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冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話

作者: 水瀬立乃

陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーだった母親が勤め先の専務と結婚して兄妹ができた。

義兄は陽和よりも6歳年上の慶一(けいいち)

義妹は3歳年下の礼奈(れいな)

ふたりとも継母と陽和に友好的で、父親も優しく、血は繋がらなくとも良好な家族関係を築けていた。

しかし陽和の母親が6年前に不慮の事故で他界すると、それまでの兄妹関係は一気に崩れた。

義理の父親は陽和が高校を卒業した頃に社長に就任し、その頃から仕事が忙しくなり家に帰らない日が続くようになった。

母親は心労を重ねて外出先で気が遠くなって階段から転落し、打ち所が悪くて帰らぬ人になった。

父親は陽和に涙を流して詫びて、「彼女がいなくなっても君はいつまでも家族だ」と言ってくれたが、義理の兄妹からは冷たく当たられるようになった。


母親が亡くなってから慶一と礼奈は陽和を家政婦のように扱い、2階建ての8LDKで風呂もトイレも2つずつある広い家の家事をほとんど任せていた。

父親との養子縁組が解消されなかったとはいえ、赤の他人となった境遇から逆らうことのできなかった彼女は大学を中退して就職し、仕事をしながら家事をして、自分の生活費は自分で賄いながら暮らしていた。

ふたりにとって陽和は家族ではなくても、彼女にとっては家族だった。

だから心のどこかで理不尽さを感じてはいても、何が何でも家を出ていこうと強く思えなかったし、住む場所があるだけで幸せだと思っていた。

彼女は彼女なりにここでの生活に平穏を感じていたのだ。


それから4年が経ち、陽和は26歳になった。

同居する家族から冷たくされる以外は何不自由なく暮らしてきたのだが、最近になって彼女の状況は一気に悪化した。

慶一と礼奈が「家から出ていけ」と言うようになったのだ。

当然、陽和は困った。

彼女は働いていたが給料はそれほど高くなく、貯金はあっても少額で、他に頼れる人もいない。

しかし兄妹と顔を合わせれば毎日のように「早く出ていけ」と言われるので、彼女はその度に「もう少し待って下さい」と頭を下げてお願いしていた。

彼らの頑固さからして、今度こそ本当に家を出ることになるだろうと彼女は覚悟した。


その日は礼奈が恋人と一週間の旅行に出かけた日だった。

夕食の後で慶一に「いつになったら荷物を纏めるんだ」と苦言を呈され、陽和はただひたすらに耐えて頭を下げていた。


「もう少し、もう少しと言ってもう半年になる。俺はあとどのくらい我慢すればいいんだ?」

「申し訳ありません、本当に…。あと少しで家を借りられるだけのお金が貯まるんです。だからそれまでは待っていただきたくて…」

「お前の都合なんて知ったことか。今まで俺は十分猶予を与えてきたつもりだ。母親が死んだ時にお前を追い出すこともできたが、情けをかけて住まわせてやっていたんだ。明日だ。明日出ていけ」

「そんな…明日は無理です。家も決まっていませんし、平日なので仕事もありますし…」

「ならさっさと家を決めて来い。俺はこれ以上待つ気はない。もし待ってもらいたければ…そうだな、体を使って説得してみろ。俺を満足させられたら、お前の希望する日まで期限を引き延ばしてやってもいい」


慶一の言葉の意味することを知った陽和は、顔を真っ赤に染めて硬直した。

彼を誘惑して、そういう意味で満足させられたら、貯金が目標額になるまで待ってもらえる。

陽和は秘かに彼に異性として憧れを持っていたので、彼と関係を持つのはやぶさかではなかった。

だから一瞬希望に胸が膨らんだが、いくら渡りに船な条件でも淑女としてその方法はどうなのかと26年培ってきた貞操観念が頭をもたげる。

返事ができずにもじもじと臍の上で組んだ指を動かしていると、慶一が鷹揚にソファに背を預けた。


「その反応…お前、経験がないのか」

「!」

「気が変わった。陽和、俺の相手をしろ」

「えっ…」

「ちょうど恋人と別れて溜まっていたんだ。お前も問題を先送りできるし、ウィンウィンだろ?」

「何を言っているんですか?!嫌です、私…こんなのは…!」


こんな愛のない関係は持ちたくない。

体でと提案したからには慶一に少しは好かれていたのかと思ったが、それは全くの勘違いだった。

彼の目からは陽和への好意が一切感じられず、女性を性のはけ口としか思っていない雄の目をしていた。

陽和は逃げるように後退り、廊下に繋がるドアを開くことまでは成功した。

彼女が両手で必死に開けたドアは慶一の腕一本で閉められ、背後から抱き竦められる。


「抵抗するな。ひどくされたくなければな。それにお前に拒否権はない」


そうして陽和は慶一に半ば無理やり処女を散らされた。

終わった後、彼は破瓜の痛みに耐えた彼女に労いの言葉もなく、興味を失くしたようにソファの定位置に戻って仕事用のパソコンを開いた。

愛も情もない仕打ちに絶望した陽和は、逃げるように部屋に戻ってすすり泣いた。


(初めてだったのに…こんな扱い…ひどい…)


初恋の人が相手とはいえ、これでは娼婦として抱かれたも同然だ。

否、娼婦なら仕事で報酬も発生するが陽和には何もないので、玩具にされたと言った方が正解かも知れない。

彼女はこういう行為に憧れを持っていたし、好きな者同士で愛し合う為にするものだと思っていた。

慶一は母親が生きていた頃はもっと穏やかで優しく、紳士的だった。

あんな横暴なことをするような人ではなかった。

だから余計に辛かった。

彼は母親と自分の前で理想の息子や理想の兄を演じていただけなのだと痛感する。

そうと知らずに過ごした過去を思い起こすと、虚しくてまた涙があふれた。


慶一はその日を堺に陽和の体を気まぐれに要求してくるようになった。

彼は初めての時と同じく事を終えた途端に素っ気なくなり、陽和の様子には目もくれない。

今日は一人でシャワーを浴びに行き、10分程してリビングに戻ってきた。

くたくたになって足腰も立たず、床に倒れたままの彼女を冷たく見下ろして辛辣な言葉を浴びせかける。


「いつまでそうしているんだ?同情でも引きたいのか?いつまでもそこにいられたら目障りだ」


彼女はやっとの思いでリビングを出て、2階にある自室に戻るために階段を登った。

しかしあと数段というところで足を踏み外してしまった。

手すりを掴もうと伸ばした手は空振り、6段下の踊り場まで音を立ててずり落ちる。

ドン、ダンと大きな音が家中に響き渡り、直後にリビングから慶一が飛び出してきた。

僅かな距離なのに息を切らして、尻餅をつく陽和を目にして険しい顔を向けてくる。


「…何をやってるんだ。落ちたのか?」


近づいてきた彼に咄嗟に叱責されると思った彼女は、体をびくつかせて全身が痛むのも構わずにその場にひれ伏した。


「お騒がせして申し訳ありません。お気になさらずお戻りください…」


早く部屋に戻らなければと頭ではわかっているのに、体のあちこちが痛くて立ち上がれない。

どうしてこんなことになっているのだろう…と、理由もわからず情けなくなって目に涙が滲んだ。

また同情を引いていると言われたくなくて、彼女は顔を隠すように床に額を擦り付けた。

しかし何も反応がない。

もしかしてもう立ち去ったのかと思い顔を上げてみると、彼は何故か苦渋に満ちた顔で陽和を見下ろしていた。


陽和は軽い打撲と足を少し捻挫しただけで済んだ。

日常生活にもほとんど支障はなく、湿布を貼って過ごしているうちにすぐに良くなった。

それが原因なのかはわからないが、慶一の陽和への態度が少し軟化した。

相変わらず彼女の都合も構わず呼びつけて性欲処理をするところは変わっていないが、以前ほど無理をさせるようなことはなくなった。

礼奈が旅行を終えて家に帰ってきたことも理由の一つだろう。


「朝からあなたの辛気臭い顔なんて見たくないのよ。私が仕事に行くまで黒子になっていなさいって何度言えばわかるの?」

「よくこんなまずいものを平気で出せるわね」

「いつ出ていくの?早く出ていってよ!」


かつては愛嬌のあった礼奈にいびられることにも、自分を罵る妹に無視を決め込む慶一にも慣れて、陽和はただただ頭を下げて従った。



ある日、陽和は職場近くのビルで偶然知り合いに声をかけられた。

高校時代に同じ部活の先輩だった五嶋(ごとう)という男性で、卒業以来連絡もしていなかったので会うのはおよそ10年ぶりだった。

陽和は食事に誘われたが、あの頃のように門限で断ると彼は苦笑した。


「そうだった、門限あったよな。懐かしいなあ。今は何時までなの?」

「19時くらいかな…」

「かなって何だよ。それなら門限まではいいだろ?」


陽和は五嶋とコーヒーをテイクアウトして公園のベンチに座った。

中央の噴水を眺めながらお互いの近況を伝え合う。

義理の兄妹に退去を促されていると聞いた五嶋は陽和の不遇を知って憤慨した。


「あんまりだよ。そんな家で毎日過ごしていたら辛いなんてもんじゃないな…」

「そんなこともないですよ。それに私には目標がありますから」

「目標?」

「母が亡くなった年からこつこつ貯金をしていて、このまま順調にいけばあと1年で目標の金額になるんです。そうしたらすぐにでもあの家を出て、一人暮らしを始めようと思っています」

「あと1年なんて…。出て行けと言われているところで1年も耐えられるの?それなら僕と一緒に来て欲しい。君が望むなら一人暮らしができるようにサポートもする。君がずっと好きだったんだ」


陽和は五嶋に抱きしめられて初めて、彼の好意を知った。

自分が異性にとって恋愛の対象に入る女性なのだということも。


五嶋と別れて家に帰ると珍しく慶一が先に帰ってきていた。

リビングに電気がついていることに気が付いて、慌てて夕食の支度に取り掛かる。


「ごめんなさい。少し遅くなりました。これから準備しますね」


仕事着のままエプロンをつけて冷蔵庫から食材を取り出す。

野菜を洗っていると慶一がキッチンにやってきて、陽和を後ろから抱きしめた。

彼女の名前を呼び、甘えるように項に唇を押し当ててくる。


「陽和…」

「あ、あの…どうかされましたか?」

「……香水の臭いがする。男と会っていたのか?」


その瞬間、声色が変わった。

彼は答える隙を与えず、彼女を乱暴にまさぐって貫いた。

そんなことをされても痛みを感じるのは最初だけで、彼女は次第に快感に蕩けていく。

これまで何度も体を重ねてきた為に、陽和の体は慶一が馴染むように作り変えられていた。

彼女は早々に足から力が抜けてしまったが、彼に腰を引き上げられて無理やり立たされながら揺さぶられ続けた。

彼が一度中で果てた後も容赦なく攻められて、彼女は途中で意識を失った。


陽和は五嶋の好意に感謝を伝え、丁寧にお断りをしていた。

慶一は関係を持つようになってから彼女に「出ていけ」と言わなくなった。

それなら体さえ許していればあと1年は何も言われずに住んでいられる、と彼女は思った。

何度もしているせいで感覚が麻痺してしまい、今更回数が増えても何も変わらないと思うようになっていた。

それに、差し出された好意に応じる気もないのに五嶋の手を取るのは、彼の気持ちを玩ぶようで嫌だった。

彼はがっかりした様子だったが、陽和の意思が固いとわかると説得を諦めて受け入れた。


(先輩は先輩を好きになってくれる素敵な女性と幸せになって欲しい。私のように虚しいだけの関係にはさせたくないもの…)


陽和はどんなに失望しても、慶一への愛情を捨てきれずにいた。

それが家族愛なのか恋慕の情なのか、はたまたただの人情なのか、彼女自身よくわからなくなっていた。


その翌日から慶一は目に見えて変わった。

言葉遣いや態度が以前のように穏やかになり、陽和に手酷いことをしなくなった。

その代わりにほとんど毎晩、理由もなく彼女を自室に呼びつけるようになった。

当然そういうことをするものだと思って陽和が服を脱ごうとすると、彼は焦った様子で彼女を止めた。


「今日はそんなつもりで呼んだんじゃない」

「それではどんなおつもりだったんですか?」

「……」


慶一はこうして時々不可解な行動をするようになった。

陽和をただ腕に抱きしめて眠り、する時は相変わらず強引だが終わった後は優しく体を労ってくれる。

すぐに部屋を去ろうとすると引き留められて、「今夜は泊まっていけ」と命じられることもあった。

彼の変化に彼女は戸惑った。

突然人形を人間扱いし始めた彼の真意がわからなかった。


「陽和。紅茶を淹れてやるから、ここに座れ」


リビングにいる時でも彼は彼女を傍に置きたがった。

わざわざその為に彼女の好きそうなお菓子を買って来ては、自らお茶を淹れるようになった。

礼奈の目を盗んでは頭を撫でたり、抱きしめたり、キスをしたりすることも増えた。

まるで恋人同士のようなスキンシップに、陽和は悦ぶ気持ちもあったが何か裏があるのではと疑う気持ちもあった。


それからひと月ほど経ったある日、ついに慶一との関係が礼奈にばれた。


「昨晩、兄さんと部屋で何をしていたの?」


礼奈は珍しく陽和よりも早く帰宅して彼女を待ち構えていた。

義妹に詰られた陽和は何も答えられなかった。

そういうことをする時はできるだけ声を抑えているのだが、昨日は殊更に甘く長くしていたので、気が緩んで部屋の外まで聞こえてしまっていたのだろう。

彼女の沈黙を肯定と受け取った礼奈は激昂した。


「体で誘惑するなんて、いやらしい…あなたも母親と同じね!気持ち悪いのよ!」


彼女は怒号を飛ばし、陽和の部屋にあった鞄や荷物と一緒に彼女を雪の上に放り出した。

飛んできた拍子に開いたスーツケースにはご丁寧にクローゼットの中の衣類が詰められていた。

庭に散らばった服や下着を拾ってケースに収めながら、陽和は礼奈の放った言葉を頭の中で反芻していた。

彼女は母親を慕っていたように思うが、心の奥底ではずっとそう思っていたのだろう。

父親を体で誘惑した気持ち悪い女だと。


(…これ以上は甘えられない)


陽和はもう鍵のかかった玄関のチャイムを鳴らして「家に入れてくれ」と頼み込む気にはなれなかった。

彼女はこのまま家を出て行こうと決心した。


その夜はビジネスホテルに一泊し、翌日の金曜日は休まず出社した。

朝起きたらスマホに慶一からの着信が数件入っていたが、折り返す気力もわかず後回しにした。

陽和には他に考えなければならないことが山積みだった。

このままホテルに泊まり続けるわけにもいかないので、その日は定時で退社した足で不動産屋へ行き、家を探し始めた。

希望する家賃の範囲内で即日入居可能な物件が数件見つかり、明日の午後に内観できることになった。

慶一からまた何度か着信が入っていたが、家が決まるまでは連絡をしないことにした。


いくつか内観した後、比較的内装が綺麗な3階建てマンションの一室に契約を決めた。

入居にかかる費用も今ある貯金で十分賄えそうで安堵する。

入居日は5日後の木曜日になった。

住む家が決まって安心したのか、翌日は疲労が出てほとんど一日中寝て過ごした。

月曜日、出社すると受付の女性から金曜日の夜に義兄が訪ねてきていたと聞かされる。

陽和は彼から着信が続いていることを思い出し、家も決まったことだし折り返そうと電話をかけた。

慶一はすぐに出た。


「陽和?どうして電話に出なかった?今どこにいるんだ?今日まで何をしていた?男と一緒だったのか?」


矢継ぎ早に質問してくる彼に苦笑が漏れる。

その必死さがまるで恋人を心配する男性のようで、そんな些細なことで喜びを覚える自分に呆れるのと同時に胸が痛くなった。

どんなに期待したところで、この恋が実らないことは初めての夜からわかっていた。


「そうです。好きな人と一緒でした。住む家も決まりましたのでこのまま出ていきます」

「なんだって?家が決まった?どこに住むんだ?好きな人って誰だ。この前会っていた奴か?」

「今までお世話になりました。ありがとうございました」

「待て、勝手に話を終わらせるな!まだ電話を切るなよ。とにかく会っ…」


慶一はまだ喋っていたが、陽和は命令に背いて電話を切った。

恐らく彼女が彼にした初めての反抗だった。

涙があふれて止まらない。


(嘘でもいいから、私のことを好きって言ってほしかったな…)


そのまま彼の番号をブロックして、涙と共に初恋を終わらせた。



入居日当日、陽和は午前休を取った。

朝7時にホテルをチェックアウトして不動産屋に鍵を受け取りに行き、新しい家に僅かな荷物を運び込む。

先日家電量販店で購入した洗濯機も指定時間内に無事に届いて、設置してもらった。

必要なものを一通りチェックして、仕事帰りに大型スーパーに立ち寄る。

夕食の食材と洗剤を買い、100均に立ち寄って最低限の生活用品や調理器具などを買い集めた。

寝具売り場で大人用の昼寝用布団と毛布も1枚購入した。

ホテルの宿泊費や準備費用で貯金をほとんど使い切ってしまったため、給料日まではできる限り節約して乗り切らなければならない。

諸々の不安はあったが、彼女はそれ以上に新しい生活に胸を躍らせてもいた。

自分で選んだ、自分の為だけの家。

ここでは何をしてもいいし、誰にも遠慮する必要はない。

陽和は初めて過ごす一人だけの夜にわくわくした。

枕代わりのバスタオルに顔を埋め、薄い毛布に包まりながら至福感に頬を緩ませる。


(お給料が入ったら、冷蔵庫を買いに行こう…)


そうして一人暮らしを満喫していたある日の昼下がり、突然慶一が陽和の家を訪ねてきた。

その日は土曜日で、昼食の食材を買いに出かけて帰ってきたらマンションの入口に人が立っていて驚いた。

彼は仕事用のコートを着て、片手に大きな銀色のスーツケースを持っている。


「出張帰りなんだ。とりあえず入れてくれないか。寒い」

「…狭い家ですけど、どうぞ」


陽和は何故ここがわかったのかと問い詰めたかったし、帰ってくれと言いたかった。

しかし彼女の良心が凍えそうな彼を追い返すことができなかった。

エントランスのロックを解除し、1階の奥にある家の前まで案内する。

鍵を開けて玄関に入った途端、陽和はひやりとするコートの布地に背後から抱きしめられた。

耳元で慶一の掠れた声がする。


「陽和…会いたかった。少し痩せたか?」

「靴を脱ぎたいので離していただけますか?」

「あ…、ああ…」

「少し片付けますので待っていてください」


腰に絡みついていた彼の腕をすげなく外すと、彼女は先に中へ入って部屋の隅に広げていたチェスト代わりのスーツケースを閉じた。

エアコンの電源を入れ、電気ケトルでお湯を沸かし、その間に小さなテーブルの上を軽く整えてドアを開ける。


「お待たせしました。どうぞ」


家の中を目にした彼は唖然として固まっていた。

彼女が借りている部屋は8畳のワンルームで、まだ物も少なく殺風景だ。

社長令息の彼は今までこんなに狭い部屋など見たことがなかったに違いない。


「あいにくですがソファがないので絨毯のあるところに座っていただけますか?来客用のカップもないので、私のでよろしければ…。コーヒーもインスタントですけれど」


彼女はできる限りで来客をもてなそうと、立ち尽くしている彼に座るように促した。


「お昼は召し上がりましたか?まだでしたら今からお作りします。お口に合うかわかりませんが、オープンサンドを作ろうと思っていて…」

「……」

「慶一さん?どうかされましたか?」


慶一は相変わらず何も言葉を発さないし、その場から動こうともしない。

陽和が訝しく思って尋ねると、彼は彼女の手を握り、腰を屈めて瞳を覗き込んだ。


「帰ろう、陽和。礼奈が悪いことをしたな。あいつのことは説得して、納得してもらっている。俺もお前に家を出ろときつく言っていたが、理由があったんだ。もう心配はいらないから、一緒に帰ろう」

「…私の家はここです。他に帰るところなんてありません」

「お前が怒る気持ちはわかる。今更勝手だよな。だけどだからってお前をこんなところに住まわせられない…」

「確かに慶一さんのご自宅と比べるとここは納屋のようなお部屋だと思います。それでもここが私の家です。私はどこにも行きません」


彼女がきっぱりとした口調で断ると、彼は困ったように眉を落とした。


「陽和……悪かった。お前の気持ちが収まるまで何度だって謝る。だから帰ろう。帰ってちゃんと話をしよう」

「どうして謝るんですか?それは何に対しての謝罪ですか?お話ならここでもできます。何と言われようと私はここから出ていきませんし、動きません。今日はこれから冷蔵庫が来るんです」

「……」


慶一はとてもショックを受けたような顔をした。

どうしてそんなに泣きそうな表情をしているのかわからず、陽和は困惑してしまう。

結局彼は彼女への説得を諦めて、黙って床の上に腰を下ろした。


それから間もなくしてインターホンが鳴り、冷蔵庫が届いた。

陽和はカウンターキッチンの奥に設置されていく150Lの冷凍冷蔵庫を瞳を輝かせて見ていた。

冷蔵庫が使えるようになるまでは電源を入れてから最低でも2~3時間はかかると説明を受ける。

その間も彼女の表情は生き生きとしていて、慶一は彼女の後ろでじっとその様子を見ていた。


業者が帰った途端、彼は嬉しそうに冷蔵庫に触れる陽和を包み込むように抱きしめた。

慈しむような手付きで彼女の頭を撫で、腕の中に閉じ込める。

何故そんなことをされるのかわからず、彼女は困惑した。


「慶一さん…?」

「お前の気持ちはわかった。もう帰って来いとは言わない。その代わり協力させてくれ。欲しい物があるなら何でも買ってやる…」

「お気持ちはありがたいですが、必要ありません。自分で揃えます」

「自分でったって…1ヶ月も冷蔵庫がない中で暮らしていたんだぞ?!クローゼットも、椅子も、ベッドすらない!」

「まだひと月は経っていません。3週間です」

「変わらないだろ!あれは何だ?あれが布団か?あんな薄っぺらい敷布団と毛布だけで、毎晩こんな硬い床の上で眠っていたのか?」

「意外と柔らかいし暖かいですよ」

「そういう問題じゃない!」


慶一はひどく憤慨していたが、彼女はなぜ彼がそんなに怒っているのかわからなかった。

彼が声を大きくした時、隣の家に面した壁の向こうからドンドンと何かを叩くような音が響いた。


「…何の音だ?」

「きっと慶一さんの声がお隣にまで響いたんです。今の音は煩いから静かにしてという合図です。すみませんがもう少し声を抑えていただけると助かります…」


陽和がお願いすると、彼は愕然として言葉を失っていた。


それから陽和は慶一に外へ連れ出された。

行き先は彼の自宅ではないと言うので素直に従ったが、彼はどこか思い悩んだ表情で声をかけ辛い雰囲気だった。

手を引かれてやってきたのはお洒落なカフェレストランだった。

陽和一人では絶対に入らないような、外装から高級感がひしひしと伝わってくるようなお店で、彼女は気後れした。


「あの…ここはちょっと…。こんな服装ですし…」


今の陽和の服装はカジュアルで、とてもレストランの雰囲気には合わない。

しかし慶一はそんな彼女の乙女心を気にも留めず、「服装なんて誰も気にしない」と言ってさっさと中に入ってしまった。

店内は女性客で賑わっていて、数少ない男性客の慶一を目に留めるなり眼福そうに視線で追いかけている。

当然彼の後ろを歩く陽和も注目され、彼女は恥ずかしさに目を伏せた。


「どうした?」


案内された席に腰を落ち着けたところで、ようやく彼はすっかり大人しくなった陽和に気が付いた。

先程までの溌剌とした印象は消え失せ、睫毛が頬に影を落としている。

慶一は「具合でも悪いのか?」と尋ねたが、彼女は困ったように微笑んだだけだった。


「女性はこういう店が好きだと思ったんだが…」

「…素敵なお店で、緊張しているんです」

「そうだったのか。ここは高級志向なだけで格式ばった店ではないから安心しろ。何が食べたい?ここは日替わりのプレートランチが結構美味いんだ」

「慶一さんは何度かいらしたことがあるんですか?」

「ああ。この辺りに来たときは利用することが多いな」

「そうですか」

「あ…仕事の打ち合わせでよく使うだけだ。本当にそれだけだよ」


ただ相槌を打っただけなのに、彼は何故か言い訳がましく言葉を重ねた。

普段は落ち着いた様子の慶一が何気ないことで一喜一憂している姿が微笑ましく思えて、陽和の表情が少し和らいだ。


ふたりはおすすめのプレートランチを2つ頼んで静かに食事をする。

一緒に住んでいた時から食事中はほとんど会話をしないので沈黙が気になることはなかったが、他のことで陽和は落ち着かない気持ちになった。

時折視線を感じて顔を上げると、眩しそうな顔をしている慶一と目が合う。

それが一度だけでなく何度も続けば、偶然とは思わなかった。


「前に金が貯まるまで家を出るのを待って欲しいと話していただろう。どのくらい貯めていたんだ?」


デザートのフルーツムースを食べ終えると、慶一はデリケートな質問をあけすけに尋ねた。

声量を抑えているとはいえ、周りに聞こえてしまわないかと咄嗟に目をを配る。

幸いにも両隣の客席とは距離があり、話も盛り上がっている様子なのでその心配はなさそうだった。


「…どうしてそんなことが知りたいんですか?」

「驚いたんだ、正直。もっと広くてセキュリティもいい家に住んでいると想像していた。家具や家電も少しずつ揃えているようだし…」

「金額はお恥ずかしくて言えませんが、慶一さんが考えているよりきっとずっと少ないですよ。入居費用と洗濯機でほとんど使ってしまいましたから」

「……」

「本当に少しずつ貯めていたんです。ひと月に1万にも満たないくらいです。それ以上になると生活が苦しくて…」

「生活が苦しい?」

「慶一さんのご自宅ではとても良い食材を届けていただいていましたし、食費だけでもかなりの金額で…」

「毎月渡していた額では足りなかったのか?」

「いいえ、十分すぎる程でした。でも1/3の金額でも4、5万はかかっていましたので…」

「? どういう意味なのか理解ができないんだが…」

「平均してかかっている食費を3で割って、1人分を差し引いた金額を慶一さんから受け取っていました。余った分は翌月に繰り越して使っていました」


不可解そうに眉根を寄せていた慶一は、陽和の言葉の意味を理解すると驚きに目を見張った。


「……気が付かなかった。そんなことをしていたのか?」

「水道光熱費は全て慶一さんの口座から引き落とされていると聞いていましたので、毎月明細の1/3を振り込んで…」

「なんだって?」


彼には記帳をする習慣がなかった。

給料も良くお金に困らない生活を送っていたため、陽和から入金があったことなど全く気が付いていなかった。


「どうして今まで言わなかった!なぜそんなことをしたんだ?」

「なぜと言われても…。母が亡くなったら私はおふたりにとって他人も同然ですし…」

「……」


慶一は顔を歪ませて悲痛な表情を浮かべた。

陽和もまた何故彼がそんな顔をするのかわからず目を見開く。

彼女を他人だと最初に言ったのは彼らの方だったはずだ。

しかし彼はそれきり黙り込んでしまい、悪いことを言ってしまったかと後ろめたさを感じた彼女は、何か他の話題を探そうと視線を宙に泳がせる。


「そ、そういえばどうして私の家がわかったんですか?」

「…人を雇って調べさせた。突然いなくなったから心配したんだ。あんなふうに追い出すつもりなんてなかった」

「でも…おふたりは私に再三出ていけと言っていましたよね」

「理由があったんだ。事情があって、お前をあの家に置いておきたくなかった。だからわざと嫌われるようなことをして、お前が自分の意思で出て行くように仕向けていたんだ」


陽和はその言葉をすぐには信じられなかった。

母親が亡くなった途端に義理の兄妹は豹変した。

本気で陽和のことを疎ましく思い、嫌っていると思わせる態度だった。

慶一はテーブルの上で組んだ手を額に当てて、神に懺悔するかのように続けた。


「なのにお前は、俺や礼奈がどんなに冷たくしても出て行かなかった。こんなことになるのなら初めからお前にわけを話して、家を用意してやればよかった。そうすればもっと広い家に住まわせてやれたのに。大学だって頑張って入ったのに中退したと聞いた時はショックだった。最後まで通わせてやるつもりだった。全部俺のせいだ…本当に申し訳ない…」

「それは慶一さんのせいじゃありません。私が決めたことで…」

「いいや、俺が悪い。生活費のことだってそうだ。俺はずっとお前を養っているつもりでいたんだ。なのに実際は…。情けなくてお前に合わせる顔がない。俺は長いことお前に悲しい思いをさせてきたな。他人だなんて冗談でも言ってはいけなかった。こんなやり方じゃお前も俺達も幸せになれるはずがなかった。俺ももう心にもないことを言い続けるのは疲れた…」

「それはどういう…」

「陽和。俺はお前を愛している」


真摯な瞳に射抜かれた陽和は息を呑んだ。

先程まで嫌でも耳に届いていたざわめきが遠くなり、時計の針が止まったような心地がした。


「お前をあの家から解放しなければと思っていたのに、手に入れたくて我慢できなかった。慈悲のないことをしてしまったこともあったな。本当に悪かった…」


慶一は陽和に許しを請うて頭を下げた。

困惑顔をしている彼女の様子に眉を下げ、自嘲するように話を続ける。


「お前が好きだと自覚したのは最近だが、ずっと前から気にはなっていた。初めは可愛い妹だったはずなのに、だんだんそれだけじゃなくなって…自分でもこの感情がよくわからないでいたんだ。それなりに女性と付き合っていたこともあったが、自分から好きになったことは一度もなかった。根底に女性への嫌悪感があって愛情を持てなかったんだ。相手も俺が理想の男じゃないとわかると自然と去っていった。そんな付き合い方をしてきたから尚更だな。俺の母親はまだ小学生だった俺と赤ん坊の礼奈を残して不倫相手の若い男と逃げた。それが知らず知らずのうちに女性不信に繋がっていたのかも知れない」

「……」

「それでなくとも俺の周りには肩書きに群がる女性が多くて辟易していた。自分本位で、金や外見で男を選び、媚を売って近づいて来る女性ばかりだったんだ。でも陽和は違った。お前とああいう関係になってからは特にハッとさせられることが多くて、どうしていいかわからなくなるんだ。愛情深くて純粋で欲のないお前を知る度にどんどん惹かれていって、いつの間にか手放せなくなっていた。矛盾したことをしていた自覚はある。礼奈もそうだ。あいつは俺に倣ってお前にひどいことを言っては隠れて泣いていた。以前のように買い物をしたり、カフェでお喋りがしたいといつも言っていた」

「…きっと本当のことだとは思うのですが、すみません…いまはまだとても信じられません」

「そうだな…そう思うのが普通だ。だけどこれが真実なんだ」


項垂れたように話す彼の様子を見る限り、嘘偽りを言って陽和を誑かそうとしているようには見えない。


「おふたりがそうまでして私を追い出したかった理由は何だったんですか?」

早由利(さゆり)さんの…陽和の母親のことだよ。できるなら一生隠していたかったが、それでお前を失いそうになったからもう意地は張らない。お前にとっては凄く辛い話になるが…知りたいか?」

「知りたいです。母が…何かあったんですか?」

「早由利さんの死因は事故だと話していたが…実はそうじゃない。あれは自殺だったんだ」


慶一は墓場まで持っていく覚悟でいた事実を陽和に伝えた。

父親の暘一(よういち)は社長に就任後、20代前半で独身の女性秘書と不倫関係になった。

不倫相手がわざわざ関係を匂わせる内容を社内メールで送りつけたことで、母親はその事実を知った。

その女性は悪びれた様子もなく家を訪ねては「暘一さんの忘れ物です」と言って父親の私物を届け、郵便受けには不倫の証拠写真を仕込んでいった。

母親は1年間苦しみながら離婚はせずに耐えていたが、ある日衝動的に死を選んだ。

当初は不慮の事故だと思われていたが、後になって彼女の日記が見つかり、精神的に追い詰められていた状態だったことがわかった。

日記から偶然事実を知った時、慶一も礼奈もこのことは絶対に陽和には秘密にしようと決めた。

父親に口止めもして、「陽和のことを本当の娘と思って大切にしたいなら不倫相手との関係を切れ」と怒りをぶつけた。

しかし父親はその女性と別れるとは言わず、彼女と再婚するとまで言い始めた。

図に乗った女性は何食わぬ顔をして慶一や礼奈の前に現れた。

「私のことは結美(ゆうみ)さんって呼んでください」「仲良くしたいです」「はやく暘一さんのお家で慶一君や礼奈ちゃんと一緒に暮らしたいです」などと言い、時には慶一に色目を使うこともあった。

もちろんふたりは再婚には断固反対だった。

未だ養子縁組したままの陽和がいたからだ。

解消してしまえば彼女の存在に苦しめられることはないが、解消すると身寄りのない陽和は一人ぼっちになってしまう。

当然財産相続の権利もなくなり、彼女にとっての6年間がただ母親を失っただけで何も得るもののなかった時間に成り下がる。

陽和に事実は話せない。

そうなると陽和と彼女を接触させないように、彼女の存在自体を知られないように力を尽くすしかなかった。

ああ見えて子煩悩なところのある父親は、実の息子と娘が揃って「再婚したら絶縁する」と言うと一時は思い留まった。

だがいつまた「再婚する」「あの家に住まわせる」などと言い出すかわからない。

それまでの間になんとかして陽和に自ら家を出ていってもらおうと、居心地の悪い家になるように努めた。

ふたりにとってはもう大切な家族になっている陽和を強引に追い出すような真似はしたくなかった。

そうして4年が経ち、予想通り父親がまた「彼女と再婚する」と言い出した。

だが今回は父親の意思が思っていた以上に固く、慶一達の反対を押し切る勢いだった。

不倫相手は妊娠していた。

1年以内に籍を入れ、家に越してくると決定事項を告げられた彼らは焦った。

なんとかして真実を伝えずに陽和をこの家から遠ざける方法はないかと考え、最後の手段で出て行くように強く促すしかないと心を鬼にした。


「本当の父親のように慕ってくれていた娘のたった一人の肉親を永遠に奪った挙句、そうなる原因を作った女性を継母に据えようとするなんて…狂気だろ。俺の父親だが…頭がおかしいとしか思えない」


慶一は文字通り頭を抱えて嘆いた。

陽和は告げられた話の内容が彼の作り話であるとは到底思えなかった。


(お母さんが悩んでいたなんて知らなかった。そんなに苦しんでいたなんて気が付かなかった。私のことを慶一さんと礼奈ちゃんがずっと守ってくれていた。私はふたりに嫌われていたわけじゃなかった…)


気が付けば陽和の頬には雫が伝っていた。

そのことに気が付いた慶一は席を立って彼女の肩に手を添える。

言葉では形容しきれない様々な感情が込み上げてきて、彼女は涙を堪えきれずに両手のひらで顔を覆い隠した。


その夜、陽和は3週間ぶりに10年間住んだ家を訪れた。

礼奈は泣き腫らした目を更に赤くして陽和を抱きしめ、「ごめんなさい」と何度も繰り返し謝った。

すべての蟠りが解けて、3人は母親が亡くなる以前のような仲睦まじい関係に戻った。

一緒に夕食を摂り、離れ難そうにする礼奈におやすみを言って部屋に入るのを見送る。

陽和も自分の使っていた部屋に向かおうとしたが、階下から「ちょっといいか」と慶一に呼び止められてリビングへ戻った。


「父親と話をして、陽和との養子縁組を解消するように言った。あいつはお前がいいならそうすると言っている。解消してもいいな?」

「もちろんです。本当ならもっと早くにするべきでしたのに甘えてしまって…すみません」

「謝らなくていい。早由利さんが亡くなった途端にお前とすぐに縁を切るなんて薄情なこと、もししようとしていたとしても俺がさせていない。…それじゃあ父親にはそう伝えておく。その内書類が届くはずだ」

「はい。ありがとうございます」

「俺も礼奈も近い内にここから引っ越すつもりだ。あの女と同居なんて想像しただけで胸が悪くなる。実はもうマンションも買ってあるんだ。勤め先まで徒歩5分の新築だ。お前の好きな時にいつでも来てくれて構わない」

「礼奈ちゃんと一緒に住むんですか?」

「いいや、俺一人だよ。礼奈は彼氏と同棲するかしないかで少し揉めているみたいだ。あいつは結婚前の同棲には反対派だからな。意外と現実を見ているよ」

「お兄さんは安心ですね」

「揶揄っているのか?」


彼はふっと目を細めると、彼女の唇にそっと自分のものを重ねた。

ふたりの愛情を確かめ合うように優しく触れ合わせると、白いリボンのついた紺色のケースを差し出した。


「お前ともまた明日からしばらく離れ離れになる。だからこれをつけていて欲しい。箱を開けてくれないか?」

「…はい」


彼女は言われた通りにリボンを解き、長方形をしたビロードの箱の蓋を開けた。

心臓の音が隣にいる彼に聞こえてしまいそうなほどに高鳴っている。


「陽和。俺と結婚してくれ」


ケースの台座には、デザインも大きさも異なる3本のプラチナリングが並んでいる。

1本はダイヤモンドと陽和の誕生石が嵌め込まれたエンゲージリング。

もう2本はそれぞれの左手薬指に収まるマリッジリングだった。


「縁組解消ができたら、お前がいいタイミングで婚姻届を出したい。折角一人暮らしを始めて嬉しそうなお前の邪魔はしたくないからな。恋人として時間を過ごして、いずれ俺の奥さんになってくれたら嬉しい。これからもずっと陽和の傍にいたいし、陽和に傍にいて欲しい」

「…本当に私でいいんですか?もし、その…これまでの責任を取るとかって考えているんなら…」

「俺が結婚したいと思った女性は陽和だけだ。俺は陽和といたい。責任を取ろうなんて考えたことはないな。お前に経験がないと知った時、他の誰にも渡すものかと思った。無理やりになってしまったことは反省している」

「あれは本当に酷いです。初めてはもっと…お互いに幸せな雰囲気でしたかったです…」

「すまない…悪かった、本当に。あの日は俺も焦っていて…冷静じゃなかったんだ。本当にすまない…」

「わかっています。私、慶一さんのことずっと好きでしたから…許します」

「陽和…」

「慶一さん。私をあなたの奥さんにしてくださいますか?」


陽和が姿勢を正して向き直り、蓋の開いたリングケースを差し出しながら自分が言われたのと同じ言葉を口にする。

彼はきょとんとしていたが、逆プロポーズされたのだとわかると珍しく頬を薔薇色に染めた。


「喜んで」


そして照れくさそうに破顔して、彼女の額にキスをした。

ふたりはお互いの指輪を薬指に嵌め合い、心からの笑顔を交わし合った。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

このお話は突然ふっと湧いて出てきたようなお話で、勢いのまま3日で書き上げました。

私は主人公を可哀想にするのは得意な方(?)なのですが、最後がいつも雑になってしまうんですよね。

なので今回は雑にならないように、いつもより気を付けました。

あまり変わらないかも知れませんが…。

陽和の心理描写は少し多めにしていますが、あえて慶一の感情はあまり書かないようにしています。

書いていてなんだかややこしくなってしまって。上手に書ける方が羨ましい!尊敬します!

少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


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