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【真珠】父の追及、母の声 後編


「旧姓が、藤ノ宮って……まさか……」


 父の頭の中には、先ほど結納の席にいた仲人夫妻の姿が思い描かれているのだろう。



「政治家の……現内閣官房長官・藤ノ宮喜助氏の娘さん。いまは久我山コンツェルンの米国支社長夫人兼、医師──立派な肩書きを持つ女性だよ」



 母が結納の執り行われる部屋に入った直後、急激に体調を悪化させた理由に行き着いた父は、言葉を失った。


 葵衣の両親である藤ノ宮夫妻と顔を合わせることによって、母の中にあった過去の苦い記憶がよみがえった可能性に気づいたからだ。


 克己氏の言葉は、更に続く。


「当時の僕は、葵衣さんとの面識もなかった──『天球』の『クラシックの夕べ』で、妻を含めた三人が、小さかった貴志くんの世話を焼く姿を遠目で見ていただけなんだ……あの頃は僕も、色々と複雑な心理状態だったから……」


 そう口にした克己氏は、懐かしそうな眼差しを見せる。過去の出来事を思い出しているのだろうか。


 それにしても……美沙子ママが──いや、それだけではなく克己氏も、『天球』で毎年開催されている『クラシックの夕べ』に参加していた時代があったとは。


 正直に言うと、驚きを禁じえない。


 そういえば以前、祖母の兄である千景(ちかげ)大伯父から、『天球』の森に林立する宿泊棟の各部屋に設置されたアップライトピアノは、鷹司一族経営の『TSUKASA』から提供されていると聞いたことがある。

 加えて、美沙子ママは月ヶ瀬の血を引くというだけではなく、星川リゾートを経営する葛城家の血縁者でもあるのだ。


 その繋がりで、母と克己氏が『天球』を軸にして幼馴染の関係を築いていたと言われれば、なるほどと頷ける。

 整理して考えてみれば納得できるのだが、親世代の相関関係までは頭がまわっていなかったのだ。


 この克己氏が紅子の夫だということは認識していたが、そんなに幼い頃からの母と付き合いのある人物であったことは正直思いもよらなかった。


 なによりも一番驚いたのは、克己氏が母だけではなく葵衣についても知る人物のひとりだったことだ。


 ──まったくの盲点だった。



 そこで、今まで静かに話を聞いていた貴志が口を挟む。

 自分が巻き込んだことで姉夫婦の仲を険悪にさせてしまったことを詫び、妊娠初期の母の体調を気遣う余裕すら持てなかった非を謝罪したのだ。


 わたしが知らぬ間に貴志と父の二人は、この事態をどうにか解決するために協力関係にあったことが、その会話の端々から伝わった。

 たとえ収穫がなかったとしても、その気持ちだけでも充分感謝に値する行動だと思う。



 そう言えば、最近の両親が見せる、人目を憚ることのない仲睦まじさ故に、つい忘れてしまいそうになるのだが、彼らは長年の誤解を解いて、その夫婦仲を修復したばかりだ。


 その状況のなかで、よくぞここまで踏み込んだ質問を母に繰り出してくれた──と、父の勇気に対して、自然と頭が下がる。



 貴志と父の話が落ち着いたところで、今度は克己氏が口を開いた。


「誠一くん、色々と苦悩しているところを申し訳ないんだけど、ひとつ──これだけは、美沙ちゃんの名誉にかけても訂正しておきたい。

 僕と彼女が交際していた事実はないよ。美沙ちゃんの初恋相手の名前は、僕の口からは言えないけれど……気になるのなら遠慮せず、美沙ちゃん本人に直接訊いたほうがいい。君たちは夫婦なんだから、きっと問題なく話してくれるはずだ」


 いくら昔のこととはいえ、初恋相手に関しては美沙子ママのプライベートな問題だ。

 だから母の『初恋の君』を知る克己氏も、本人以外の人間がこの場で口にするのをよしとしなかったのだろう。


 もどかしくはあるが、克己氏の判断は、おそらく正しい。


 母だって自分の預かり知らぬところで、自分の過去の色恋沙汰を語られたくはないだろう。いくら克己氏が幼馴染みだったとは言え、愛する夫に向けてなら尚更だ。



 そう思えるようになったのは、伊佐子の心に深い闇があったから。


 平たく言うと──弟を好きなのかもしれないと勘違いしていた過去は、自分の恋愛無能ぶりを露呈する黒歴史であるが故、今となっては忘れたい記憶なのである。


 そう……あれは多分、自分の想い違いだ。

 いや! 勘違いでなくては、いけない想いだ。

 そうでなければ、尊とルーカスの仲を応援しようなどという考えは起きなかっただろう。



 伊佐子の記憶を思い出していたところ、今度は克己氏の声に意識をさらわれた。

 常に穏やかだった彼の口調が、突然、そのトーンを低く変化させたからだ。


「それよりも、気になるのは──楽器を隠したって……美沙ちゃんが? 本当に?」




    「──本当よ」




 背後から割り込んだ声に、わたしの心音がドクリと跳ね上がった。




 迷いのない響きを宿した女性の声に、祖母の姿が重なった。

 けれど、この声の主を祖母とするには、(いささ)か若過ぎる。



 薄目を開けた状態で、声の届いた方向にゆっくり視線を移動させると──


 そこには──ワンピースに着替えた母の姿。



 その母の隣には、なぜか藤ノ宮紫織(ゆかり)が控えている。


 彼がなぜ美容室にいたのか、その理由はわからない。

 だが、体調不良の母を気遣った紫織が、廊下で待つ家族のもとまで付き添ってくれたことは察しがついた。


 母は、紫織から()()()のだろうか──「このホテルに葵衣が来ている」と。




 焦燥感を伴ったピリピリとした痛みが、心のなかを走り抜ける。

 万事休すとは、この事態を指す言葉で間違い。



 今の母から醸し出される雰囲気に、最近の彼女が見せるようになった優しげな気配は微塵もない。


 祖母を彷彿とさせる凛とした声音と眼差しに、その心のすべてが表れているような気がした。



 大きな覚悟を決めた人間が見せる、毅然とした態度。

 怯えるでもなく、取り乱すでもない、迷いのない声。



 ──嗚呼、何かが動く。


 わたしは漠然と、そう感じたのだ。




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