33:無力
目が覚めて数十秒、今自分がどこにいるか分からなかった。
すっかり見慣れた豪華な寮部屋の天井でもなく、涙が出るほど帰りたい質素なワンルームの天井でもなく、オフホワイトのシンプルでいて薄汚れた天井。そう、ここは――
(レジスタンスの集落に“帰って”来たんだった……)
正直帰ってきた、という表現は使いたくなかったけれど、今の私にとってはここがホームであることは否定できない。
随分と眠っていたらしく頭がすっきりとしている。窓から外の景色を見やれば、どうやら真夜中のようだった。吸い込まれそうな暗闇が広がる中、誰一人で歩いておらず、あたりも静まりかえっている。
ふと机の上に食事が置かれていることに気が付いた。それを見た瞬間腹の虫が情けない声を上げたため、とりあえずは腹ごしらえとばかりにベッドから起き上がる。
(この後すぐ寝られるはずもないし、どうしよう)
ゆっくりと遅い夕飯を頂きつつ、私は部屋の中を見渡した。最低限の家具が置かれているばかりで、暇つぶしができそうなものは何も見当たらない。
ううん、と頭を悩ませ――閃いた。ここにあるかもしれない闇魔法の文献をこっそり探してみよう、と。
アバドとレジスタンスの共通点は今のところ闇魔法のみだ。しかし共通点が一つでもある以上、完全に無関係とも言い切れないため、真正面から闇魔法について尋ねるのは気が引ける。
それに私は闇魔法の文献を持ちだして、アバド対策本部に横流ししようと考えているのだ。理想的な動きとしては、レジスタンス側に悟られることなく文献を持ちだし、対策本部に提供することで信頼を勝ち得る、といった流れなのだが――
そもそも闇魔法の文献がここにあるかどうかも定かではない。探すには当然建物内を動き回らなければならず、人々が寝静まった今が絶好のチャンスのはず!
私は残りの夕飯を口の中に詰め込んで、部屋を出た。鍵はかかっていなかった。
(お手洗いを探すふりをして、しらみつぶしに探すしかないかな……)
暗い闇が広がる廊下に一瞬足が竦んだが、胸元の守護石をぎゅっと握りしめて自分を奮い立たせた。
廊下は細長く、扉の間隔は狭い。おそらく小さな部屋が所せましと並んでいるのだろう。
万が一誰かの私室に入ってしまう可能性も考えて、控えめなノックをしてから中を覗いていく。しかしそのほとんどが空き部屋で、寒々しい空間が広がっているだけだった。
収穫はなく、レジスタンスの人と鉢合わせることもない。私はだんだんと気が大きくなって、八つ目の扉を勢いよく開けた。
「……階段?」
扉を開けた先に広がっていたのは、随分とおかしな部屋だった。その部屋のど真ん中に、ポツンと地下へ続く階段があったのだ。他には何も置かれていないのがまた異様さを際立たせている。
――この階段、降りるべきか降りないべきか。
正直な感想を言うと、怖いので降りたくない。明らかに普通の階段ではない。けれど異様な雰囲気を漂わせているからこそ、もしかしたらこの先に何か重要な情報があるかもしれない、とも思う。
恐怖と探求心の狭間で揺れていたときだった。不意に鼓膜が震えた気がした。
咄嗟に耳を澄ます。その音は、階段の奥から聞こえてきた。
「――、――」
(話し声……!)
会話の内容までは聞こえない。けれど確かに人の声がする。
次いで、ぎし、と木が軋む音が聞こえた。それが古い階段を上る音だと気づいたのは、数秒後のことだった。
音がどんどん近づいてくる。誰かは分からないがこの部屋で鉢合わせるのは賢明ではないと判断し、私は慌てて部屋を出た――瞬間、腕を強い力で引っ張られた。
「ひっ!?」
心臓が竦みあがる。パニックに陥った私は掴まれた腕を振り払おうとぶんぶん振った。
「おい、落ち着け」
不意に耳元で聞き慣れた声が囁く。この声は――
「ギ、ギルバートくん……!」
振り返る。そこには予想通り、鋭い瞳でこちらを睨みつけるギルバートの姿があった。
自然と体から力が抜ける。どうやら私は、レジスタンスの中では比較的彼に心を許してしまっているらしい。
いやいや、彼もいつかは出し抜かなければならない相手なのだから、警戒を怠らず――なんて自身の心を叱咤していたら、目の前でギルバートの眉間にぐっと深く皺が寄った。
「なんでこんなところにいる」
当然聞かれますよね。
私は誤魔化すようにヘラヘラと笑みを浮かべて、予め用意していた嘘の理由を話した。
「あ、あはは、お手洗い探してたんだけど、ちょっと迷っちゃって……」
ギルバートは私の答えにチ、と小さく舌を打つ。さすがは世界一の魔法学院の成績優秀者、救世主さまもどきのバレバレな嘘に騙されるようなことはないらしい。
彼は私の腕を掴んだまま歩き出した。そして早口で捲し立てる。
「どうせアバドの闇魔法について調べようとしてるんだろ? 思いつきで余計なことをするのはよせ。アンタの身に危険が及ぶことになる」
――ギルバートの言葉に、私は思わずその場で足を止めた。
彼は私の目論見に気が付いていた。なぜこのようなことをしようとしているのか、その理由も分かっているだろう。だからこそ、“思いつき”で“余計なこと”という彼の言葉選びに腹が立ったのだ。
私なりの覚悟をただの思いつきだと称され、叔母様への弔いを余計なことと吐き捨てられるなんて――
「余計なことって……ただ、叔母様の命を奪ったアバドについて詳しく知りたいだけだよ。少しでも力になれたらって……叔母様にはとてもよくしていただいたし」
「それが危険だって言ってるんだ。アンタ、もしアバドに襲われてもどうすることもできないんだぞ? 自分の無力さを自覚してくれ」
自分の無力さを自覚しろ。その言葉に、カッと頭に血が上った。
そんなの、私が一番知っている! この世界に来てから何度も悔しい思いをして、無力な自分を嘆き続けてきたのに!
――私がこんな思いをしなければならない原因は、全てそちら側にあるのに!
「無力なのは私が一番知ってるよ! でも望んでこうなったわけじゃない! ただ勝手に連れてこられただけ!」
気づけば声を荒げていた。
ギルバートに怒りをぶつけても仕方ないのは分かっている。彼はただ、救世主に最も安全な道を示してくれただけだ。救世主を守ることが、レジスタンスが彼に与えた命令なのだから。
分かっているのに感情が抑えきれなかった。誰かにぶつけずにはいられなかった。
高ぶった感情は涙になって眦から零れ落ちる。それを見たからなのか、ギルバートは薄紫の瞳を大きく見開いて、数秒の後、目を逸らすように深く俯いた。そして、
「……悪かった」
小さな声で呟く。
「アンタが今の立場に納得できてないのは分かってる。でも何もしないことがアンタにとって一番安全なんだ」
私の目を見ずにギルバートは続ける。
――今彼は何を思っているのだろう。私をどう見ているのだろう。
先ほどの謝罪で多少落ち着きを取り戻した私は、それでもここで引くことはできない、と、努めて穏やかな口調で反論した。
「でも、私に出来ることはしたい。叔母様のためにも。自分のためにも。私にできるかもしれないことがあるのに、ずっと何もせず、見て見ぬ振りをするのは嫌だよ」
「…………」
ギルバートは何も答えない。ただ俯いていた顔を上げて、長い前髪から僅かに覗ける薄紫の瞳を揺らめかせ、縋るようにこちらを――
「なぁにしてるんですかー?」
突然背後から少女の声が飛んできた。
飛び上がった心臓を落ち着かせるように左胸にそっと手をあて、ゆっくり振り返る。先ほどの、鼓膜にこびりつくような甘い声には聞き覚えがあった。
「イ、イルマ……!」
そこに立っていたのは派手な髪を一つにまとめ、胡乱な瞳でこちらの様子を窺うイルマだった。
同じ魔法学院に通っているものの、彼女とは学院内では滅多に顔を合わせないため、随分と久しぶりのような気がする。そもそもイルマもレジスタンスに戻ってきていることすら把握していなかった。
驚きのあまり口から言葉が出てこない私のかわりに、ギルバートが前に出る。
「救世主サマに建物内を案内していた。もう部屋に戻らせる」
冷静な声で答える彼はすっかりいつものギルバートだ。先ほど、ほんの一瞬だけ覗けた揺れる薄紫の瞳は、夢かなにかだったのだろうか――
イルマはギルバートの答えを聞いて鼻で笑う。
「ふぅん。こんな夜中に?」
明らかに彼女は信じていない。しかしそれも当然だろう。ギルバートの答えには些か無理があった。それにもしかしたら、先ほどまでのギルバートとの問答を聞かれていた可能性だってあるだろう。
下手に言い訳を重ねれば自爆しかねないため、私は黙ってイルマに微笑みかける。そうすれば彼女は応えるようににっこりと口角を上げ、
「救世主サマ、余計ことは考えないほうがいいですよ」
表情とは裏腹に、ひどく冷たい声で言い放った。
――あぁ、こんな調子でレジスタンスを出し抜くことなんてできるのだろうか。
心臓を突き刺すようなイルマの冷たい声にぞくりと背筋を震わせつつ、私は自分の今後を憂いた。




