【真珠】隠したい演奏動画
早鐘のような鼓動が胸を叩き、ドクリドクリと嫌な音を立てる。
ザラリとした奇妙な感覚が、全身を浸食するように広がっていった。
──身体が強張り、身動ぎすらできない。
わたしの様子に気づいた貴志が、落ち着かせようと頭を撫でてくれた。
いつもならば、それでホッと息をつけたはず。
けれど、どうしたことか──身体全体が脈打つ不快感は、いつまで経っても消えない。
そこに克己氏の声が響く。
「お嬢さんが倒れてしまったことは本当に大変だったね。僕も映像を見たけど、無事でよかった。
確か……倒れた場面を除いて編集した映像があったはず──あのコンペティションでの演奏は本当に圧巻だったし、バイオリンを辞めたと思っていた美沙ちゃんが、熱心にお嬢さんに音楽の英才教育を施していたと知って感心もしたんだ──真珠ちゃんは、子供時代の美沙ちゃんをも凌ぐ──素晴らしいバイオリニストだよ」
克己氏が眦を下げ、『TSUKASA』のアーカイブに収められた映像について、朗らかな声で語った。
その話を聞いた父は顎に手を当てると、疑わしそうな表情を面に刻む。
「英才教育? 素晴らしいって──真珠は同年代の子供たちより、多少上手く弾けるくらいにはいるが……とは言っても、一般的な習い事のレベルだ。克己が言うような評価は、あり得ない。一体ソレは誰の話だ?」
困惑顔の父は、克己氏に説明を求めた。
父の様子に疑問を抱いた克己氏が、今度は不思議そうに首を傾げる。
「あの演奏が、一般の習い事レベル? 誠一くんは『天球』の『クラシックの夕べ』で、うちのハルとお嬢さんが一緒に演奏した『Bach Double』は聴いているかな? あれもお世辞抜きで、本当に感無量の調べだったよ」
父は首を左右に振った。
「いや、聴くどころではなかったから、まだ聴いていない。が『Bach Double』……ドッペルの協奏曲か──ん? ちょっと待て……ドッペル!? うちのしぃちゃんが? 本当に弾いたのか!?」
驚きのあまり、父の口から日頃のわたしの呼称「しぃちゃん」が飛び出した。
その声を受けて、母が静かに口を開く。
「ええ、本当よ。スモール・アンサンブルも未経験の真珠が、驚くべき完成度で弾いていたの。
だけど、コンクールの舞台での演奏は、その二重奏の比じゃなかった。だから、あの映像を観ないことには、その凄まじさ自体が伝わらない。だから今、真珠のバイオリンについて話せるのは……ここまで」
夫婦間での質疑応答を終えた両親が、今度は克己氏とともに動画確認の日程調整を開始する。
鷹司邸を訪問する候補日が二日ほど挙がり、今日の夕方、もしくは今週の日曜日のどちらかにしようと話を詰めているようだ。
日曜日──その日は、貴志が日本を発つ当日になる。
この状況で、彼がいなくなる事実に、身体が震えた。
その心許なさから、貴志に触れた腕に無意識のうちに力が入ってしまう。
話し合いの結果、貴志を空港に見送った足で鷹司家に向かい、演奏動画の鑑賞会が開かれることが決定となった。
そこで貴志が、意を決したように声を上げる。
「克己さん、申し訳ありません。その映像鑑賞に──俺も……美沙と一緒に参加していいですか?」
貴志の言葉に驚いた母が、矢継ぎ早に問いかける。
「貴志? 何を言っているの? 日曜日は一時帰国の最終日でしょう? 飛行機をキャンセルするつもりなの?」
「ああ、そのつもりだ。一日二日戻るのを遅らせたところで、問題はない」
母と貴志の言葉を受けた克己氏が、何事かを考え込んでいるように見えた。
「貴志くんも、その演奏動画に興味があるんだね。わかったよ。
でも、チケットの変更手続きをするのも手間だろうから……そうだね──こちらとしては今日の午後でも問題ないんだけど、美沙ちゃんと誠一くんの予定はどう? 急かもしれないけど、問題はない?」
母はすぐさま頷き、「今日でお願い」と克己氏に伝える。
体調は大丈夫なのだろうか? と心配したけれど、現在の母は心身ともに憑き物がおちたのか、清々しい雰囲気を漂わせている。
ワンピースに着替える以前には青白かった顔色も、血色が戻っているし、体調も安定しているようだ。
もしかしたら今朝からの体調不良は、寝不足が原因と言うより、心因性の不調だったのかもしれない。
だがそれも、先ほど感情を大爆発させたことにより、払拭できたのだろう。
母の意向を聞いたのち、父も「今日の夕方で問題ない。私も早く観たいから、こちらとしては好都合だ」と口にし、今日の午後──鷹司邸訪問が確定となった。
貴志は既に、件の動画を早乙女教授宅で一度観ている。
だから、彼がわたしを気遣い、付き添いを申し出てくれたことは理解できた。
貴志が傍にいるだけで、鑑賞時の安心感が増すのは確かだ。
けれど──
以前は、誰に観られても構わないと開き直っていた演奏動画だと言うのに、なぜか父と母の二人にはあの演奏自体を隠したいと思っている自分がいるのだ。
これは、幼い『真珠』の心?
それとも、『伊佐子』?
どちらの自分がそう思っているのか判別がつかない。
この気持ちをうまく言葉にすることができず、ただ、あの演奏を両親に知られると思うだけで、不安が頭をもたげ、冷静さを保てなくなる。
こんな気持ちになるなんて、まったくの想定外だ。
なぜこんな想いが生まれたのだろう?
その理由すら、いまのわたしには理解できなかった。
…
「誠一さんからの質問は、これですべて答えたつもりよ。だから今度は──貴志!」
気持ちを切り替えたのか、母は叱責するような声で貴志の名を呼んだ。
「──と、いきたいところだけど……残念。タイムリミットね。まずは真珠の着替えを済ませないと」
そう言って、母が貴志の額を指先で軽く弾く。
貴志は文句を言うでもなく、避けるでもなく、母からのそれを甘んじて受け止めていた。
「わたしは克己くんと誠一さんを交えて、もう少し話さなければいけないことがあるの。だから貴志、悪いけど、真珠を先に美容室に連れて行ってもらえるかしら? すぐにあとを追いかけるから」
母の言葉に貴志が時計を確認し、軽く溜め息をついた。
「了解。真珠は俺が連れて行く」
それだけ伝えた貴志は、美容室へと続く廊下を進んでいった。
わたしはその間、一言も言葉を発することなく、貴志の身体にしがみついていた。







