【真珠】パスタソースの裏事情
「真珠、さっきから顔色がコロコロ変わっているけど、体調大丈夫?」
父の隣を歩いていた兄が、わたしを見上げ、心配そうな声で質問をした。
「あっ いえ……問題ありません。それよりもお兄さま、今夜はミートソースみたいですよ?」
質問の矛先を逸らそうと、先ほど耳にしたパスタソースの名前を口にしたところ、兄は不思議そうに首を傾げる。
「ミートソース? おかしいな──木嶋さんからは、何も聞いていないよ?」
んん?
兄の言う「聞いていない」とは、どういうことなのだろう。
その口ぶりから──木嶋さんから、いつもメニューを教えてもらっているように思えたのだ。
わたしの表情を目にした兄は、こちらの疑問を察したのか、その理由を解説してくれた。
「ああ、あのね。僕、トマトソースのパスタが好きなんだ。でも、うちの食事はクリーム系のメニューの方が多かったでしょう? でもね、最近は真珠のおかげで、トマトパスタを作ってもらえるようになったんだ」
──?
わたしのおかげ?
首を傾げて、どういうことなのかと考えたが、すぐにその答えに辿り着く。
わたしが服やテーブルを、汚さなくなったからだ。
確かに最近、木嶋さんから「お口の周りも、お洋服も汚さずに上手に食べられるようになりましたね」と褒められることが多くなっているし、思い返せばこの数週間で、わたしのテーブルマナーは飛躍的に向上している。
特筆すべきは、パスタや麺類のときだ。
以前は周囲に飛ばしまくっていたソースやスープでの粗相が、今では殆どないのだ。
ちなみに、その目覚ましい成長は伊佐子の功績によるものだが、木嶋さんの判断により、我が家の食卓事情が過渡期を迎えていることは間違いない。
「それでね、僕が『木嶋さんのトマトソースが美味しくて大好きだ』って伝えたら、それからトマトソースのパスタを作る時は、いつも事前に教えてもらえるようになったんだ」
──なるほど。
それで、兄は今夜のメニューがミートソースではないと判断したのか。
「穂高、しぃちゃん──このまま仲良く、エレベーターホールのソファで待っていてくれないか?──二人が遅いから、少し様子を見てくるよ」
パスタソースについて語り合っているさなか、兄妹の会話に割り込んできたのは、誠一パパの声だった。
父の言う、二人──とは、貴志と母のことだ。
後方に視線を移すと、確かに彼らは廊下の端で立ち止まったまま、話し込んでいる。
父の腕から床に降ろされたわたしは、兄と手を繋ぎ、エレベーターホールに置かれたソファに腰を埋めた。
兄と二人きりの時間。
沈黙したままだと、兄から『伊佐子』について攻め込まれる可能性もある。
それだけは避けたかったので、先ほどの会話を不自然にならないよう、続けることにしたのだが──その際、意識が『伊佐子』にフォーカスし過ぎていたわたしは、結果として失言することになる。
「お兄さまがトマトパスタをお好みだと、今日初めて知りました。わたしもパスタは大好きでよく作るんですよ。なかでもアラビアータが得意で、あの鷹の爪から滲み出る辛さと豚肉の甘さがたまらないって、皆から……」
口の中でアラビアータの味を思い出しながら、つい熱く語ってしまったのだ。
その内容に慌てて口を閉じるも──時すでに遅し、だ。
『──バカめ』
尊とルーカスの声が幻聴になって聞こえ、なぜかエルの溜め息も盛大に脳内で木霊した。
今現在、ちびっ子の真珠が、料理なんて出来るわけがない。
しかも、辛い味が好きだなんて、おおよそ子供の発言とは思えない。
自分の失態のほどに、血の気が引いていくのを感じ、おそる恐る兄の顔を確認する。
だが──わたしの動揺をよそに、兄はフフッと笑うだけ。
しかも、その言動を皮切りに、『伊佐子』について問い詰めてくる様子すらない。
「そう……なんだね──僕は辛い味はまだ食べられないから、今はミートソースが一番好きかな」
わたしの焦りに気づいていたであろう兄。けれど彼は、こちらが触れてほしくないと思っていた部分に、土足で踏み込んでくることはなかった。
自分の好物を伝えることで、何事もなかったように会話の軌道修正をはかった彼は、元々あった『ミートソース』の話へと内容を戻していく。
もしかしたら、真珠のママゴト遊びの話だと思ってくれたのだろうか?
だとしたら、ラッキー!──なのだが、なぜか素直に喜べない。
不思議に思ったものの、この場で窮地に立たされることを回避できたわたしは胸を撫で下ろし、パスタソースに関する会話を続行する。
「ミートソース! 美味しいですよね。わたしも好きです。パスタとソースの間にメキシカンチーズを挟んで、ソースの上に更にパルメザンチーズをたっぷり振りかけるのが、わたしの大好きな食べ方で……」
と、口にした途端、先ほど母が貴志に伝えていた「ミートソースだったかしら?」の科白が思い起こされ、兄の言葉と重なった。
『トマトソースのパスタよ。確か……ミートソースだったかしら?』
『ミートソースが一番好きかな』
今夜のメニューがミートソースでないのであれば、あれは兄の好物を貴志に伝えていたのかもしれない。
──でも、どうして?
疑問に思ったけれど、そこでハタと思いつく。
そうか!
貴志は……家族それぞれの好物を作り、皆に振る舞おうとしているのだ。きっと。
わたしは、料理をする貴志の姿を想像してみることにした。
………………………………。
イイ男は何をしてもサマになるようで、ちょっぴりズルいと思ったのは内緒だ。
そういうことなら、わたしの好物も後で伝えなければ──と、一瞬だけ意気込んだものの、売り込みを自制することに決める。
貴志が兄本人に直接訊いていない事情を鑑みても、もしかしたらサプライズ・クッキングなのかもしれない。だったら質問されるまでは黙っているべきだと、すぐに気づいたからだ。
貴志が作ってくれた料理を「あーん」と餌付けしてもらう場面を思い描くだけで、わたしの頬が勝手に緩んでいく。
パスタを頬張る自分と、そんなわたしを優しく見つめる貴志。そんな長閑な時間が頭の中に流れ、幸せ気分に浸る。
だが──わたしのお花畑妄想は、兄の言葉によってプツリと途切れた。
「楽しそうに、何を考えているの? 僕も大きくなったら、君の作ったアラビアータを食べてみたいな。いつか作ってくれる? 真珠──いや……それとも……『伊佐子』さん?」
その呼びかけに、目を瞠ったわたしは、兄の双眸を咄嗟に見つめた。
わたしの驚愕する表情を目にした兄は、慌てて自分の口を塞ぐと、すぐに謝罪の言葉を口にする。
「ごめんね。困らせるつもりはなかったんだ。折角僕と一緒にいるのに、他のことを考えていたみたいだから──ちょっとヤキモチを焼いただけ。それよりもね、真珠──確認したいことがあるんだ」
物言いたげな表情でそんな科白をこぼし、最後に深い溜め息を落とした兄は、少しだけ躊躇うような素振りを見せる。
繋いでいた手とは別の腕がこちらに向かって伸び、その掌がわたしの頬に触れた。
「真珠──あのね……どうして、あんなことをしたの?」
「あんな……こと?」
それって──どんなこと?
兄の表情から、彼の機嫌が珍しくよくないことにも気づいてしまう。
わたしの何らかの行動が、常日頃最高に優しい兄の感情を害してしまったことを知り、妙な焦りを覚える。
戸惑いつつも、わたしは兄の顔をジッと見つめた。







