月ヶ瀬穂高 1
お兄ちゃんターンです。
『海の日』を過ぎると小学校は短縮授業になり、給食無しで帰宅するようになる。
学校の門を出ると運転手の榊原さんが車で迎えに来ていて、自宅に帰るとお手伝いの木嶋さんがお昼の準備をしてくれる。
木嶋さんは六十歳くらいのお婆ちゃんで、いつもニコニコしている。
僕が「ただいま帰りました」と告げると、「お帰りなさいませ。」と言って迎えてくれる。
「さあさあ、穂高お坊っちゃま、ランドセルをお部屋に置いてらしてください。今日の昼食はカルボナーラですよ」
「はい、分かりました。楽しみです」
僕は、トマトソースの方が好みだけど、妹が洋服にシミを作るので、最近はクリーム系のパスタを食べることが多い。
木嶋さんのお料理は、とっても美味しい。
冷めないうちに食べなくちゃ、と急いで部屋に荷物を置きに行き、洗面所で手洗いうがいを済ませる。
木嶋さんの名前は、多恵さんと言う。
「名は体を表す」と僕のお祖父さまがよく言っているように、木嶋さんは多くのことに恵まれているんだろうな、と思う。だっていつも幸せそうにニコニコしているから。
僕の名前は、穂高と言う。
『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という諺があるらしく、将来そういう人間になりなさい、とお祖父さまはお酒を飲みながら頭を撫でてくれた。
お祖父さまは、僕の名前は美沙子さんが付けてくれたとおっしゃっていた。
稲穂のようにスクスクと大きく、ノビノビと高く、心豊かに育つように、と言う願いがこめられているらしい。が、本当に美沙子さんがそんな意味の名前を付けてくれたのか、本当はちょっと疑わしい。
お祖父さまは、美沙子さんのお父さんだ。美沙子さんというのは、僕のお母さんだ。一度、お母さんと呼んだことはあるけれど、とても悲しい顔をしたので、それから僕は美沙子さんと呼ぶようになった。悲しい顔をされると、僕も悲しいから。
僕が小さい頃はとても優しかったのに、いつからか変わってしまった。
きっと、僕が何か悪いことをしてしまったのかもしれない。
もしそうなら謝りたいけれど「理由もわからないのに謝るのは誠実じゃない」と、昔お祖父さまに言われたので、その理由を時々探している。
男の子は、悪いと思った事は素直に頭を下げて謝るんだ、と僕が悪いことをしたときにお祖父さまが叱ってくれた。
そんなお祖父さまが、時々お祖母さまに手を付いて謝っている姿を見ることがあったので、僕が自分の悪いところを見つけた時、美沙子さんへの謝り方の参考にしようと思っている。
「あれを男の潔さと言うんだね」と木嶋さんに言ったら、「あれは真似しちゃいけません」と慌てていたので、男の潔さは奥が深いんだろうなと思った。
それを理解するのは、まだ僕には難しいようだ。
周りの友達は、美沙子さんが綺麗で羨ましいと言う。
でも僕はよくわからない。
綺麗な人というのは、木嶋さんのようなニコニコしている人のことを言うのではないかな、と思うから。
だから僕は、大きくなったら木嶋さんと結婚しようと思っている。
幼稚園の年中さんの時にお願いしたら、嬉しそうに笑ってくれたので、僕は将来、幸せな家庭をつくれると思う。
カルボナーラを食べながら、そんなことを考えていると、妹の真珠がパスタをこぼした。
そういえば、真珠って『誰がつけた名前』なんだろう。
真珠は、美沙子さんが好きな宝石らしい。
真珠は、ちょっと、いや、控えめに言って、かなり? 我儘だと思う。
このままでは、良くない。どうにかしないといけないのに、お父さんは甘やかしてばかりだ。
だから、僕が厳しくしつけてあげないといけない。
だって僕はお兄ちゃんだから。
真珠の教育をしようと思って、バイオリンのコンクールの伴奏をすることにした。僕も頑張って練習した。
真珠のバイオリンの香坂先生は、難しくないコンクールだから大丈夫よ、と言ってくれたけど、努力はしないといけないと思う。
真珠はまだ子供だから、頑張ることの大切さを教えてあげないといけない。それは、お兄ちゃんである僕の仕事だ。
練習するのを嫌がっていたけど、後で絵本を読んであげると言うと、いつも頑張って練習していた。
「これくらいできるもん! 簡単だもん」
と、ちょっと偉そうな態度をする。
「偉いね。頑張ってるね」
と、僕が褒めると
「だって、わたしは月ヶ瀬真珠だもん!」
と、胸を張って、鼻高々に答える。
夏休みに入ってすぐにコンクールがあった。
審査員の先生に、美沙子さんの知り合いがいるということで、母親役で美沙子さんが引率してくれた。真珠はちょっと嬉しそうだった。
その日、真珠は朝から緊張していた。
不安がっていた。
頭が痛い、と言っていた。
それなのに、いつもの「やりたくないことから逃げようとする言い訳」だと思ってしまった。
美沙子さんも、真珠に意味のわからないことを言っていた。
「逃げるの? あなたの父親みたいに──逃げるのは……さぞ楽でしょうね」
――と。
言葉はキツかったけど、その姿は、とても悲しそうに見えた。
「逃げないもん!」
泣きそうになりながら、真珠は舞台に立った。
真珠の名前と曲名がアナウンスされ、僕もピアノの前に座った。
いつでも伴奏に入れるように、真珠の動きに集中する。
でも、真珠は俯いたまま動かない。
僕は、焦った。
どうしよう、と思った。
お客さんたちも、どうしたんだろう?
と、心配してザワザワしだした。
どうしたらいい? 僕はどうするべき?
そう思っていたら、急に真珠が動き出した。
ホッとしたお客さん達から拍手が送られる。
なんだろう。
真珠の動きが、いつもと違う。
頭の天辺から、手足の先まで、まるでプロの演奏家みたいな滑らかな動きをしている。
僕はその綺麗な仕草に、一瞬見とれてしまい、伴奏に入るのが遅れてしまった。
でも、真珠は今まで聴いたこともない、ものすごく難しそうな曲を弾き始めた。
どんな顔をして弾いているんだろう。僕は真珠の後ろ姿をジッと見詰めるしかできなかった。
真珠は大人の演奏家のように身体を揺らしながら、何かを確かめるような目を僕に向けた。
注がれた視線は、まるで大人の女の人のようで、すごくビックリした。
子供だと思っていたのに、急に僕の手の届かないところに飛んでいってしまった気がしたから。
真珠の前に広がる会場が、段々とおかしな空気に包まれていった。
隣同士に座る大人たちが、ザワザワと何かを話しはじめる。
審査員の先生方も慌てたように、手に持つ用紙と真珠を何度も見比べている。
僕はどうしてよいのかわからずに、真珠を見ていた。
すると突然、真珠の身体が傾いだ。
急いで手を伸ばしたけど、真珠には届かなかった。
会場から悲鳴が上がり、僕は真珠に駆け寄った。
「きみっ、駄目だよ! 頭を打っているかもしれないから、身体を動かしちゃいかんっ!」
一番偉い審査員の先生が慌てて舞台に上がってきて、僕にそう言った。
「真珠、頭が痛いって言ってたのに……、僕が……僕が!」
「落ち着きなさい! ボクはお兄ちゃんかな? お母さんかお父さんは?」
僕が取り乱していると、後ろから別の男の先生が声をかけてくれた。
「早乙女教授、いま救急車を呼びました。彼等は、月ヶ瀬美沙子さんのお子さんです」
「え? 美沙子クンの!? 彼女が来ているの? 本当に?──で、その美沙子クンは何処に……」
大人達の会話を聞きながら、僕は真珠の近くで手を握った。
この人達が、美沙子さんが僕達を引率することになった「知り合い」なのかな、と思った。
真珠は目を閉じたままだ。その瞼は開かない。
何度、名前を呼んでも反応しない。
いつものちょっと生意気で我儘な態度でもいいから、何か言ってよ。
(ねえ、目を開けて! お願い!)
僕は神さまに祈り続ける。
救急車が到着し、担架が運び込まれる。
救命救急士の人達が、「いち、にっ、さん」と掛け声に合わせて、真珠を担架に移す。
「親御さんは?」
尋ねられ、美沙子さんの姿を探す。
美沙子さんは、客席で座ったまま、手を口元に当てて茫然としていた。
僕は、焦った。
本当にどうしてよいのかわからなくて泣きそうだった。
だから僕は思わず大きな声で叫んでしまった。
「美沙子さんっ 美沙子さん! 来てよ! ねえ! お母さん!」
――――――と。