【真珠】『真珠』と『伊佐子』と貴志について 前編
2日連続の更新です。(昨日、1話更新済み)
それは、今まで感じたことがないほどの、劇的な感情の変化だった。
誠一パパの言葉だけで、わたしの心は、こんなにも簡単に塗り替えられてしまうのかと驚きを禁じ得ない。
危機感を覚え、焦りを見せたのは『伊佐子』。
けれど、その『伊佐子』の動揺をよそに、花やいだ『真珠』の気持ちはおさまることを知らない。
唐突に分かたれた、ふたつの心がせめぎ合い、言いようのない混乱が頭のなかで渦を巻く。
入り乱れた心をどう制御したらいいのか、解決方法が何も思い浮かばない。
感情の漣に押され、己れの未熟さを痛感する一方で、他方は嬉しさの洪水に襲われる。
かなり混沌な心模様だ。
今まで、こんなにも『真珠』の感情のみが、突出したことはあっただろうか?
先ほどから何度も記憶をさらい、自問自答を繰り返してみたものの、辿り着く答えは毎回変わらない。
父の言動で、『真珠』がここまでの喜びを感じたのは、今回が初めてのことだ。
ああ、でも予兆はあった。
この急激な昂りの原因──
それは──『真珠』の情緒が発達していることを、意味するのではないか?
今になって思えば、その片鱗は、折に触れてあったような気がする。
…
真珠のなかで目覚めた当初、流れ込んできたのは──闇色の記憶。
目の前に突然広がったのは、自分を嫌う──自己嫌悪の塊が敷き詰められた、歪な世界だった。
誰も彼も、自分の淋しさを理解してくれなかった。
理解してもらえない苦しさは、苛立ちに変わった。
苛立ちは荒ぶる刃となって、誰彼構わずぶつけることで解消していた──そんな情けない過去を持つわたし。
それは虚しくて、悲しくて、苦しくて。
自分を嫌いになることに、ますます拍車をかけた。
人の心を傷つけると、自分もそれ以上の痛みで切り裂かれ、目には見えない血を流すものなのだと、気づいたのは……いつのことだったか?
だから──『伊佐子』の記憶が流れ込んできたとき、『真珠』は救われたと思った。
これでやっと、汚くて醜い心のわたしは、消えることができる。
もう、誰も傷つけなくて済むのだ。
──嬉しくて、とてもホッとした。
早く、早く、完全に無くなってしまえ!
──自分が消える世界を、希求した。
記憶の奔流による激しい頭痛に苛まれるなかで、わたしが受けた一番の衝撃は──『真珠』の心の闇だった。
『真珠』の心のどこを探しても、未来への希望は見当たらない。
あまつさえ、消滅願望を目の当たりにした時は、これが幼子の望むことなのかと絶句し、涙が止まらなかった。
でも、現在はどうだろう?
はじめこそ、表に出ることを拒んでいた『真珠』だが、『伊佐子』に同調したり共感したりするうちに、癇癪以外にも少しずつその感情を表現するようになっていたのではないか?
人と関わることで。
素直に喜ぶことで。
愛情に触れることで。
その心を、美しく輝かせるようになってはいなかったか?
月ヶ瀬家のキッチンで──母に手を伸ばし、抱きしめてもらったとき。
克己氏との会話で──父の行動に、心からの感謝を向けたとき。
『真珠』の心は、間違いなく嬉しさに色づき、輝いていた。
変化の兆しは、日常のそこかしこで芽吹いていたのだ。
この数週間で、『真珠』は『伊佐子』と共に、多くの人と出会い、初めての経験をたくさん重ねてきたのだから。
兄と仲良くなれたこと。
家族旅行に行ったこと。
晴夏と言葉を交わせたこと。
二重奏を楽しく演奏できたこと。
ラシードと共に泣いたこと。
『祝福』による自然の奇跡に触れたこと。
出に「会えてよかった」と言ってもらえたこと。
忍に好意を向けられ、演奏の約束をしたこと。
そして──貴志を好きになったこと。
恋する苦しさと共に、温かな幸せを感じたこと。
数々の出来事を糧にして、『真珠』の心は、目まぐるしい成長を遂げていたのだ。
考えてみれば、大人の『伊佐子』が多少なりとも恋愛偏差値を上げているのだから、子供の『真珠』は更に多くの経験値を積み上げ、成長していたとしても何らおかしくはない。
…
その事実を嬉しく思うのと同時に、息苦しさを感じてしまうのは──ちぐはぐな感情が、同時に心のなかでぶつかり合っているからだ。
相反する思いが、心のなかに在るだけなら、まだいい。
けれど意図せず、互いを侵食している状況は、なかなかキツイものがあった。
焦るけれど──嬉しくて。
不安だけれど──幸せで。
嗚呼、待って!
……これはどちらの気持ち?
わたしはもう『伊佐子』ではない──真珠だ。
でも、『真珠』とわたしは──似て非なるもの。
自分の感情の根幹が、どこに属しているのかわからなくなり、急に怖くなったわたしは、父の身体にぎゅうっとしがみついた。
先ほどまで、嬉しさにどっぷりと浸かっていた『真珠』の部分も、今は苦しいと訴えている。
自分はすっかり大人のつもりでいたけれど、本来の核となる部分は子供の『真珠』だ。
身体だけでなく、精神を司る部分だって──大半が、成長途中の段階。
体力も『伊佐子時代』とは異なり、活動限界と言う名の寝落ちが得意技。
どうしよう。
このままでは、本当にまずいかもしれない。
心は制御不能の一歩手前だ。
胸の中心に向けて、キリキリとした痛みが迫り上がる。
上下の瞼に集まった熱が、今にも涙腺の主導権を握ろうとしているのだ。
朝から何度となく訪れた感情の起伏に踊らされ、耐えきれなくなった心が限界値を突破するのも時間の問題。
今までの自分の許容量から押し測ってみても、今日はよく耐えている方だと思う。
でも、まだ取り乱すわけにはいかない。
父との会話を続けるためには、なんとか気持ちをひとつに戻さなければ。
心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
一刻も早く、冷静さを呼び戻さなければと、わたしは必死になって助けを求めた。
『真珠』と『伊佐子』が同時に手を伸ばしたのは
──貴志!──
『わたし』という存在を理解してくれる、かけがえのない人。
意識のベクトルが貴志に向かって進み、加速しながらも集約していくのを感じた。
バラバラだった感情が、貴志唯ひとりを求めたことで融け合い、折り重なるようにして、いつもの『わたし』に戻っていく。
彼を思い描くだけで、安心感を覚え、張り詰めていた心が解きほぐされる。
『真珠』と『伊佐子』が手を取り合ったかのように、心地良い一体感に包まれる。
感情が均衡を取りもどしたことで、心を占拠していた混乱も、緩やかに鎮まる様子を見せた。
『伊佐子』にとっても──『真珠』にとっても、貴志の存在は、心の安定剤の役割も兼ねているのだろう。
──助かった。
ひとつに還ることができた。
そう安堵したわたしは、父に抱きついたままの体勢で、貴志の姿を探した。







