【真珠】区切りの涙
身動きが取れずに固まっているわたしを気遣ったのか、出と思しき片割れが蹲っているもう一方に声をかける。
「忍──いい加減、起きたら? 当たったの鳩尾じゃないよね。演技して心配させるのって、ボク……よくないと思うんだ」
その言葉を受けて、ムクリと起き上がったのは今までしゃがみ込んでいた忍だ。
「なあ、出。普通だったら、倒れているオレの方を心配するんじゃない? ちょっと驚かせようとしただけじゃん! でもさ、お腹に当たってなかったの、よく分かったな。スゲー!」
最初は不服そうな声色の忍だったが、接触した折の詳細を出が見ていたことについて、かなり感心しているようだ。
「だって、忍が両手でガードしたの、見えたもん」
あのクリティカルヒットは、忍の手に包まれた感触だったのかと合点がいく。
心の不安を吹き飛ばすために繰り出したパンチではあったが、忍の俊敏な回避行動によって、わたしは加害者とならずに済んだようだ。
思わぬ結末ではあったが、双子の片割れに怪我を負わせたわけではなかったと判明し、ホウと胸をなでおろす。
忍の咄嗟の動きと出の目敏さに感心しつつも、わたしの頭の中は、伊佐子が記憶している『この音』の攻略情報を検索中だったりする。
忍は、出お兄ちゃん大好きっ子だ。
ブラコンに問題児的要素を併せ持ち、性格にもちょっと難ありのキャラで、なぜか攻略対象ではない。
『この音』に於いては、最愛の兄・出の心を奪う『主人公』を目の敵にし、『月ヶ瀬真珠』と共闘して愛花を陥れようと画策する──言うなれば、悪役令嬢ならぬ悪役令息的立ち位置の登場人物だ。
いま思えば、ゲーム中の彼らの兄弟仲の良さは、異国暮らしであったことも大きく関係していたのだろう。
言葉も環境も、日本とは違う異文化のなかで暮らす苦労は、同じ経験をしていたわたしだからこそ、わかるのかもしれない。
久我山兄弟も椎葉姉弟と同じく、渡米直後の言葉の通じない生活で、辛酸を舐めるような経験を繰り返していたことは想像に難くない。
同じ辛苦を共に乗り越えてきた彼らが、お互いを心の拠り所にするようになるのは、ごく自然な流れのようにも思えた。
斯くいう伊佐子だって、久我山兄弟の関係と似た形で、尊との間に共依存の関係を築いていた時期があった。
それは幼い頃限定の出来事だったけれど、お互いの存在に慰められながら、慣れない環境に馴染んでいった歴史が椎葉姉弟にも存在していたのだ。
一見華やかに見えがちな海外生活。だが、幼い頃の伊佐子にとって、言葉の通じない環境は苦痛以外の何物でもなかった。
外国に住むだけで、子供は現地語を自然と喋れるようになると思われがちだが、それは完全なる幻想に過ぎない。
言葉を操れるようになり、人との意思の疎通を可能にする前段階には、山ほどの苦労がつきまとうのだ。
しかも、その苦労は、新たな言語を習得するためだけに限定されたものではない。
複数の言語を使用する子供に起きやすいダブルリミテッド問題(注1)を回避するために、母語である日本語に関する学びの努力も必要不可欠なのだから、小さな脳はパンク寸前──言語学習については、本当に大変だった記憶しか残っていない。
そこまでのことをして、やっと社会に出て通用する多言語を使えるようになれるという、過酷なバイリンガル育成の実態があるのだ。
投げ出したいと思ったことは数え切れないほどあった。が、そんな伊佐子の言語学習の窮状を救ってくれたのが、乙女ゲーム『この音色を君に捧ぐ』との出逢いだったことは、皆さまも周知の事実だろう。
過去を思い出すことで黙り込んでいたわたしを、出が不安げな顔でのぞき込む。
「ボクの弟が心配させてごめんね。キミの手は大丈夫だった?」
大丈夫──そう言いかけたところを、忍が「大丈夫だよな! な? シンジュ! オレがお前の拳を受け止めたんだからな」と、なぜかわたしの代理のように勝手に答えはじめる。
忍の横槍が入ったことで、今度は出が唇を尖らせた。
「ウルサイよ、忍。ボクはこの子に質問してるの。だから、ちょっと黙っててよ」
しかし、出のその注意を右から左にサラッと流した忍は、わたしに向かって次々と質問を投げかけるのだった。
「最初に質問してたのはオ・レ! なあなあ、お前はシンジュなんだろ? あとさ、昨日、上野のミュージアムにもいたよな?」
どう答えるべきなのか?
その回答によって、何が起きるのだろう?
逡巡するわたしの様子を『困惑』と捉えた出が、助け舟とばかりに忍の前に立ちはだかる。
「忍、もう、いい加減にしなよ。この子、困ってる。それにね、もしも本当にあの『シンジュ』だったとしても、自分が名乗らないうちに相手に名前を訊ねるのは、やっぱり良くないと思うよ」
至極まともな出の意見に、わたしはホッと安堵の息を吐いた。
さすが攻略対象と言うべきか。
それとも持って生まれた気質なのか。
出は幼い頃から、その考え方もしっかりしているようだ。
そのとき忍が、出の言葉にピクリと反応を見せた。
「これって良くないことなのか? もしかして、マミィに怒られるヤツ?」
マミィとは──つまり、Mommy──葵衣のことなのだろう。
「マミィは怒らないよ。いつも叱ってるだけだよ」
出の言葉に、忍は何事かを思い出したようで、突然話の内容が方向転換をはじめる。
「あのさ、マミィが怒ってると、ダディは『頭にツノが生えてるぞ』って言うよな。だけど、オレ、マミィのツノ、見えたことないんだ。ダディはさ、きっと、オレの目には見えないものを視てるってことだよな。それってすごい『力』を持ってるってことでさ、なんか、やっぱ、すげーカッコイイ!」
「うん、ダディはすごいよね!」
二人の会話の趣旨が移り変わるさまを見守っていたわたしは、忍の思考のあまりの可愛いらしさに、顔の下半分を慌てて両手で覆った。
その子供らしい様子はタックンを彷彿とさせ、幼い男の子特有の微笑ましい発想に、自分の頬がだらしなく緩んでいることに気づいたからだ。
──これはまずい。
今の表情はヒト様には絶対に見せられない。
彼らが父親を礼賛する言葉の端々から、二人揃って『ダディ大好き!』という感情が流れ込んできた。
それだけではなく、葵衣が子供たちを躾けている姿すら目に浮かんだ。
特に忍に対しては、相当手を焼いていることだろう。
久我山家の日常の光景を思い浮かべていたところ、不意に椎葉の両親の顔が脳裏をかすめ、懐かしさが急速に込み上げた。
出と忍が語る久我山家の雰囲気は、伊佐子が家族と過ごした時間と、何処となく似ているような気がする。
泣いたり笑ったり、叱られたり褒められたり。
伊佐子の幼少期からの思い出がよみがえり、走馬灯のように心の中を通り過ぎていった。
記憶の奔流を懐かしみ、郷愁の想いに溺れそうになりはしても、なぜか『心の嵐』は息を潜めたまま──胸の中心は不思議と穏やかで……凪いでいる。
先ほどまで渦巻いていた不安と、心の中に巣食っていた焦燥感も、いつの間にやら消えていたことに、今更ながら気づく。
「え? ちょっ……、やっぱり手が痛いの!?」
「うわっ シンジュ!? どうしたんだ!?」
出と忍の慌てた声が、部屋の中に響き渡った。
それは、突然の出来事──まるで光が湧き出るように生まれた不可視の感情が、自制することもかなわず、わたしの目頭から溢れはじめたのだ。
温かな思い出たちは雫に姿を変えると、後から後から零れては、頬を伝い落ちていく。
「出! オレが……オレが、泣かせたのか? どうしたらいいんだ!?」
「忍、ちょっと落ち着いて! やっぱりどこか痛むのかな?」
忍は狼狽し、出は弟を宥めつつもわたしの手首に触れて、異常の有無を確認する。
わたしは首を左右に振って、痛むわけではないのだと態度で示した。
一向に泣き止まないわたしと、そんなわたしをどう扱っていいのか分からずに動揺を見せる彼ら。それでも久我山兄弟は、対処の仕方が分からないなりに出来るだけのことをしてくれたように思う。
幼い子供をあやすよう、頭を撫でたり、背中をさすったりと、必死になって気遣う姿はとても印象的だった。
──どうして涙が流れたのか?
自分自身でも、理解できていなかった。
後から思うに、このとき頬を伝った涙は、伊佐子として生きた時間を過去とするため『伊佐子』自身が流した『区切りの涙』だったような気もする。
ただ、それも明確な答えとは言えず、残念ながらハッキリとした理由は、最後まで分からなかった。
そんな曖昧さのなかにあって、確かな感情がひとつだけ芽生えたことも自覚する。
出と忍が見せた優しさに対して『真珠』の心は喜び、彼ら二人に大きな感謝の気持ちを抱いたのだ。
(注1)ダブルリミテッド(セミリンガル)問題
……幼い頃に複数言語を習得することにより、母語(第一言語)が中途半端にしか発達せず、大人になってから年相応の会話や意思の疎通ができず、社会に適応するのが難しくなる問題。
第一言語以上に第二言語は発達しないので、母語を確立させることがダブルリミテッドを回避するためには大切と言われている。
(子供の一生を左右する根深い問題になるので、バイリンガル教育を進めるにあたっては注意が必要)
リアルにて諸事情があり、更新が遅れましたことお詫び申し上げます。







