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【真珠】貴志停止中、わたし硬直中


 美容室に向かって足を進める貴志が、わたしに質問する。


「真珠……不安になっているのか?」


 貴志の問いにかけに、わたしは無言で頷いた。


 ──どうしてこんなにも不安で、悲しい気持ちになるのだろう?


 その覚束ない心情を吐露すると、貴志は苦笑いを見せた。


「どうしてって……自分が変わったことを知られるのが怖いからだろう? もし、その変化を目の当たりにした親から、突き放されでもしたら?──そう考えるから、不安になるんじゃないのか?──俺も……似たような経験があるから、お前の気持ちが少しだけ……わかるような気がする」


 おそらく貴志は、自分が『月ヶ瀬貴志』だった頃の話をしているのだろう。

 自分が祖父母の実子でないとわかり、苦悩していたときの記憶なのかもしれない。


 自嘲気味に、自分の過去を口にした貴志が、わたしの顔を見つめた。


「お前の不安が、昔の俺が抱いたものとは違って……まったくの見当外れだったらすまない──だが、誰だって大なり小なり、自分以外の誰かに『知られたくない秘密』のひとつやふたつ、抱えているものだ」


 わたしを安心させるため、貴志がそう口にしたのは理解できた。


「うん。それは分かっているんだけどね──と言うか……貴志にも、お祖父さまやお祖母さまにも言えないような秘密があったんだ?」


 考えるような素振りを見せた貴志が、なぜか楽しそうに笑った。


「あった……と言うか、今もある──しかも、ひとつやふたつどころの話じゃない」


「そんなに!?」


 こんな時ではあるが、その内容が気になってしまう。


 貴志が口にした内容に、わたしが食いつくと、彼は再び笑顔をみせた。


「気になるか?」


 わたしは身を乗り出し、何度も頷く。



「──でも、残念。お前には教えない。俺だけの秘密だからな」



 んん?

 そうなのか。


 知りたい欲もあるけれど、残念だが仕方ない。


 でも、何故だろう?


 久々に、彼のこの表情を見た気がする。


 そうか!

 これは、アレだ。


 貴志が何かを仕掛けてくるときに必ず見せる、あの笑顔だ。


「──お前の持つ秘密ほど、特殊な物ではないから、そこは安心してくれ」


 その言葉に、わたしはジト目になって貴志を見つめる。


 ──わざとだ。


 貴志のその口調から、彼がわざと『特殊な秘密』という含みのある科白を口にしたことは分かった。


 他の人から言われたら、意地が悪いなと感じるのかもしれない。

 けれどわたしは、貴志のことを知っている。

 彼は、落ち込んでいる人間の気持ちを、更に突き落とすような真似はしない。


 きっとこれは、彼なりの気遣いだ。

 立ち止まりそうになるわたしの心に向けて、発破をかけてくれたのだろう。


 だから、わたしは敢えてそれに乗りかかるように、拗ねたふりで抗議する。


「どうして最後の最後で、そんなことを言うのかな? こっちは不安で不安で仕方がないっていうのに──貴志の意地悪」


 プリプリとプチ怒りを見せたことで、少しだけ膨らんだわたしの頬に、貴志の指がプスッと突き立てられた。


「不安になって動けなくなるよりも、そうやって感情を表している方が、お前らしいよ」


 確かに。

 それも一理あるな──と、彼の言い分にも納得する。


 落ち込んでいても始まらないのなら、無理をしてでも軽口を叩いていた方が、沈んでいるより遥かにマシだ。


 正直に言うと、この不安が貴志の言うような気持ちから来たものなのか、実はよく分かっていない。

 だが、クヨクヨ悩んでみたところで、解決できる簡単な問題でないことも理解している。



「当人としては不安にもなるだろうが、そんなに怖がらなくても大丈夫だろう。義兄さんのお前への対応や、さっきの美沙の態度を見る限り、不安に感じるような要素は見あたらなかったしな……まあ、それも俺の所感なんだか……」



 貴志の言葉に希望を見出したわたしは、「本当にそう思う? 間違いない?」と縋るような目で彼を見つめた。


 思わず飛び出た言葉は、自分の心の奥に眠っていた本音だったのかもしれない。


 声に出したことで、貴志から指摘された内容が、かなり的を射たものであるような気もしてくる。


 ああ、何だ。そうなのか。

 彼の言う通り、わたしは両親から突き放される未来を憂い、不安になっていたのだろう。


 いや、不安という言葉では生ぬるい──怯えている、と表現したほうがより近い心境だ。



 もしも、両親に嫌われ、疎まれてしまったら?

 冷めた眼差しをわたしに向ける両親を想像してしまい、身のすくむような恐怖が押し寄せた。


 ──あ……れ? 何だろう、この気持ちは。


 わたしは自分のなかに、僅かな違和感を覚え、首を傾げた。


 少し前まで、『両親』という単語で真っ先に頭に思い浮かんでいたのは──『椎葉伊佐子』の父母だった。


 けれど、ハッキリとした形で分かってしまった。

 自分が、『親』だと認識する人間が、完全にすり替わっていた事実を。


 いまのわたしにとって、『両親』とは──『月ヶ瀬真珠』の父母である、誠一と美沙子を指す言葉に変貌を遂げていたのだ。


 わたしの時間が急停止を余儀なくされる。

 貴志や兄だけでなく、父母の存在も、わたしの中で大きなものに移り変わっていた事実に、驚くばかり。


 あの演奏動画を観る状況に陥らなければ、自分の心の変転に、気づくことすらなかったのかもしれない。



 少し前に「しっかりと未来を向いて、『月ヶ瀬真珠』として生きていこう」と決めたのは、他の誰でもないわたし自身。

 だから、きっとこれは、真珠としての自分にとって、良い兆しと言ってもいいのだろう。


 けれどそれと同時に、二十年以上に渡り(いつく)しんでくれた椎葉の両親に対する恩も、心のなかに色濃くのこっている。

 だからこそ、彼らの存在自体を、既に『過去』の一部と捉えはじめている自分に、一抹の寂しさを感じてしまうのだ。


 なんとも複雑な気持ちを抱きながら、椎葉家両親の姿を思い描こうとした、ちょうどその時──美容室の手前で、知った声が聞こえた。


「──貴志くん……本当に申し訳なかったね」


 その声の主とは、藤ノ宮紫織(ゆかり)

 彼は母を送り届けてくれたあと、少し離れた場所から彼女が激昂する様子を見守っていたようだ。



「紫織さん? 申し訳なかった──て、それはどういう意味ですか?」



 貴志が不思議そうに問い返すと、紫織が躊躇いながら答える。



「美沙子さん、かなり怒っていただろう? 実は、元々の原因を作ったのは私……と言うか、正確には……姉の──葵衣ちゃんなんだ──」



 へ!?



「──さっき美容室の中で美沙子さんから『葵衣が来ているんでしょう? 今すぐ話したいから、どうにかして』とイキナリ詰め寄られて、そのまま姉に連絡を入れたんだよ。そうしたら……会うの、会わないのって言い合いになって……」



 んなっ!?


 なんとぉーーーーーーーーっっっ




 母は既に、葵衣と話をしていたと言うのか!?



 まさかまさかまさか、よもやそんな場外にて、とうの昔に臨戦態勢へ突入していようとは、いったい誰が想像できただろう。



 貴志は完全に思考停止中。

 わたしも衝撃により硬直中。



 悲しい哉。

 椎葉の両親を想い、少しばかりの郷愁に浸ろうとした時間すらも泡沫(うたかた)の如く──あっという間に消失だ。


 もしかして、わたし……慌ただしくも有り難くない、トラブル続出の人生を歩んでいる真っ最中なのではないだろうか!?


 気のせいだと思いたい。

 が、思いたくとも思えない波乱含みの展開の連続に、暗澹たる気持ちに襲われる。


 いっぱいイッパイになった子供の心が、既に──癇癪を起こす一歩手前だ。


 いや、まだだ。

 まだ、寸止めにて我慢できている。


 ここまで耐え抜いたわたし、偉い!──と、自らを慰め、鼓舞する。



 だが、この時点でのわたしは、まだ知らない。

 これから、さらなる不測の事態が、謂わば最後の関門のように、美容室の中で待ち構えていることを。


          …



 人生の経験上、何をやってもうまくいかない日というものは得てしてあるもので、おそらくそれは気分屋の神様の采配なのだろう。


 トラブルを招く神様がもしも本当に存在するのだとしたら、ものすごく寂しがりやに違いない。

 独りぼっち──いや、神様なので『ひと柱』ぼっち──を、こよなく嫌う性質を持っているのだ。絶対に。


 さびしんぼうの神様を筆頭に、悪戯好きの仲間が集まって、わたしを窮地に陥れる画策をしているのではないかと勘ぐりたくなるほど、度重なる想定外の事案の勃発には、溜め息が止まらない。



 わたしが「やっぱり、そろそろ、チョッピリ、本気で、泣いてもいいんじゃなかろうか!?」との感想を抱くのは、ほんの少しだけ時計の長針を進めた未来のお話──だ。




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