【真珠】盗み聞き
「あの話は今まで……誰にも話したことはなかったの──紅子は葵衣とも仲が良かったし、お父さまと藤ノ宮先生は昔からのご友人──だから、わたしと葵衣のイザコザに、巻き込みたくなかったのよ……」
「中学生の頃か──俺も……何か問題が起きたとしても、齋賀の人間に話すことはなかったな。美沙子とは違って、自分の弱味を握られたくなかっただけ……そんなくだらない理由だったが」
父は、母と二人きりになると口調が変わるのだろうか。普段、自分のことを『パパ』や『私』と呼び、穏やかに語る様子とは違って、どことなく粗野な雰囲気が見てとれる。
もしかしたら、実家の話をするのが嫌で、そういった態度になってしまうのだろうか。
父の実家・齋賀家の家庭事情はかなり特殊なので、毛嫌いする理由は山ほどあるだろうし、正直に言うと、わたし自身もあそこの家族形態については生理的に受け付けない。
安息の場所であるはずの自宅にいても周囲は敵だらけという環境は、誰にとっても苦痛以外の何ものでもない。
そんな過酷な環境で子供時代を過ごした父の苦労は、想像を絶するものがある。優吾が成長過程で捻くれてしまったのも頷け、ちょっぴり同情の余地がある気もした。
いやいや、そんなことよりも──わたしは美沙子ママと葵衣のトラブルの原因に少しでも触れたい。
だから脱線せずに、その理由について情報を得たかった。
母が前方を見つめたまま、溜め息を落とす。
「──信じていたものから裏切られるのは嫌。それを確かめて、傷つくのはもっと……怖い。だから……」
言葉を詰まらせた母の科白を、父が継ぐ。
「だから──俺が浮気をしているのかと疑いつづけたまま、五年以上もすれ違った……と、そういうことか?」
母は静かに首肯する。
「美沙子が勘違いをしていた話を聞いたときは、なぜその場で直ぐに声をかけて確かめてくれなかったのかと思っていたよ。でも、今日やっと、子供の頃のトラウマが原因だったと、理解できた」
父がサイドミラーとバックミラーを確認し、ウィンカーを点灯させる。
盗み聞きしていることを悟られたくなかったわたしは、開いていた瞼を薄く閉じた。
「ごめんなさい……誠一さん。あなたを問い詰めて、もしも事実だと言われたら……二度と立ち直れない気がして──怖くて質問することさえできなかった。蓋を開けてはいけない真実が世の中にはあるって……騙されたままでいる方がマシなこともあるんだって、葵衣との一件で知ったから──何でも知りたいなんて……傲慢でしかないのにね。あの頃は、子どもだったのよ──わたしも……、きっと……葵衣も……」
美沙子ママの言っている意味は何となくわかるが、それがどうトラウマに繋がっているのか、わたしには全くわからない。
肝心な部分を知りたい。
克己氏と誠一パパに話した内容を、もう一度母の口から語ってほしいのに、両親にとっては既知の内容なので込み入ったことまでは口にしてくれない。
自分の思い通りにコトが運ぶとは限らないのは、世の常なのだろう。
葵衣とのトラブルの話に辿り着けないまま、その後、両親は話題の転換をしてしまうのだ。
「子どもだった……か──」
呟いた誠一パパが次の瞬間、何かを思い出したように「そうだ!」と、急に声色を変えた。
「美沙子──そうだった! 子ども、だ! 話の途中で済まないが、到着するまでに確認しておきたいことがあったんだ。しぃちゃんの──コンクール動画を鑑賞する前に、克己が言っていた『天球』での演奏を聴いておきたい。悪いが、その時の音源を探して、流してもらえるか? 先入観を持ちたくないから、まずは耳で……音だけで、判断したい」
父の言葉を受けた美沙子ママは、バッグの中からスマートフォンを取り出した。
「わたしのこの件での話は終わりだから、気にしないで──分かったわ。『クラシックの夕べ』の演奏……紅子が送ってくれたリンクがあったはずだから、ちょっと待っていて……ええっと……ああ、あった。これよ」
『天球』が公開している『クラシックの夕べ』の動画リンクを探し当てた母は、そのまま再生ボタンに触れた。
母のデバイスとカーステレオは連携されていたようで、車内のスピーカーを伝って、わたしと晴夏が奏でた『Bach Double』が流れはじめる。
演奏が開始されると両親は一言も喋らず、ただ静かに、協奏曲の響きに耳を傾けるだけだ。
映像を目にしなければ、子どもの──未就学児の演奏とは思えない出来だろう。
それは、ふたつの旋律が一対のタペストリーを織り上げるように絡みあう──厳粛ありながらも──情熱的な調べ。
迷いのない音色は半音たりとずれることもなく、先へ先へと小節を進んでいく。
晴夏との演奏を聴いたわたしは、ホウと安堵の息を吐いた。
──助かった。
心底そう思った。
音楽の神の申し子・晴夏との二重奏でよかった。
彼の突出した演奏技術に、かなり救われたのは間違いない。
もしも、わたしの演奏と比較する対象が晴夏の音でなかったら──その異様さは、更に際立っていたはずだ。
「なるほど……映像を見なければ、幼い子どもが弾いているとは思えない演奏だ。俺が真珠の演奏をまともに聴いたのは一年近く前の発表会だったが……一年でこんなに成長するものなのか──子どもって、すごいな」
動画の演奏終了後、父は克己氏の語った内容に得心がいったのか、何度も頷いて感心している。
母も、父の言葉に相槌を打った。
「真珠は……いつの間に、こんなに弾けるようになっていたのかしら。紅子から、この動画のリンクが送られてきたとき、わたしも本当に驚いたのよ。誰かと一緒に合わせて弾くのって本当に難しいことだし、ここまで完璧な演奏は大人だってなかなか出来ないわ」
わたしはそこで、呼吸を止めた。
嗚呼──そう……だった……。
わたしは両親に──特に母に、あの演奏を聴かれることを恐れていた。
けれど、その恐れ自体が、完全なる取り越し苦労だったと──今更ながら、気づいてしまったのだ。
怖いと思ったのは、以前の演奏との差を知られ、その後に待ち受ける母からの反応だった。
──もしも気味悪がられて、疎まれでもしたら……?
そう思うだけで、不安が心を支配した。
けれど、心配すること自体が無駄だった。
だって──母が、わたしの演奏をまともに聴いたのは、あのコンペティションが初めてのことだったのだから。
毎週のレッスンでの送迎担当は、母ではなく祖母だった。
年に一度の発表会でさえも──母は、娘の晴れ舞台に興味を示さず、鑑賞に訪れることもなかった。
あの日、わたしと兄の引率を、母が了承するに至るまでの間で、祖母と母は揉めに揉めていたのだ。
コンペティション前日の晩──審査員情報を目に留めた祖母が、美沙子ママに付き添いを任せたのが、そもそもの始まりだ。
詳しいことは覚えていないけれど、確か「久し振りに挨拶をしていらっしゃい」と祖母は言っていた気がする。
わたしは二人の会話を耳にして、誰に「こんにちは」をするのかな? と疑問に思ったくらいだった。
今ならば、あのやりとりは──母の恩師である早乙女功雄教授に、久々に顔を見せて来なさい、という意味だったとわかる。
母は「コンクール会場になんて絶対に行かない」と渋っていたけれど、最終的に不承不承ではあるけれど引率を引き受けてくれたのだ。
母がわたしの過去の演奏を知らない事実に対して、複雑な感情が生まれた。
悲しいのか、ホッとしているのか、判別すらつかない。
本当に母は、わたしの演奏を知らないのだろうか?
そんな疑問から、自分の記憶を整理する。
発表会後に配布される演奏動画DVDも、母には観せていない。
なぜなら──わたしが自室にしまい込んでしまったから。
母に観てほしいとお願いするだけなら、多分可能だった。
けれど、もしも、受け取ってもらえなかったら? そう思うと、直接手渡す勇気が出なかった。
「いらないわ」と、拒絶されるのは、自分を完全に否定されるようで怖かったから。
では、自宅での練習は?
練習場所は、音楽ルームだ。
防音壁に囲まれた造りなので、音が洩れることはない。
そもそも広い屋敷なので、扉を開け放っていない限り、家族がわたしの練習する音を聴くこともなかったはず。
伊佐子と真珠が混じり合ったあと──退院してからは大事を取って、自室での練習に切り替えた。けれど、手首の腱鞘炎が原因で、音階しか弾いていない。
そこから導き出された結論は──母はわたしの過去の演奏を、まともに聴いたことがない──だった。
『真珠』はあの日、母が演奏を聴きに来てくれることを知り、とても喜んでいた。
演奏した後「頑張ったわね」と、兄と一緒に褒めてもらえるのではないかと期待もした。
だから、頭の痛みを押して、あの舞台に上に立ったのだ。
賞よりも、何よりも、ただ──美沙子ママに、聴いてもらいたかったから。
わたしと兄が練習した曲を、大好きな母に捧げたくて──心を込めて弾こうと、思っていたのだ。
けれど、その願いは叶わなかった。
わたしがあの場で演奏したのは、現在両親の間で問題になっている『無題ーFor Isakoー』だった。
『真珠』にも兄にも、大変申し訳ないことをしてしまった。
──穂高兄さまだって、わたしのために、難しい伴奏を頑張ってくれたのに……。
彼の努力の成果を発表する機会も場所も、すべて『伊佐子』が奪ってしまったのだ。
そんな記憶を思い出し、嘆息しかけたところ──
父が突然母に向けて、思いもよらぬ『お願い』を口にした。
「なあ、美沙子。克己が言っていただろう? しぃちゃんの演奏は、子ども時代の君をも凌ぐ演奏だって──美沙子が過去に立ち向かうと決めたのなら、その原因となった演奏を── 一緒に……聴いてみないか?」
父の提案に、母の両目が大きく見開かれ──その呼気が、車内の空気を震わせた。







