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【鷹司晴夏】翻弄

55話【真珠】晴夏とガゼヴォへ ハル視点となります。


 真珠との練習にガゼヴォに向かう。

 その途中、彼女は貴志さんの部屋に寄り、彼からバイオリンを受け取っていた。


 なぜ彼女のバイオリンが彼の部屋にあるのだろう。

 不思議に思いつつも、その様子を眺める。


 真珠は、興味津々の声音で、貴志さんに質問をしている。


「貴志は紅子と何を演奏するの?」


 今日の夕方の部の『クラシックの夕べ』に参加する予定の、彼と母の演目が気になったようだ。


「ピアソラの『リベルタンゴ』──だ」


 貴志さんがその問いに答えると、彼女は目をキラキラさせて少し興奮しているようだった。


 ポッと赤らめた顔が、ひどく印象的で彼女から目を離せなかった。



 『リベルタンゴ』──母と彼がリハーサルでよく演奏しているジャズアレンジが加えられた情熱の曲だ。


 彼女は、貴志さんの側で何か空想に耽っていたようだが、ハッと何かに気づくと、僕の方に足早に近寄ってきた。



 どうしたんだろう──彼女を目で追っていた僕は、急に手を取られる。その行動に驚いて動けない僕をよそに、彼女はその指を僕の手に絡ませ、ギュッと手を繋いだ。



 僕は何故、彼女が突然手を繋いできたのか分からず、ただ息を呑むだけだ。




 今朝は拒絶された僕の手を、今──彼女は自分の意志で、触れているのだ。




 僕の心が、震えた。

 胸が切ないほどに、苦しくなった。




 喉元まで、その不可思議な痛みがのぼってくる。




 この気持ちを何と呼べばよいのだろう。




 僕の動揺など気づかない彼女は、絡ませた指を更にしっかりと隙間なく握り、今度は突然、僕を引っ張るように森の小径を進んでいく。


「え? おい。シィ?」


 焦った声を出す僕にもお構いなしで、彼女はガゼヴォへと進んでいく。


 何かが彼女の闘志に火をつけたことだけは分かった。


「ハル! 行くよ! はやく練習しよう」


 真珠は「ワクワクする!」という表情を僕にむけ、その後すぐに満面の笑みをこぼした。


 そこに宿るのは──彼女の瞳の中にあるのは、おそらく音楽へのひたむきな愛情だ。



 彼女がこんなに生き生きとした笑顔を僕に見せてくれたことが、無性に嬉しかった。


 僕とのアンサンブルを承諾してもらい、彼女と一緒に演奏することができる──それだけで胸がいっぱいなのに、こんな表情も間近で見ることができることに、心の奥が温かくなる。



 背後から貴志さんの少し慌てた声が届いた。


「真珠、周りを見ろ! 負けず嫌いもいいが、ほどほどにな」


 彼女は、その声に振り返り「大丈夫、大丈夫!」と彼に笑い返した。



 真珠はまるで音楽に恋焦がれるかのように、瞳を潤ませ、頬を上気させている。



 その表情に、僕の心が、また苦しくなった。

 でも、それは苦しいとは言っても、嫌な感覚ではない。



 急に、僕の手が引き寄せられ、右腕に彼女が抱きついてきた。


 何が起きているのか分からず混乱し、反応できずに固まった僕のすぐ隣で、真珠は大輪の花のような笑顔を僕に向けた。



 顔がくっつきそうな程に近い。

 間近にある彼女の瞳に驚き、僕は咄嗟に彼女から離れようとした。


 けれども、それを見越していたのか、逃がすものかというように彼女は僕の腕に更にしがみついてくる。


 まるで身を寄せるかのように密着する彼女に、僕はどうしていいか完全に分からなくなった。僕の頭の中は真っ白だ。



「え、ちょっと……おい、シィ? 君は……本当に何をして……」


 うろたえながら、そんな声を絞り出すだけで精一杯だ。


 顔が熱い。

 多分、僕の顔は真っ赤になっているのだろう。


 そんな表情を悟られないように、左手で口元を覆う。


 右腕は、どうあっても離してもらえないようだ。





 ああ、もしかしたら、これが貴志さんの言っていたことなのか。




 ──彼の声が脳内で再生される。


『あんまりアイツを舐めない方がいい。そんな些細なこと、全く気にしないぞ。そんな腫れ物に触るような態度だと、お前が振り回されて大変なことになる』



 今まで感じたことのない、妙な胸の痛みと、呼吸が上がるような感覚が僕の心と体を支配する。



 彼女の行動に翻弄されながらも、それを嬉しいと思っている自分がいることに、とても驚いた。



 予測不能な行動をされたり、予定にないことが突然起きたりするのが苦手だった僕が、彼女の自由奔放な振る舞いを嬉しいと感じるのだ。


 そんなことを思う自分が信じられない。


 ──僕の心は、どうなってしまったのだろう。


 でも、悪くない。この感覚は、むしろ心が弾んでいるのだと思う。




 この気持ちを胸に、今から僕は彼女と共に音を紡ぐのだろう。



 胸に宿った幸福感と共にかき鳴らす旋律は、きっと美しいものになる──僕たちの音楽を愛する気持ちは、心の深い場所でつながっている筈だから。





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