【真珠】『真珠』と『伊佐子』と貴志について 中編
本日、2話目の更新です。(昨日を含めると3話目になります)
貴志はわたしたちから少し離れた廊下を、こちらに向かって歩いていた。
美沙子ママの斜め後ろにいるので、残念ながらこの位置から、彼の顔を見ることはできない。
だが、相変わらず不機嫌な様子だけは伝わってくる。
本来の貴志は、年齢の割に気遣いのできる人間だ。
それなのに、自分の苛立ちを隠そうともしない態度から、彼が美沙子ママに心を許し、弟としての甘えがあることがうかがえた。
何故そう思ったのかというと、アルサラームのロイヤル兄弟と出会ったばかりの頃の貴志と、現在の彼の様子を比較すると、自ずと導き出せる結論だった。
エルの嫌味が炸裂し、二人の間に険悪な雰囲気が流れたこともあったが、あの時の貴志はここまで無愛想ではなかった。まあ、ちょっとばかり慇懃無礼ではあったけれど。
あの貴志でも、美沙子ママには、弟として甘えることがあるのか──と新鮮な気分になる。
多分、本人は無意識なので、甘えていることにも気づいていなのだろう。
二人の姿を観察していたところ、母が突然口元を抑えた。
その足元がふらついたのか、上半身を腰から倒し、全身でくの字を描く。
倒れるのか!?──と驚いたわたしは声を出すこともできず、身体を硬くするだけだった。
だが、その一瞬の隙に、貴志の手が母に伸び、彼女の腕を咄嗟に掴んだようだ。
転倒するのかもしれないと焦ったけれど、貴志のおかげで事なきを得たことにホッとする。
困惑した貴志が、前を歩く父を呼び寄せようとしたのか、ツイと顔を上げた。
けれど、その行動を制止したのは美沙子ママだった。
「大袈裟にしないで。いつもの悪阻よ……今のは軽いほうだから大丈夫。支えもいらないわ……吐き気で、ちょっとしゃがみかけただけだから」
そんな内容を、小さな声で貴志に伝えている。
母の意向に従って腕を離したものの、その眉間には皺が刻まれる。
彼は溜め息を洩らしながら、母のすぐ隣に移動すると、そのまま無言で歩き始めた。
万が一を想定しての行動なのだろう。もしも母が倒れそうになった場合、即座に対応するために立ち位置を変えたのだと、その動きから伝わった。
貴志が自分の隣に移動した理由を察した母が、躊躇いがちに口を開く。
「気を遣ってくれて……ありがとう。それから……昨夜のことは、本当にごめんなさい」
貴志は仏頂面のまま、「今はもう話さなくていい」と素気ない返事をする。
約束を反故にされたことは、貴志だって思うところがあるはず。それでも、それとこれとは別問題だと割り切り、姉弟喧嘩は一時休戦という選択に切り替えたようだ。
だが、貴志のぶっきらぼうな物言いに、美沙子ママは悲しそうに眉尻を下げた。
依頼されたことを完遂できなかった負い目もあって、貴志の言葉を「これ以上話をしたくない」という拒絶と受け取ってしまったのだろう。
母のその様子から、自分が言葉足らずだったことに気づいたのか、貴志がフォローを入れる。
「……違う。美沙には、もう怒っていない。妊娠中の体調の変化が、こんなに酷いなんて知らなかったんだ。今は……俺の落ち度だと理解もしている。身体に障るといけないから……そんなに何度も謝らなくていい」
母に対して、怒っていたのは先ほどまで。
今は、その怒りを凌ぐほどに、身重の姉の体調を心配しているのだ。
二人の様子から、長年にわたって仲の良い姉弟関係を築いてきたことがわかり、微笑ましくなる。
そう言えば、月ヶ瀬を出奔してから現在に至るまでの数年もの間、彼らは継続して互いの近況を報告しあっていたのだ。
姉は弟を思い、弟も姉を心配し──本当の姉弟ではなかったけれど、お互いを大切に想っていることには変わりない。
まあ、それが誠一パパの誤解を招いてしまったのだが、今となってはもう、過去の笑い話にしてもいいような気がする。
子供の頃の彼らは、どんな姉弟だったのだろう?
幼い貴志が、美沙子ママの後ろをピョコピョコと嬉しそうについて回る図が、脳裏に思い浮かんだ。
子供時代の二人の姿を想像した途端、夢のなかで出会ったタックンの幻影が貴志に重なった。
タックンの言動を思い出すだけで、自然と頬が緩んでしまう。わたしでさえ、幼いタックンをこんなに可愛いと感じているのだから、美沙子ママは間違いなく、ちびっ子貴志を猫可愛がりしていたはずだ。
甲斐甲斐しく弟の世話を焼く美沙子ママに、幼い頃の貴志はべったり甘えていたのかもしれない。
それは先ほど見せた彼の態度からも、何となく想像できた。
結局、貴志はどんなに不服に思っていたとしても、姉である美沙子ママの体調を心配し、守らなければいけないと思って行動できる人間なのだ。
そう言えば、あの夢のなかでもタックンは『ミサミサ姫』を守ろうと頑張っていたことを思い出す。
自分が窮地に立たされている状況でも、感情を抑制し、優先すべきことは何かと──常に冷静に判断する姿勢は、尊敬に値する。
不器用なところがあるから身内にも誤解されやすいけれど、彼の軸となる根幹の部分はとても優しい人だ。
──初めて恋した人が、貴志でよかった。
その考えに同調するように、『真珠』の感情が再びキラキラと輝いた。
貴志を好きなのは『真珠』も一緒だ。
だから、わたしの中には彼に対する多様な『好き』が詰まっている。
『真珠』は、貴志から大切に扱ってもらえる自分を誇らしく感じ、彼から尊重される自分には「もしかしたら、少しは価値があるのかもしれない?」と思いはじめている。
貴志と過ごすことで、『真珠』の心は、少しずつ前を向くようになった。
彼から与えられる慈愛は、昏い闇さえも包み込む、大きな『光』だ。
『真珠』にとって貴志の存在は、『希望』そのものなのだ。







