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【真珠】純真と高潔の『b minor』


 スマートフォンの上を滑らせていた母の指の動きが止まる。


 ──検索が終了したのだろうか?


 小さな画面を見つめていた母の顔に視線を移すと、その双眸が大きく見開かれていた。

 けれど、それは一瞬のこと──次の瞬間、母の口角はゆっくりと上向いていったのだ。


「驚いたわ。まだ……あったのね。わたしが最後にバイオリンを弾いた、あのコンクールの動画──まさか……懐かしく思う日がくるなんて……それだけ長い年月が、流れたってことなのかしら」


 呟いた母が見せた柔らかな表情が、印象的だった。


 少しの時間、画面に見入っていた母が、そのスマートフォンを(おもむ)ろに後部座席へと向ける。

 それを受け取った兄が、訝しげに母の顔を見上げると、「ここよ」と口にした母が、画面のとある部分を指し示す。


 母が「見るように」と促したのは、小さな静止画像が集まる欄だった。


「わかるかしら? これが中学生の頃のわたし」


 その指先を辿ると、いくつも並んだサムネイルの中から、見知った顔をすぐに見つけ出すことができた。




 少女時代の母は淡いシャンパンゴールドのドレスに身を包み、オーケストラの前でバイオリンを構えていた。


 ──面影はある。


 でも、十数年以上昔の画像ということもあって、今よりもかなり幼い印象だ。


「穂高。真珠……今のわたしが何を言っても、言い訳になるだけ……だから──今はただ、あなた達二人に対して、行動で伝えることしかできないわ。

 二人とも、この動画の演奏を、本当に見てみたい?」


 母の問いかけに、わたしたち兄妹は即座に頷き「見たい」と伝える。



「わかったわ。じゃあスマートフォンは穂高に預けるわね。わたしは音を聴くだけになるけれど──誠一さん、それでもいいかしら?」


 静謐な眼差しを子供たちに向けたまま、母は父に確認をとった。


 父は「ああ、それでいい。その映像は、後で二人で見よう」と了承の言葉を口にする。


 両親の会話を聞いていた兄が気を利かせ、再生ボタンを押そうとした。

 けれど、何故かその動きを止めたのは母だった。


「待って! 穂高──止めてごめんなさい。でも、それを押すのは多分……わたしの役目なのよ」


 もう逃げることはないのだという、母なりの意思表示の意味もあったのだと思う。

 けれど、彼女の目を見ればわかる。


 一番の理由は、それではない。


 おそらく母は、過去と立ち向かうため、その第一歩を自らの意志で進めたかったのだ。

 封印されていた忌まわしい記憶を、母自身の手で解き放ち──克服するために。



 白い指先が、兄の持つスマートフォンの画面に向かっていく。兄とわたしは、その行動を静かに目で追った。




 そして──


 子供たち二人が見守るなか、母は迷いを見せることなく、再生ボタンをタップしたのだ。




         …



 微かな震えを伴った音の連なりが、オーケストラから生み出され、反復する。


 それはまるで、木々の葉擦れにも似た音色。

 もしかしたら、潮騒という喩えをする人もいるのかもしれない。


 母が奏でようとしているのは、『Violin Concerto No.3 in b minor Op.61』──フランスのシャルル・カミーユ・サン=サーンス作曲のバイオリン協奏曲第3番 ロ短調 61番だ。


 全三楽章から成るこの協奏曲は1880年に完成し、バイオリンの名手パブロ・デ・サラサーテの独奏で翌年発表されることになる。


 色彩豊かに情熱と浪漫を謳い上げた協奏曲3番は、たくさんの人々に愛され、今日(こんにち)でも多くの奏者の手によって演奏されつづけている。


 第一楽章は、アレグロ・ノン・トロッポ。

 四小節にわたる前奏の後に、バイオリンのソロが開始される。


 冒頭で弦が歌うのは、一度耳にしたら忘れることのできない、憂いと惑いを帯びた旋律だ。



 母の右腕がG線に向かい、弦の上に弓が置かれたかと思うと、今度は一気にダウンボウが走った。


 まるで観衆を殴りつけ、そのまま呑み込もうとするかのような音色だ。


 爆発するようなその初音を聴いただけで、全身がブワッと粟立ち、わたしは息を呑んだ。

 演奏開始直後から、たたみかけるように会場内の空気を掴みとりにきた母のその意気に、心が踊ったのだ。


 母の指先が生み出すのは、短調の昏さを秘めながらも、煌めくことを決して忘れない音の雫たち。


 厳つい雰囲気のテーマを二度響かせたあと、待ち受けるのは、息つく間もないトリプレットだ。

 群舞のように舞い上がるそれらは、高音域へと流れ込んでいく。


 『音の世界』に(いざな)う演奏のテクニックは、「見事」としか言いようがない。



 爪弾く調べは挑発的でありながらも、何処となく小気味良さを残し、何故か痛快感すらも感じる。


 意志を持った音色は、艷やかで華やか。

 その華麗さのなかに隠れているのは、重厚な調べ──


 流れるようなその旋律は、母の弓さばきによって息を吹き込まれ、呼応するように輝きを放っていった。




 兄もわたしも、だた静かに、母の爪弾く音に耳を澄ませた。

 運転中の父は前を向いたまま、無言でスピーカーに耳を傾けている。


 この演奏を聴くだけで、この少女が奏者として開花する日を心待ちにしてしまう。そんな若木を愛でるような初々しい音色が、止むことなく画面から飛び出しつづけた。



 鮮烈な魅力に満たされた演奏はあまりにも衝撃的で、兄もわたしも揃って魅せられたまま、何も言葉が出てこない。


 ── 一音たりと、聴き洩らしたくはない。

 研ぎ澄まされた聴覚が、奏者の呼吸さえも拾っていく。



 熱い息吹に染まりながらも、清々しさを併せ持つ演奏には、奏でることへの幸福感が見え隠れする。


 子供のように無邪気でありながら、気品を損なわない調べが、冷厳と情熱の狭間で揺れた。


 魅惑の旋律だ──これが、月ヶ瀬美沙子が創り上げる『音の世界』なのかと、心が感動に打ち震える。



 透明感あふれる音色からは、母が音楽に向けた純粋な愛情が(ほとばし)っていた。


 伸びやかでありながらも、繊細さを失わず。

 聴くものに安心感を与える調和の律動に、わたしの心は先ほどからずっと捕えられたままだ。


 だが、虜になっていたのは、母が奏でるその音色に対してだけではない。


 母の爪先、果ては髪の先端に及ぶすべてに、月ヶ瀬美沙子しか持ち得ない、天性の高潔さが醸し出されているのだ。


  一言で表すのならば──典雅。


 それは、母の生まれ持った魂によるものか?

 それとも、音楽への愛から芽生えたものなのか?


 わたしは母の一挙手一投足に注視する。


 指の動き。

 弓使い。

 所作に至るまでのすべてが──美しかった。


 母の身体全体から届くのは、媚びることのない闊達さ。

 だが、それだけではなく、奥ゆかしさも存在しているのだから不思議だ。


 その妙なる調和に、わたしの目耳は自由を奪われた。



 この音を聴けば、否が応でも理解できる。


 母は過去。音楽を──奏でる音のすべてを、全身全霊で楽しみ、愛していたのだ。



 ここまで独創的で飛び抜けた『音の世界』に、月ヶ瀬美沙子は生きていた。

 その事実を知った心が、今度は別の意味でブルリと震える。


 あまりに深い愛は時として、人を、事象を、狂わせてしまうものなのかもしれないと、気づいたからだ。


 音を愛していたからこそ、その音楽によって大切な友人を失った現実が、母の心に大きな影を落とし、深く傷つけてたのだとしたら──


 その愛が純粋であればあるほど、『音の世界』を穢された反動は大きいのではないか?


 二心なく音楽を、友を、信じ、愛したからこそ、母は音を捨てる方向に進んでしまったのかもしれない。


 白か黒か──究極の選択肢しか母の中には存在せず、グレーという中庸な未来すら思いつかなかったのだとしたら?


 二人の子供の母親となった現在でさえ、少女のような態度を見せる母だ。

 我が儘と捉えられることもあるけれど、自分の心に素直なだけ。


 少女時代の母なら、尚のこと──


 音と向き合う心が高潔であればあるほどに、一点の瑕瑾すらも許せなくなる。


 その曇りなき想いは、あまりにも無垢で、少しの汚点すらも見逃すことができなかったのだ。



 純真過ぎたのだ。

 音楽への愛が──


 繊細過ぎたのだ。

 その心が──



 だからこそ、葵衣との衝突が母の心を引き裂き、再起不能になるまで叩きのめすという最悪の事態を迎えてしまったのかもしれない。



 ──悔しい。


 この音色が今では完全に失われてしまった事実が。

 例えようもなく悔しかった。


 当時の母が望んだのなら、更に高みにある『音の世界』に駆け上がっていけたはずなのに。



 母親達が大人になった今でもそれぞれが引きずり、抜け出せずに苦しんでいたのは──月ヶ瀬美沙子の、この音色があったから。



 「美沙子は、『音の世界』を捨てたんだ」



 以前、紅子が語った科白が、何度も何度も頭のなかで繰り返される。

 

  紅子の無念と孤独。

  葵衣の後悔と懺悔。


 それらの行き場のない思いのすべてが、わたしの胸中で渦を巻く。



 母が紡ぐのは、恐ろしいほど清らかに磨かれたバイオリンへの想い。



 過去のわたしは……伊佐子は、ここまで純粋に、音を愛することができていたのだろうか?


 バイオリンを愛していた。それは揺るぎない思いだ。

 けれど、愛だけでは語れない、打算だって少しはあった。


 思えば、そんな泥臭さがあったからこそ、何があっても果敢に挑むことができたのかもしれない。


 時には友と闘い、勝ち取った栄光だってある。

 逆もまた、然り──




 少女時代の母が、盲目的に音楽に傾倒していた危うさを思い、わたしはこの身を掻き抱く。


 我を忘れてのめり込み、愛した先に待ち受けていたのが、すべてを失うという──こんなにも過酷な運命なのだとしたら──愛とは、かくも恐ろしい。



 母が奏でる協奏曲は、その高潔なバイオリンへの愛を映し出すように澄み渡っていく。



 この演奏の先に、『音の世界』との決別が待っているなんて、この時の母は知る由もない。


 奏でる喜びを噛み締めながら、バイオリンを歌わせる彼女の姿は幸せそのもので──その心には、希望の灯火が掲げられていたはずなのに。




 画面のなかの『月ヶ瀬美沙子』と、わたしの中の『椎葉伊佐子』が重なった。


  幸福の絶頂。

  ──その後の失墜。


 幸せな時間が一瞬にして奪われる未来が訪れるなど、誰一人として知らなかったのだ。母も、伊佐子も。


 『無題ーFor Isakoー』を弾いていたあの頃。

 もしかしたらわたしは、この少女時代の母と同じように、恍惚たる表情で楽器に触れていたのだろうか?



 感情が入り乱れ、暗雲が立ち込める心模様。

 それを見透かすのは、バイオリンの音色。


 この演奏の後、母が迎えた結末を知るわたしは、顔を背けたい衝動に駆られた。

 けれど、母の辿った過去は変えようがなく、目を逸らすことのできない現実だ。



 協奏曲は加速し、苛まれた心は音域の中を只管(ひたすら)逃げ惑う。



 この胸中の複雑さに反し、少女が生み出す音色は喜色満面だ。



 最終小節。

 のぼりつめた旋律が到達した境地は、嘆きか、はたまた喜びか。



 少なくとも映像のなかの母は、自らの演奏に手応えを覚え、その(かんばせ)には──歓喜の色を滲ませていた。




Saint Saëns

Violin Concerto No.3 in b minor Op.61


https://youtu.be/DPlUmt3WdgA

Nathan Milstein氏の演奏


https://youtu.be/DZxwiABbock

Joshua Bell氏&オーケストラとの演奏動画


https://youtu.be/WatWfbHG468

Itzhak Perlman氏の演奏


■出→愛花→真珠→忍(ミニキャラ風)■

久我山兄弟のちびっ子絵だけがなかったので

ミニキャラ風ですが描いてみました。

挿絵(By みてみん)


 ***


素敵な感想をたくさん頂戴しました。

本当にありがとうございます!

紹介させていただいた曲を聴いていただけたこと、感謝申し上げます。

選曲を耳にされた皆様がどう感じているのか気になっていたこともあって、嬉しさも倍増でした。

(後日になりますが少しだけ返信させてください♡)


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