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【真珠】涙声

「酷いことを言っていると思うか? だけど、今まで目を背けていた過去に立ち向かうのなら、冷静にその問題を見つめ直したほうがいい。一度原点に還るのも、克服する上で必要なことだと思うんだ。逃げずに向き合う……それは、今だと思わないか?

 勿論、美沙子ひとりで対峙させはしない。俺も一緒だ」


 返答を躊躇(ためら)っているのか、母は運転中の父の横顔を見つめている。

 車内には張り詰めた空気が漂い、まるで一本の綱の上を歩いている気分になった。


 母は父を凝視したまま沈黙を保ち、微動だにしない。

 ──このまま無為に時間が経過していくのだろうか?

 そんな予感もした。


 けれど、その停滞する空気を切り裂くように、兄の冷たい声が車内に響いたのだ。



「──『逃げるの?』。美沙子さんは、あのコンクールの会場で、真珠にそう言いましたよね。『逃げるのは、さぞ楽でしょうね』って……小さな真珠を、あの時、たったひとりで戦わせておきながら、美沙子さんは今──逃げるんですか? 大人なのに? 独りではなく、お父さんも一緒に向き合おうとしてくれているのに?」



 今まで寝ているものとばかり思っていた兄。だが、両親の話をこっそり聞いていた事実が、その科白から読み取れた。


 兄は母に有無を言わせることなく、更に厳しい言葉を投げつける。


「あの日、真珠は……美沙子さんに初めて演奏を聴いてもらえるって、あんなに……あんなに喜んでいたのに! 僕だって……っ」


 そこで言葉を詰まらせた兄の口から、息を吸う音が届いた。


 わたしは寝たふりをやめて、瞼を開く。

 優しいあの兄が、声を震わせながら母を(なじ)る様子が信じられず、悠長に目を閉じてなどいられなかった。


「美沙子さんは、あの時──『頭が痛い』と言った真珠に、なんて言ったのか覚えていないんですか? 優しい言葉ひとつ、かけることもなく突き放したんですよっ あのとき『逃げるの?』と言ったその口で……自分だけは、逃げることが許されると──そう言えるんですか!?」


 その声は明確な非難に変わり、兄はますます激高していく。


「傷ついていたのは、美沙子さんだけじゃないっ あなたはずっと、真珠を……僕を避けることで、苦しめ続けてきたんだ。あなたが過去から逃げ続けた結果──真珠は……っ 僕たちは──こんなにも、さびしい思いをしてきたんですよ!? なにがトラウマですかっ そんな昔のこと……っ 甘ったれるのもいい加減にしてください! 僕たちはずっとずっと……この辛さに負けまいと、必死になって闘ってきたんだ!」


 母を責め続ける兄の声は、既に涙声に変わっている。


「──今、あなたが、それに立ち向かうことなく、逃げる選択をとるというのなら……美沙子さん、僕は──あなたを……心から──軽蔑します」


 彼の両目から湧き出した雫が目頭に溜まり、じわじわと盛りあがっていく。

 その涙が溢れ出ないよう、兄が必死で堪える様子が伝わった。




 まるで、悲痛な叫びだ。


 「軽蔑する」と口にしたその裏側で、兄は母の愛を痛切に求めている──そんな気がした。


 兄だって、母が恋しくて──ずっとずっと……求めていたのだ。


 抱きしめてほしいと。

 自分を見てほしいと。

 笑いかけてほしいと。


 彼も、『真珠』と同じく拒絶されるのが怖くて、本心を言いたくても──言えなかっただけ。

 母親から突き放される恐怖から、心に蓋をしていただけなのだ。


 それでも兄は、いつも笑顔を絶やさなかった。

 だから、真珠(わたし)は彼が満たされているものだと、完全に誤解していた。


 ──母から必要とされていない子供はわたしだけなのかもしれない。

 優しく笑う兄は、きっと影で、母から可愛がってもらっているのだと──そう疑っていたことすらあった。


 でも、今やっと、彼もわたしと同じ悲しみを、その心に宿していた事実を知った。


 天使のような笑顔を仮面にして、あの昏く悲しい闇を、兄も心に飼っていたなんて。

 ──思いもよらなかった。




 兄の声からは、様々な感情が滲んでいる。


  さみしい。

  哀しい。

  苦しい。


 ──でも、恋しい!



 その想いを認めたら、崩れてしまう。


 我慢できずに、母を求めてしまう。


 振り払われると分かっていても、抱きしめてほしいと、手を伸ばしてしまうのだ。



 兄は今、母に隠し続けてきた本当の気持ちを伝えている。感情を爆発させ、反発しながらも、それと同時に──そんな自分であっても、母に受け入れてもらえることを望んでいるのだ。


 こんなにも母の愛を求める兄の本心を、母に誤解してほしくない。そのまま額面通りの言葉として、受け取ってほしい訳がない。


 だからわたしは、祈った。

 兄が紡いだ言葉の裏にある真実に、母が気づいてくれますように──と。



 兄は今おそらく、自分自身とも戦っている。

 これまで蓋をしつづけた想いを、母にぶつけ──こんな自分であっても、許してもらえるのだろうか? と確認するため、意を決しての賭けに出ているのかもしれない。



 兄が勇気を出して従順さを捨て、歯向かう選択をしたように──

 母にも、辛い過去と向き合う選択をして欲しかった。



 その思いは、わたしの喉から自然とこぼれ落ち、はっきりとした言葉に変わった。


「お母さま。わたしも……聴きたいです。お母さまの演奏を……」


 娘の震える声が、母の耳に届いたのだろう。

 母はその視線を、兄からわたしへと移した。


 彼女の両目には、兄と同じく透明な涙が溜まっている。


  『誤飲の心配もあるでしょう?』

  『確か……ミートソースだったかしら?』


 母の語った言葉が、耳の奥でこだまする。


 母親役を放棄しつづけていたとしても……それでも、完全に子供たちを突き放していたわけでは無いことは伝わっている。



 完全に、冷徹さを貫いていたのなら、誤飲の心配なんてしない。

 兄の好物だって、即座に答えることはできないはずだ。



 母は陰ながら、子供たちをそっと見守っていたのだ。


 わたしも兄も幼な過ぎて、その小さな気遣いに気づけなかっただけ。


 それはわたしが母の子供であるが故に願う、この心が望んだ()()()()の──理想の母の姿なのだろうか?


 いや──そうではないと信じたい。



 子供の頃、幼い貴志に見せていた優しさがあるのなら、少しでもこちらに寄り添って──兄の裏腹な心の叫びに気づいてほしい。

 そして、過去から逃げずに、前を向いてほしい。




 母の長い睫毛が伏せられた。

 その頬を、幾筋もの涙が伝う。


「今も……残っているのかしら? 十年以上も前の動画……わたしが中学三年生の時の、弦楽コンクール本選の映像──」


 涙声でありながらも、母は毅然として見えた。

 自分が子供たちに対して酷いことをしてきた自覚があるのだろう。だから、そのすべての罪を受けいれる覚悟が、そうさせているのかもしれない。



 零れる涙を拭ったその指で、母がスマートフォンの画面に触れた。



次話

 【真珠】純真と高潔の『b minor』

を予定しておりします。



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