはハンカチを受け取らなかった。遠慮するように小さく首を振る。その遠慮がちな態度がなんだか切なくて、私はギルバートのハンカチを代わりに受け取り、そっと彼女の濡れた目元にあてた。そしてそのまま頬を濡らす涙を拭う。
「私、マリアです。第五生徒のマリア・カーガ。よろしくお願いしますね、コリンナさん」
自己紹介をすれば、ようやく彼女の瞳がこちらを向いた。その瞬間を逃さないとばかりに捲し立てる。
「こっちはルシアン・アッカーソンくん、ノア・タッチェルくん。そしてこのハンカチの持ち主がギルバート・ロックフェラーくんです」
私の紹介に合わせて彼らはコリンナさんに挨拶した。ルシアンくんは軽く右手を上げて、ノアくんは小さく会釈をして、ギルバートは僅かに頷いて。
コリンナさんの瞳が一人一人見つめる。徐々に涙が引いていく。震えていた肩がすとんと落ちて、体から力が抜けていく。
「よ、よろしくお願いします」
そう微笑んだコリンナさんの声は、もう震えていなかった。
私は不躾にも彼女の手をそっと握り、料理が並べられた長机の前まで移動した。そして大皿を手に取って、何が食べたいか尋ねる。
コリンナさんは迷いに迷って、いくつかの料理を指さした。その間にも主にルシアンくんが私が持っている大皿にたくさんの料理を小分けに乗せてきて、随分と賑やかな盛り付けになってしまった。
「みんなで食べましょう。この後ワルツもありますし、腹が減ってはなんとやら、です」
会場の隅で、五人で大皿を囲んでささやかな夕食会を開催することにした。
ぎこちない雑談をかわし、互いに遠慮しながらも大皿の上に乗った料理を平らげていく。皆お腹が減っていたのか、思っていたより早いスピードで料理はなくなっていき、ノアくんが最後のお肉一切れにフォークを伸ばしたとき。
――バチン!
大きな音が背後から聞こえた。何事かと振り返った瞬間、視界が闇に閉ざされる。きゃあ、とあちこちから悲鳴が上がって、小心者な心臓が竦みあがった。
「な、なに!? 停電!?」
徐々に暗闇に目が慣れていく。それでも近くにいる人の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる程度だ。
不意に背後に体温を感じた。おそらくはギルバートが背後に立って周りを警戒してくれているのだろうと思い、僅かに落ち着きを取り戻す。
どうやら照明器具の故障らしい。主催者と思われる男性が「落ち着いて下さい!」と声を張り上げている。
いくらか離れた場所で火が灯った。おそらくは魔法を使った人がいるのだろう。それを見てか、周りの人々も明かりの確保のために炎魔法を使い――どこからか吹いてきた風に、全て吹き消されてしまった。
(……風? どこから?)
なんだか嫌な予感がした。
心臓が再び痛いくらいに竦みあがる。鼓動が早くなって、指先が震えて、動物的な勘が危険を訴えているような、そんな感覚。
会場を見回す。どこから風が吹いてきたのか確かめたくて、必死に目を凝らす。するとバルコニーへと続くガラス張りの出入り口を見つけ――瞬間、全身に鳥肌が立った。
何かが、そこにいる。バルコニーに立っている。
暗闇の中、そのシルエットは光っている訳でもないのに、浮かび上がっていた。
雲や霧に似ている、もやもやと不明瞭なシルエット。そこから伸びている二本の細い足と、これまた細い二本の腕。まるで人間の胴体に、靄がまとわりついているような、そんなシルエット――
『――は二本の足で立つ、人間によく似た姿をしていたわ』
鼓膜の奥に蘇ってきたのは、優しい声。
つい先日亡くなってしまった、叔母様の声。
『全身に禍々しい色のオーラ……いえ、靄のようなものを纏っていて、足元しかよく見えなかったのだけれど』
バルコニーに立っていた“それ”はゆっくりと近づいてくる。知性はないのか、ガラス張りのドアに一度行く手を阻まれた。すると“それ”は両方の手のひらをガラスに押し当てて、そして――
「逃げて!」
声の限り叫んだ。
次の瞬間、大きな音を立てて壁一面のガラスが砕け散った。




