【真珠】その名は「メサイア」
母の演奏動画が終了し、車内には一瞬の静寂が訪れた。
だが、その沈黙を引き裂くように、再び同じ協奏曲がスピーカーから流れ始める。
スマートフォンを手にする兄が間髪入れず、画面上に現れたリプレイボタンを押したのだ。
彼の両目は、母の演奏を聴いた衝撃によるものなのか、大きく見開かれていた。
もしかしたら兄は、若かりし頃の母の演奏をもう一度鑑賞することで、このハイレベルな演奏が幻ではなかったことを、再確認したかったのかもしれない。
その二度目の演奏中に、父が口を開く。
「これを美沙子が──すごいな。それにこの音──まるで名器のような響きだ。この音色に太刀打ちできる音楽家なんて、そうそうお目にかかれないんじゃないか?
友達とのことは不幸な出来事だったかもしれない。でも、この演奏は誇ってもいいと思うぞ?」
父の言葉を聞いている途中で、何故か母の身体がビクリと震えた気がした。
わたしも父の言う通りだと思う。
母の演奏は技術的に見ても素晴らしい。その中にあって特筆すべきは、このバイオリンから生み出される音色の美しさだ。
──どうやったら、こんな音を作り上げることができるのだろう?
それが素直な感想だ。
そうなると、母がこの演奏で一位を獲るまでの間、数年にわたって首位に君臨していたという葵衣の演奏が、俄然気になりはじめる。
こんなにも類稀なる音を奏でる中学生が、同時期の日本に二人も存在したのだろうか?──そんな疑問が頭を掠めた。
葵衣の演奏を是非とも聴いてみたいと思った。
それと同時に、中学生時代の母がここまで極上の音を奏でられた理由についても知りたくなる。
わたしはその秘密を紐解くために、画面を見つめた。
母の持つバイオリンは、もしかしたら名のある工房で作られた作品のひとつなのかもしれない。
まずは、耳を澄ますことで、その音色に改めて向き合うことにする。
ああ、やはり、とにかく音色が素晴らしい。
高音は透き通ってどこまでも響き、無限に広がっていくようだ。
低音に宿る甘美なまろやかさには、自分の持つ語彙力では到底表現できないほどの奥深さがある。
『楽器が奏者を選ぶ』とは、よく言うけれど、このバイオリンに選ばれたことを、母は誇りに思うべきだ。
楽器は奏者のためにあるのではなく、楽器の良さを引き出す歯車として、奏者は存在するのかもしれない。
主体は、奏者ではなくバイオリン──時には今まで学んだ弾き方を捨て、楽器の性質に合わせた演奏方法を模索していかなければならない場合だってある。
だから音楽家は、その一生をかけ、巡りあえた楽器と対話し続けるのだ。
弾くことで物言わぬ楽器と語らい、最良の音色を探し、楽器の魅力を最大限に引き出していくのが奏者に与えられた醍醐味なのかもしれない。
何代にもわたる人々の想いを吸い込んだ楽器は、百年、二百年、三百年と時を経るごとに豊かな音色を育んでいく。
その長い時間の中で、共に在ることを許された奏者は、楽器を輝かせようと研鑽を重ねることで、自らの技術を培っていくのだ。
映像の中の母の顔がアップになったところで、わたしはチャイルドシートから身を乗り出した。
兄の持つスマートフォンの画面を覗き込むように、彼の肩越しに近づく。
一度目の動画再生時は母の演奏に耳を傾けていたので、視覚から入手した情報自体が少なかった。
この二度目の演奏では、より多くを知るために、目で見て新たな情報を得ることを試みる。
カメラが、母の顔から左肩にのるバイオリンに、ゆっくりと動いていった。
綺麗な表板は、大変状態の良いものだ。
新品なのだろうか?
まだこの世に生み出されてから百年と経過していないもののようにも見えた。
「へ!?」
思わず、変な声が出てしまう。
──んんん!?
まさかの可能性に心臓が飛び跳ね、眉間にシワが寄る。
──いやいやいや……。
そんなこと、あるわけがない!
突拍子もない想像を止めようと、わたしは慌てて首を横に振った。
でも、このバイオリン。
やはり……似ているような?
一度、そう思ってしまうと、そうとしか見られなくなる。思い込みとは恐ろしいものだ。
だって、絶対にあり得ない。
そもそも、あれがこんなところにあるわけがないのだ。遥か空と海の彼方にある、某大学の博物館に永久展示されているはずなのだから。
でも……あの表板の傷の位置。
それに、ペグの色と模様。
──どうしてこんなにも、見れば見るほどそっくりなの!?
まさか、レプリカ?
いや、そんなものがあるなんて話、一度も聞いたことはない。
疑惑が生まれるたびにその都度否定する。
混乱するわたしの横で、今度は兄が動きを見せた。
「美沙子さん……こんなに素晴らしい演奏をしていたのに、どうして……」
──どうして、バイオリンをやめてしまったのか?
兄はきっと、そう質問したかったのだと思う。
わたしはハッと息を呑んで、表情を引き締めた。
そうだった!
今は、あり得ない妄想で心を乱している場合ではないのだ。
母は躊躇いつつも、しっかりとした口調で答える。
「──それは……わたしがこのバイオリンを弾いたことで、大切な友達から……音楽を奪ってしまったから──彼女が口にした『美沙子は狡い』って言葉が、ずっと耳から離れなくて……バイオリンを弾こうとするたびに、あの時の声が耳の奥で繰り返されるのよ──でもね、それも全部わたしの自業自得。結果としてわたしが……卑怯な手を使ってしまったから──」
──狡い……?
卑怯な手って、なんのこと?
「──弦楽器ってね、穂高の習っているピアノよりも一挺の値段や性能に大きな幅があるの。頑張っても頑張ってもなかなか手に入れられなかったテクニックが、楽器本体や弓をランクアップしただけで、あっさりと弾けたりもする──『なんだ、こんなに苦労しなくても、お金を出して良い弓を使うだけでよかったのか』って──きっと、誰でも一度は思うことなのかもしれない」
母の言葉が、胸に突き刺さる。
伊佐子が大学で音楽を専攻しようと決めた時、最初にしたことは──ふさわしい楽器と弓を手に入れることだった。
単なる習い事用のバイオリンではなく、もうワンランク上の楽器にステップアップする必要があったのだ。
音大受験用のバイオリンを伊佐子が探していたとき。当時師事していた先生が欧州旅行の最中、懇意にしている楽器商から遥々海を超えてバイオリンを持ち帰ってきてくれたことがあった。結局それを購入するには至らなかったけれど、その後も遠く離れた楽器店から空輸で取り寄せたり、近隣のディーラーや工房を巡って何ヶ月もかけたくさんの楽器を弾き比べた。
そしてやっとのことで、最愛となる相棒をみつけたのだ。
以前の楽器では、出したくても出せなかった自らの求める音色──だが、楽器を変えただけで、それよりも遥か高みにある憧れの音を出せるようになった。そのときは──茫然とした。
弓についてもそうだ。難しいと思われていた弓さばき──それだって、上級の弓に変えただけで、難易度の高いテクニックを容易に繰り出せるようになったのだ。
残念だけれど、やはり楽器や弓の性能は、値段によって概ね左右されてしまう現実がある。
母はきっと、そのことを兄に言っているのだと思う。
「この楽器はね、元は多貴子叔母さま──貴志の実の母親の愛器だったの。本当の価値を知らない……少しバイオリンが弾けるだけの中学生のわたしが、興味本位で弾いてよいものではなかった──身の丈に合わないものを手にする……その本当の恐ろしさに、気づくことさえできなかった──子供だったのよ。悲しいほどに……」
そう言えば、たしか貴志の母親はバイオリニストだったはず。彼の血の秘密を祖父から打ち明けられた時に、語られた内容を思い出す。
祖母の親友でもあったという貴志の母親が、どんなバイオリン奏者だったのか、詳しいことをわたしは知らない。
「多貴子叔母さまにとってこの楽器は、音楽の『救世主』だったのかもしれない。だけど、わたしにとっての『メサイア』とはならなかった。今思うと、葵衣との決別も、わたしがバイオリンを弾けなくなったのも、その偉大さを知らずに手を出した酬い。怒った音楽の神様に与えられた……天罰だったのかもしれない……」
わたしの喉がヒュッと音を立てる。
瞬間的に身体が強張るのを感じた。
──メサ……イア……?
ヘブライ語『救世主』を英語表記した際の発音だ。
では──やはり……、わたしの見間違いでも勘違いでもなかったということ?
どうして?
だってあれは──
震える声を絞り出すようにして、わたしは母に訊ねる。
「お母さま、ひとつ質問があるのですが、その楽器を……多貴子おば様は、どこで手に入れたのかご存知ですか?」
映像の中のバイオリンについての詳細を、どうしても確認せずにはいられない。
わたしの予想が正しければ、これはとんでもなく貴重なものだ。
月ヶ瀬の財力があれば、手に入れることだってできるのかもしれない。が、祖父母は、この楽器の本当の価値を知っているのだろうか?
祖父はともかくあの祖母が、中学生の母にそんな大それた楽器の演奏を許可するなんて、絶対にあり得ない──そう断言できるくらいの代物だ。
母は目を閉じたまま、わたしの質問に訥々と答えていく。
「正幸叔父さまと……多貴子叔母さまの婚礼祝いに、アルサラーム国王──ラジェイド陛下が、贈ってくださったものよ」
──出どころはそこだったのか。
祖父母の結婚のお祝いと称して、宝石の散りばめられた教会『天球館』を贈ってくれたのも、エルとラシードの父親ラジェイド陛下だ。
それと同じように、貴志の両親の御祝儀にも、一般常識を遥かに凌ぐ贈り物をしていたなんて──
だって、わたしの考えが正しければ、この兄弟楽器のひとつは、イタリアの国宝となっている。
鼓動が加速するなか、母は複雑な感情を宿した声で語りつづける。
そこにあるのは、深い悔恨だ。
「貴志の両親が亡くなった後、ラジェイド陛下から一時的に譲り受けたの。『弾くことで、彼らの魂を慰めてやってほしい』と。わたしは鎮魂になるのならと、喜んでそれを引き受けたわ──楽器から選ばれた訳でもないのに。分不相応だと思いもしなかったなんて……。その傲慢さを思い出すだけで、今でも身体が震えるわ」
母はそう言って、両手で肩を抱きしめた。
やはり、そうなのかもしれない。
母の話の内容と、バイオリンへの畏怖の感情から導き出されたもの──先ほどまで単なる憶測だった考えは、真実へと近づき、朧気ながら形を成していった。
「もしかして、この楽器は……ストラディバリウスの──」
そこでわたしは言葉を止める。
緊張のあまり、その次の声が、喉から出てこなかったのだ。
ストラディバリウス──誰でも一度は、その名を聞いたことがあるであろう有名な弦楽器の名称だ。
だが、それだけならば、わたしだってここまで驚いたりしない。伊佐子だって音楽家の端くれだ。恩師ルーカスの取り計らいにより、彼の所有するストラドを何度か弾いたことだってある。
だが、母は何と言った?
『救世主』『メサイア』と口にしなかったか!?
世界に現存する数百挺のストラディバリウス。その中でも、名器と呼ばれるものには愛称がつけられている。
その『愛称付き』のなかでも、更に最高峰に位置する三挺のことを、特に三大名器と呼ぶ。
ひとつは、ドルフィン。
ひとつは、アラード。
そして──
「──メサイア」
震える声で、その二つ名を紡いだ瞬間──全身の肌が一気に粟立った。







