【真珠】「働け!」脳細胞
いま、兄は何と言ったのだ!?
けっこん?
え?
……血……痕?
いやいや、「血痕相手」じゃ、いくらなんでも字面が物騒過ぎるし、文脈的に言っても何かがおかしいだろう。
ということは、やはり──結婚!?
クラクラする展開に頭を抱えたくなるが、なんとか自制し踏みとどまる。
ここで取り乱してしまったら、兄から正確な情報を得られない。
気持ちを落ち着けるために、まずは深呼吸だ!
吸っては吐くを幾度となく繰り返し、少し冷静になったところで、兄に向き直って確認をとる。
そもそも──
「──あちら様がわたしを気に入ったと、お兄さまはおっしゃいましたが、あの短時間でそんな要素……いったいどこにあったのですか? 話が飛躍しすぎて、ついていけません」
わたしと久我山夫人は、今日がまったくの初対面だ。
いくら孫とわたしが仲良く遊んでいたからと言って、そんな突然の提案はありえない。
なせならば、久我山夫人はわたしの為人を全く知らないからだ。
単なる『お遊び』の相手というならいざ知らず、将来を考える相手に選ばれるなんて、常識的に考えてもあり得ないだろう。
それがわたしの正直な感想だ。
必死に声を絞り出す妹を気遣ったのか、兄は言葉を選びながら話しつづける。
「──『クラシックの夕べ』の演奏……あの動画を、さっきの双子がお祖母さんに見せたらしい。それも、何度も何度も……」
──は?
『天球』が公開している、あれか?
久我山夫人は、わたしが晴夏と共に奏でた『Bach Double』を視聴したと?
いや……なんでまたそんな、ちびっ子演奏のマイナー動画を?
そもそも、久我山兄弟がその演奏の存在を知っていたこと自体、不思議でならない。
ピンポイントでその動画に辿り着くなんて、世に溢れかえる無数の動画の海の中から、一粒の砂金を探し当てるようなものだ。
眉間に皺を寄せたわたしは、脳細胞に向かって「働け!」と必死になって指令を下す。
その瞬間──電撃のような稲妻が脳天を駆け抜け、あの炎を思わせる妖艶美女の笑顔がよぎった。しかも楽しそうな笑い声付きで。
──紅子か!
紅子が晴夏の参加した『クラシックの夕べ』について、葵衣に言及した可能性にやっとのことで気づく。
わたしは、頭を抱えて俯いた。
母親二人の会話中、近況報告としてお互いの子供の話題を出すのは、極めて自然の流れだ。
美沙子ママと葵衣は没交渉になってから既に十余年だが、紅子と葵衣の交流は細々とではあるが続いていた。そのことは、今日のランチ会の件から言っても、隠しようのない事実。
紅子の話を耳にして、興味を持った葵衣があの動画に行き着き、息子二人に観せたのだとしたら──
実際には細かな部分についての予測は、間違っているかもしれない。が、情報伝達の経路としては、ほぼこれで間違いないだろう。
出と忍がわたしの名前を知っていた理由も、これで判明だ。あの動画内での演奏者紹介のアナウンスを、彼らは何度も耳にしていたと──そういうことなのだ。
久我山夫人は双子と共に、あの動画を目にしていた。
だとしたら、兄の懸念した『面倒事』への認識は、少しばかり様相を変える。
あれだけの演奏を、幼い子供が成し遂げたのだ。それを知った久我山夫人の『月ヶ瀬真珠』に対する評価は、おそらく非常に高い。
孫の将来の嫁候補のひとりにと、彼女が白羽の矢を立てたのだとしても──何らおかしくはない。
それに加え、幼い子供が何かしらの功績を残すその裏には、本人の弛まぬ努力があるだけではなく、親の献身的な支えが必要不可欠だ。
よって、久我山夫人の中で、月ヶ瀬一家への信頼度も相当に高まっているのだろう。
久我山一族も日本有数の名家。
だから家族に迎え入れる相手は、その親族を含めて慎重に吟味しているはずなのだが……どうやら我が両親も、その審査もどきを突破してしまったのだ──現実は、違ったのだけれど……。
「真珠は聞いていなかったみたいだけど、あちらのお祖母さんは、美沙子さんにずっと君の質問ばかりしていたよ。あとね、君と晴夏くんの二重奏について『二人とも努力家で素晴らしい』と褒めちぎっていた。それからね……『ご両親の尽力が、お嬢さんの素晴らしい成長に繋がったのですね』とも……」
嗚呼、なんたることだ!
予想がピタリと当たってしまった。
いや、あの動画を称賛するのは理解できるし、褒めていただけるのもとてもありがたい。
魂が溶けあう二重奏は本当に最高の出来だったし、晴夏の音楽にむけた熱い想いが込められた調べを、たくさんの人に聴いてほしいとも思う。
けれど、あの演奏が原因となって嫁候補に加えられるのは、迷惑以外の何ものでもない。
兎にも角にも、ごめん被りたい案件だった。
兄がフゥと溜め息を落とす。
「どうやらね──その動画を観て以来、あの双子の楽器練習にも力が入ったとかで『孫たちに良い影響を与えてもらえて感謝している。今後も、切磋琢磨しあえる関係を築けたら』とも言っていたよ」
久我山夫人が『月ヶ瀬真珠』を気に入った理由が、すべて出揃ってしまった。
沈黙するわたしの態度に、兄は気遣う言葉をかける。
「不安にさせてごめんね。とは言っても、正式な約束ではなくて『候補のひとり』に加えられただけ……今はまだ単なる遊び相手で、仲良くしていこうという提案だから──あちらが、ものすごく乗り気だったのは、僕にでもわかったけど……。だから……もし、真珠が望んでいないのなら、これからは言動に気をつけて」
気落ちする妹を慰める言葉ではあるが、そのなかに兄の不安も見え隠れする。
そこで何故か、先ほどの美沙子ママの態度が突然脳裏によみがえった。
久我山夫人から連絡先メモをもらった直後、母が僅かに見せた『奇妙な間』──あの時、母はなぜか父と貴志に目配せをして、何事かの了承を取り付けていた。
すると、つまりあれは、葵衣との関係修復を見据え、決意を込めた母の態度というわけではなく、それよりも遠い先の未来──わたしの身の振り方の候補のひとつと考えてもいいか、と確認を取った瞬間だったということなのか?
己の考えすら及ばなかった事態が積み木崩しのように押し寄せ、わたしの身体が小刻みに震えはじめる。
──怖すぎる。
上流階級の交流、オソルベシだ。
久我山夫人は孫可愛さと、久我山コンツェルンの未来を考え、双子が幼いうちから『三国一の花嫁』探しを既に開始しているのだ。
気が早いかもしれないが、おそらく、子供たちの反発を避けるために先回りして、幼少期から動いているのだ。
無理矢理お膳立てしても上手くはいかない。子供の頃から幼馴染みとして遊びを交えて絆を深め、子供たちにそうと気づかせないように関係を結んでいく──実に巧妙で強かな作戦だ。
久我山夫人の温厚でおっとりした外見を思い出す。
あの天女のような寛容さは敵を欺く仮の姿、心の中には女傑と策士を住まわせる。なんとも油断ならない女性だと、わたしは内心舌を巻いた。
我が家の祖父も「貴志に『三国一の花嫁』を!」と息巻いている真っ最中だけれど、あれはまだまだ可愛いものなのかもしれない。
お祖父さまに久我山夫人のような『ヘリコプターペアレント』の素養がなくてよかった、と心底ホッとしたのだった。
申し訳ない気持ちで、わたしは兄の顔を見上げる。
この優しい兄が、不機嫌爆弾を炸裂させた理由。それは、考え足らずの妹と久我山夫人の言動を俯瞰し、わたしの未来を憂えたからだ。
貴志をこよなく慕う妹を知っているからこそ、兄はわたしの態度に驚き呆れ、「何をやっているんだ」と大慌てだったに違いない。
──でも……おかしい。
だって、わたしは今日──貴志と婚約したばかり。
だから、これだけは兄に確認しておかねばならないと、わたしは質問を口にした。
「あの……お兄さま? わたし、今日……貴志と結納──しました……よ、ね? 婚約って……結婚の約束で、合って……ますよ、ね?」
地辻夜行さんのツイキャスにて、拙作
『くれなゐの初花染めの色深く
〜僕が恋と気づくまで、君が恋に落ちるまで〜 』
を朗読していただきました。
(晴夏の父親・克己が主人公の物語の中盤クライマックスシーンになります。未読の方も、見知った名前が出てくるので分かり易いかと思いますので、お時間ありましたら聴いて頂けると嬉しいです)
https://twitcasting.tv/wfvo74avdmkejn1/movie/725411048
■紅子■
以前某所にて、拙作のキャラクターの推しを挙げてもらい、その人物たち(6名)を描くというタグ企画を実施しました。
その際に、紅子、真珠、愛花、穂高、晴夏、真由(←『氷の花がとけるまで』より)の名前があがり、描かせていただいたイラストになります。







