【余聞・藤ノ宮紫織】バイオリンと『命乞い』
本日2話目の更新です。(昨夜を含めて3話目になります。)
バイオリンは、姉の唯一のストレスの捌け口だった。楽器に触れたあとは幾分機嫌もよく、私への当たりも柔らかくなったので、年がら年中音楽を奏でていればいいのにと思っていたこともある。
祖母から課される習い事とは違って、バイオリンだけは、姉自身が「習いたい」と希望したものだったらしい。
姉に甘かった両親は、その望みを聞くと直ぐに楽器を揃え、知り合いの音大教授の元でレッスンを開始させたと聞いたことがある。
祖母はどちらかと言えば反対し、稽古をひとつ増やすのならば、体力づくりのために水泳を、と思っていたようだ。
私も両親から「音楽を習ってみるか?」と訊かれたので、ものは試しと数年ほどピアノを習ったこともあるのだが、小学生時代にやめた。姉とは違って、音楽センスが無かったからだ。
それから暫くは、姉にとっても私にとっても平安と呼べる年月が流れた。
だが、姉が中学受験の追い込みに入る小学五年の終わりに、小さな亀裂が生まれる。
成績の伸びが今一歩だった姉は、祖母から「バイオリンをやめるように」と命令されたのだ。
唯一の癒しを奪われてなるものかと、姉は激しい抵抗を見せた。
手を焼いた祖母は、ある条件をつけ、バイオリンを続けることを許可したのだという。
その第一条件とは、祖母の指定する学校に合格すること。
そして、もうひとつが──弦楽コンクールに出場し、一位を獲ること──だった。
それまでコンクールに出場したことなどなかった姉だ。
だから、祖母は一位を獲れるはずもないと高を括っていたのだろう。
たが、祖母の予想に反して、姉は初めて出場したコンクールで一位に輝いた。
そこには執念のようなものがあったのではないかと思う。
その後中学受験も無事成功し、都内の進学校である私立の中高一貫校に姉は進学した。
その進学後にも、祖母は新たな条件を姉に与えた。
学校の成績。これについてはストレートAは当たり前。
定期考査でも三位以内に入ること──それが、バイオリンを続けるための約束だったそうだ。
勿論、弦楽コンクールに出場して一位を獲るのも変わらず、条件のうちのひとつだ。
実際に姉は、バイオリンを続けるためにそれらを守り通した。
鬼の所業か、と思うほどの締め付け具合だったが、父の喜助が祖母から同じような教育を受けて政治家として成功したこともあって、祖母は孫にも同じ方法をとり、父の跡を歩ませようとしたのだろう。
補足しておくと、代々我が藤ノ宮家は、明治維新以来、政治家を輩出し続けた家門だ。
祖母は先祖からの志を受け継ぎ、次代につなげようと必死だったのだと思われる。
また、姉をスペアとして温存しようとしたのにも訳があった。
藤ノ宮の家系に連なる男子は、早逝することが多かったのだ。その死因は悪性腫瘍によるものが殆どだ。
祖母は幼い頃から、志半ばにしてこの世を去っていく人間の無念を知っていた。
本来であれば自分がその意志を引き継ぎ、成就させたかったに違いない。けれど、祖母の時代はまだまだ女性の台頭が表立って良しとはされなかったのだという。
そんな過去を持つが故に、女性の政界進出が増える昨今、祖母は理想の政治理念を継ぐ人間を一人でも多く確保したくて、姉にも政治の道を目指してほしかったのだと思う。
スペアと私は言っていたが、祖母はそうは思っていなかったようだ。と言うのも、祖母は姉を出馬させる場所を父の地盤とは異なるところで準備中という事実を、後に知ることになったからだ。けれど──そんな祖母の事情や大人同士の密約など、当時子供だった姉と私は知る由もない。
中学進学後も、姉は祖母からの言いつけを守り、バイオリンのコンクールで一位を獲りつづけた。
けれど、中三の冬──初めて二位に甘んじたコンクール以降、彼女はあんなに大好きだったバイオリンに触れることはなくなった。
そして──姉は笑わなくなった。
姉の笑顔と引き換えに、意地悪をする姉も消えた。
完全に無気力になってしまったのだ。
当時の私は知らなかったが、学校も無断で欠席していたそうだ。
その変化に一番慌てたのは祖母だった。
打てば響く対応をする賢く強い姉が、そんな弱さを見せるとは露ほども思っていなかったのだろう。
最初の頃こそ「藤ノ宮の恥だ」と姉を叱責していた祖母が、最後には「趣味で弾く分には構わない」と譲歩するくらい、姉は弱っていった。
だがそれ以降数年にわたり、姉がバイオリンを弾く姿を目にする日が訪れることはなかった。
「わたしはバイオリンを弾くに相応しい人間ではないから」
たしかそんな科白を母に洩らしていたのを盗み聞いたことがある。
そして、遅まきながら──姉の状態に危機感を覚えた母が、変わっていくことになる。
姉が不登校になったその直後、単身で海外赴任を予定していた母は、無気力になった姉との家族関係をリセットしようとしたのか、家族内で急に奮闘を始める。
その結果、母は祖母の大反対を押し切り、姉と私を駐在先に帯同させたのだ。
現在では「世界と対等に渡り合える子供に育てるための留学だった」と聞こえ良く語られているが、実際の事情とは大きくかけ離れ、かなり脚色された評価だ。
その当時の内幕を知るのは、今では親族だけだ。
そんな母と父は大学で知り合い恋愛結婚に至ったのだが、政治には疎い母は祖母に従順だったと記憶している。
立場の弱かった母が、姉の窮地により奮起し、藤ノ宮の最高権力者たる祖母に楯突いたのだから、親類中で大騒ぎになった。
親戚筋の間ではこの出来事を『藤ノ宮の乱』だとか、母の名をとって『茜音氏の下剋上』だとか言われ、今現在でも集まりのたびに話題にのぼるくらいだ。
そんな複雑な我が家ではあったけれど、この時の母の決断によって、姉は生きる気力を取り戻したと言っても過言ではない。
ただ……渡仏後の姉は、何かを吹っ切るためなのか、無理矢理陽気に振る舞うようになった気がする。
時々、姉の言動が美沙子さんに重なることがあって、「もしかしたら姉は、美沙子さんになろうとしているのか?」と疑ったこともあった。
でもそれは私の思い違いなのかもしれない。
スペアになるのを嫌った姉が、友人である美沙子さんの代わりになろうとするなんて、やはり有り得ないと思ったのだ。
その後、大人になった姉は、藤ノ宮の立場や国の置かれている現状を別視点から理解するに至り、学生時代とは打って変わり、祖母との間に事を荒立てることは無くなった。
そういえば、姉が大学進学時の家出の際に、祖母に啖呵を切った『土下座付きの命乞い』について「あれって結局どういうことだったのか?」と訊いたことがある。
どうやら姉は、がん家系の藤ノ宮の親族が悪性腫瘍に冒された場合、自分が執刀することでその命を救い、祖母の鼻を明かしてやる、という意味で口にしていたようだ。
がん治療の権威になった将来の自分に、「手術をしてほしい」と祖母が頭を下げることで溜飲を下げたかったのだろう。
家族に対して、愛があるのか無いのか、姉の考えは未だもってよく分からない。
「でも、残念なことにそれは叶わないことだとわかったのは、だいぶ後になってから。家族は原則、執刀医にはなれないなんて、高校生の頃は知らなかった……だから別の方法をとることにするわ」
別の方法──自分が認める名医を紹介することで祖母に恩を売るのだと、息巻いていたのはまだ数年前のことだ。
藤ノ宮家では、幼い頃から叩き込まれる政治信条がある。
それは、「自分が悪者になったとしても、国の利と成ることを為せ」だ。
すべては将来日本を背負って立つであろう子供たちに、素晴らしい未来を届けるために。
だが、その代わりに祖母は自分の孫を犠牲にしていたのだから、本末転倒も良いところ──だが、祖母は力強く生きる孫娘を、実はかなり買っていたことを私は知っている。
祖母は、不器用な人なのだ。
我が家の信条「悪者になったとしても、利となるのであれば、成すべきことを為せ」を地でいく人なのだ。
祖母のその本心を知らなければ、私だって政治家になろうなどとは思わなかったに違いない。
蛇足になるが、姉が医者となって以降、私を含めた藤ノ宮家の関係者に対し、年に複数回の精密検査を強制的に受けさせるよう祖母に働きかけている。そのお陰もあって、健康上のトラブルも早期発見早期治療が可能になっている昨今だったりする。
それ故に今後も、祖母が姉に対して『命乞い』をする事態に陥ることは、おそらくないと思われる。
…
そんな昔の我が家の事情を思い出しながら、私は蝶子氏を先導するように歩き、甥っ子たちの待つ子供用控室へと向かう。
今から毎年恒例、久我山家方のみの写真撮影会が待っているのだ。
蝶子氏は美粧室で準備を整えたあとは、足取りも軽いようだ。孫との時間が何よりも楽しみなのだろう──今にも鼻歌を歌い出しそうな勢いである。
微かに甥っ子たちの声が聞こえてきたのか、蝶子氏は、その声にすぐに反応を見せる。
孫が可愛くてたまらないのだろう。
「イズちゃんとシノちゃんだわ。声までも可愛いなんて! あの子たちには、小さいうちから素敵なお嫁さん候補と縁を繋いでおいてあげないと。実はね、最近ちょっと気になる女の子を見つけちゃったのよ。ああ、心配しないでよ? イズちゃんとシノちゃんも、その子にご執心なんだから。修の時には失敗しちゃったから、今度こそ上手くやらないとね──あら? でも、結果としてアオちゃんが娘になってくれたのだから、実は大成功だったのかしらね?」
蝶子氏の言葉は途中から独り言に変わっていった。
蝶子氏が口にしていた、イズちゃんとは出。
シノちゃんは忍。
二人とも姉と修氏の子供で、双子の男の子だ。
「グランマ!」
キッズルームの中から、嬉しそうな甥っ子二人の声が届いた。
「あら? あそこにいるのって……噂をすれば何とやらね。ついているわ──早速、この機会に行動を開始しないと!」
蝶子氏はそう言って、ウフフと笑った。
彼女の視線の先には──真珠ちゃんと月ヶ瀬夫妻の姿があった。
余聞は全4話ではなく、全5話でした(汗







