38:一歩
――その日は運が向いてきていた。
授業を終え、ルシアンくんが寮部屋まで送ってくれたのだが、なんとウィルフレッド先輩が部屋でセシリーと共に私を待っていたのだ。どうやら今日、アバドについて対策本部で話し合いがあるらしく、よかったら参加しないかというお誘いだった。
私はそのお誘いに半ば反射的に頷いた。そしてその後、ギルバートも誘おうかというウィルフレッド先輩の気遣いを、首を振って拒否した。
ギルバートがいては闇魔法の文献がレジスタンスにあるかもしれない、という話がしにくくなるためだ。
私が幼馴染の同行を拒否したことにウィルフレッド先輩は驚いていたようだったが、彼は私の意志を尊重してくれ、結果として二人で対策本部のアジトとなっている学院内の資料室を訪れた。
私たちを待っていたのは、どこか浮かない表情のブレンダさん一人だった。
「アバドの正体について、二年ほど前に叔母様のもとに現れた記憶喪失の少女、ユーリだと仮定して考えてみる」
三人だけの作戦会議はウィルフレッド先輩の司会で進む。
「まずはアバドが現れた場所――つまりは事件現場について。アバドの活動範囲はまだポルタリア国内に留まっているが、毎回特定の場所で事件が起きている訳ではない」
卓上に広げられた世界地図には、赤い丸のシールが複数貼られていた。おそらくはこのシールの位置が、アバドによる被害が報告された場所だろう。
シールによって可視化されたことで、なんとなくアバドの活動範囲が見えてくる。ウィルフレッド先輩の言う通りアバドによる被害は今のところポルタリア国内のみだが、そもそもポルタリアが大きな国であることを考えると、一国内のみではあるものの活動範囲は広いと言えるだろう。この機動力をもってすれば、その内他国にも被害が及ぶかもしれない。
「……今回叔母様が襲われた場所は、ユーリにとって大切な場所だった。それは偶然か、必然か」
初耳の情報に私は地図に落としていた視線を上げる。しかしウィルフレッド先輩は物憂げに瞼を伏せており、彼と視線が絡むことはなかった。
沈黙が落ちる。アバドの正体はユーリなのか、それとも全く別の化け物なのか。
不意にブレンダさんが口を開いた。重い沈黙を振り払うような凛とした声だった。
「やっぱアバドの力について調べるべきだよ。でも闇魔法についての文献はほぼ燃えちゃってるからなぁ」
「燃えて……?」
これまた初耳の情報だ。確かに夏季休暇前、ブレンダさんは闇魔法の文献について“訳あってかなり少ない”と話していたけれど、燃えてしまったとは聞いていなかった。
控えめに首を傾げれば、隠されることなく答えは与えられる。
「昔の事故でお城の図書館が半壊しちゃったの。壊れた場所に運悪く機密文書を保管しててね、闇魔法についての文献もそこに沢山あったわけ。誰かが持ち出して禁忌を犯さないようにね」
「事故って、何があったんですか?」
「あー……ごめん、こればっかりはマリアちゃんにも教えられない」
どうやらこれ以上は私――ただの協力者が踏み込んでいい領域ではないらしい。お城とはおそらくポルタリア王がいるこの国の王城のことを指しているのだろうし、そこであった事故となると表にあまり出せない情報なのかもしれない。
そこでふと疑問に思う。この国の王城はどこにあるのだろう、と。ポルタリアの首都・ポルティカの中央には王城と見紛うポルタリア魔法学院がある。学院は街の中央に存在していて、その周りには円状に城下町のような大きな市場が存在しており――王城なんて、この街のどこにも見当たらない。
反逆勢力から攻められる可能性を見越して、どこかにひっそりと隠されているのだろうか。いやでも、王がいる場所が首都と呼ばれるのでは?
ぐるぐる考えている間に再び沈黙が落ちる。
――今しかない、と思った。ブレンダさんの口から闇魔法の文献について言及された今が好機だと。
「あ、あの、私がお世話になってる家で、闇魔法のものに似た魔法陣を見た覚えがあるんです。それで、もしかしたら家に文献があるかもしれなくて……」
緊張で声が震える。心臓が口から飛び出そうだ。自身が強く握ったことで皺が寄ったスカートの生地を見つめたまま、顔が上げられなかった。
いち、にぃ、さん、し――数えること、数秒。勢いよく両肩を掴まれたはずみで顔を上げる。すると目前に満面の笑みを浮かべたブレンダさんの顔があった。
「本当!? でもそっか、マリアちゃんの保護者はフォイセ老師だったよね。もしかしたら持っていらっしゃるかもしれない!」
ブレンダさんの弾んだ声で紡がれたフォイセさんの名前にドキリとする。私は今この瞬間、レジスタンスを売ろうとしているのだ。
――動揺するな。躊躇うな。先に私を利用したのはレジスタンス側だ。それなら私もレジスタンスを利用して、自分の目的を果たそう。アバドの正体を明かすために、そして、元の世界に帰るために。
そう自分に言い聞かせたものの、ブレンダさんのあまりの喜びように不安が顔を出す。そもそもこの世界に召喚されたときの魔方陣が闇魔法のものであるか定かではないし、夏季休暇中に結局文献は見つけられなかったのだ。
「でも、ご期待に添えるかは……」
「いいのいいの、できればで! そもそも残ってるかも分からないからね」
予防線を張ってみるものの、ブレンダさんの笑顔は曇らない。
(早まった? でも重要な情報源として見てくれれば……)
とにかく私はアバドの被害者という立場以外で、対策本部から重宝されるようになりたいのだ。だって本当は被害者ではないのだから、それ以外の利用価値を彼らに見出してもらわなければあっという間に捨てられてしまう。
私の発言でにわかに場の空気が明るくなる。ブレンダさんは今にも鼻歌を歌いだしそうだし、ウィルフレッド先輩は卓上の地図を見下ろして真剣な表情で考え込んでいた。
未だ心臓は大きな音を立てている。後戻りできない一歩を踏み出してしまった予感に、背筋がぶるりと震えた。
あぁ、なんて小心者なのだろう、情けない。
「とにかくアバドを誘き寄せよう。できることなら捕獲したい」
「それ、ずーっと言ってるけど成功したことないよね? どうするの?」
「アバドがユーリだとしたら、何か策を練られるかもしれない」
「何か策をって……ウィルフレッド坊ちゃんにしては随分と曖昧だなぁ」
自分を落ち着けるのでいっぱいいっぱいだった私は、横でウィルフレッド先輩とブレンダさんの会話をぼんやりと聞くだけで、その日の作戦会議でそれ以上発言することはなかった。




