【真珠】「君に、会いたかった」
「ハル! そいつを確保! これと交換だ」
そいつ――は、わたし。
これ――は、どうやら貴志のことのようだ。
「え……?」と小さな声が晴夏の口から洩れる。
非常に困惑している様子が、隣から伝わった。
紅――貴志は彼女のことをそう呼んでいた。晴夏の母親は、日本を代表するピアニストだった筈。
ハッと息を呑む。
そうだ、柊紅子だ。
昨日、彼女の名前を聞いた時に、どこかで聞いた名前だと思ったのだ。
ゲーム中では愛音学院在学中、学院祭の特別ゲストとしてピアノ演奏をしてくれたのが晴夏の母・柊紅子だ。
その中では性格までは語られていなかった。
――こんなに色々と自由で……ちょっと、いや、こう言ってはなんだが、かなり人格が破綻したような人物だったのか!?
晴夏は彼女の演奏にコンプレックスを持っていたのだ。
柊紅子は、魂をゆさぶる情感のこもった演奏を得意とする。
対して自分は、感情をこめて演奏することができない――と。
晴夏の感情の起伏の少なさは、すべてこの母親に吸い取られてしまったからではないのか、という思いで乾いた笑いがわたしの口から洩れる。
そんなことを思っていたら、また新たな声が窓辺から届いた。
「紅子さん! ここにいたんですね。森にいましたよ!」
え?
穂高兄さまの声だ。
「お! 我が家のお姫さまを見つけたか? ご苦労であった、穂高よ。褒美にこの紅子さまがチュウをして進ぜよう」
「いえ、結構です」
お兄さまが即、一刀両断した。
この切り返し、どこでどうやって学んだのだ。
そういえば、お兄さまは、この紅子からピアノのレッスンを受けていると、昨夜耳にしたような。
ああ、たしか千景おじさまから聞いたのだ。
穂高兄さまは、彼女と四六時中一緒にいて大丈夫なのだろうか?
あの純真無垢なお兄さまが、彼女の毒牙にかかっているかもしれない。
いや、それとも色々と鍛えてもらっているのだろうか?
ピアノだけでなく、精神修行も兼ねて――
「お兄さま、頑張っていらっしゃいますね。絶対に生き抜いてくださいね」と、思わず手を合わせて拝んでしまった。
「あれ? 真珠。ここにいたの? 全然会えなかったから、どうしたのかと思っていたんだ」
わたしに気づいたお兄さまが、手を上げて微笑んでくれる。
嬉しくなってわたしも笑顔で手を振り返す。
ああ、お兄さまにはやはり癒される。
さすが天使の笑顔の王子さまだ。
「よし、穂高。姫をもらい受けよう。スズは、また何処かで泣き寝入りでもしていたのか?」
よく見るとお兄さまの背中には、女の子が一人――ああ、スズリンだ。
「脱走して東屋に行っては『シィシィが来ない』『光の妖精』がなんたら、と言っていたんだが。最近森の奥まで行くようになってな。助かったよ、穂高」
なんと!?
スズリンはわたしがガゼヴォに来ないことを悲しみ、探し回っていたのか!
それは、本当に大変申し訳ないことをした。
あとで、トウモロコシを一緒に食べて謝罪せねばならない。
紅子は、スズリンを抱き上げると「おー、よしよし」と言って、むずがりながらも寝入るスズリンをあやしている。
「今日のところは、これにて解散だ! またな、皆の衆! ああ、そうだ」
そう言って視線がわたしに移された。
「ミラクルガール――いや、真珠。あとで時間をとってくれ。ちょっと頼みがあるんだ」
へ!? わたし?
そして、紅子よ、なぜわたしの名前を知っている。
あれ? 貴志が呼んだからか?
「それから貴志、悪いがちょっとハルと話をしてやってくれるか? まさか昨夜のあの演奏がお前だったとはな……驚きだ」
フッと、優しい笑顔がもれた。
紅子はこんなにも母性を宿した笑い方ができるのか――そこにわたしは少なからず衝撃を受けた。
「穂高! 行くぞ! 朝食を摂ったら、さっそく練習だ。遅れるなよ」
兄は慌てたように「はい」と返事をして、わたしに手を振ってから紅子の後に続く。
すべてを焼き尽くすかのような勢いで現れた彼女は、我々の心の鎮火も済まないうちに颯爽と消えていった。隣の建物へ。
残されたのは、わたし、貴志――それから晴夏の三人だ。
わたしはどうするべきか!?
「じ、じゃあ、わたしもお暇させていただきますね。お、オホホホホ……」
そう言って玄関から立ち去ろうとしたのだが、伸ばされた晴夏の腕により、わたしの手が掴まれた。
どうやら逃亡を阻止されたようだ。
晴夏は、真剣なまなざしを向け、わたしの手を丁寧に両手で包む。
「君に……君に、会いたかった」
どういうことなのだろう?
去年までわたしがいることさえ意識の外という態度だったのに――自分の記憶が間違っているのか?
いや、そんなことはない筈だ。
頼むからそんな顔で見詰めないでほしい。
中性的な美人顔と真摯なまなざしのコンビネーションに、わたしの心臓が跳ね上がる。
彼は真剣なあまり、顔が近いことさえ気づいていないようだ。
見詰められる恥ずかしさに、途端にわたしの顔が真っ赤に染まるのが分かった。
耳まで赤くなっている。絶対に。
暑い。いや、熱い。
貴志を見ると、口元に拳を当てて、ちょっと苦笑いだ。
貴志よ、そんなところでこちらの様子を窺っていないで、わたしを助けろ!
口を魚のようにハクハクさせながら貴志にSOSを出していたところ、彼がベッドから立ち上がった。
「とりあえず、朝食を摂りに行こう。話はその後だ」
わたしは頷き、晴夏を促す。
晴夏も貴志を見て「わかりました。時間を取っていただきありがとうございます」と告げ、森の小径を三人で本館まで歩いた。
晴夏は、わたしの手を握ったまま離さない。
「手を離しても、もう逃げないから」
そう伝えても、晴夏は感情のこもらない声で「ああ、うん」と答えるだけで、手を離してくれない。
何事かを考えているようで、心ここにあらず――という感じにうつる。
緊張で掌に汗が出る。
汗で手が湿り、晴夏に不快な思いをさせるかもしれない。
焦ると更に汗をかく。
まさしく悪循環だ。
頼むから、手を離してほしい。
貴志! 貴志よ!
どうして助けてくれないのだ。
さっき、思わず蹴ってしまったからなのか?
思わずとはいえ、本当に悪かった。
すまん。貴志よ。本当にヘルプミーだ。
何故、咄嗟にあんな行動を取ってしまったのだろう。
後で土下座をしながら真剣に謝ろう。
あれはいけない。
暴力は駄目だ。
反省しきりで貴志の後ろ姿を目で追う。
森の中のガゼヴォを通り過ぎた。
先程の幻想的な雰囲気はなく、今は清々しい陽光に照らされている。
ああ、あとでスズリンとハルルンと一緒にトウモロコシを食べなくちゃ――美人妖精姉妹の幻影をそこに見たわたしは、晴夏に視線を移す。
そうだ。どうしよう。
ハルルンは男の子なのだ。
もうハルルンとは呼べない気がする。
何と呼んだらよいのだろう。
まだお互いに本名を名乗りあってさえいないのだ。
「あの、ハル……ルン?」
意を決して、氷の花の妖精の名前で呼ぶ。
「ハル」
晴夏が、そう一言、わたしに告げる。
「シィ。ハル――だ」
ハルと呼べということか。
「うん、わかった――ハル」
そう言って、二人で先頭を進む貴志を追いかける。
お手々は仲良しこよしで繋いだままだ。







