【真珠】目そらし反応、継続中
あれ?
ちょっと待って。
今、母は、わたしを貴志に預けようとしていなかったか?
していた……よね?
──それって、貴志と二人きりになる、ということでは!?
わたしの心の中に、妙な焦りが生まれる。
普段だったらウキウキワクワクの喜ばしいシチュエーションであるのだが、今日だけは違う!
この心模様で、二人きりになるのは非常に──気まずい。
でも、待って?
結納って普通、自宅でするものではないのか!?
伊佐子時代には縁もゆかりもなかった慶事だが、日本の文化について学んだ本には、そのように記されていた記憶がある。あの本の情報が間違っていたのか、それともかなり古い年代の情報だったのか?
焦りと共に脳内倉庫情報を訂正し、上書き完了後にハタと気づく。
──いやいや、月ヶ瀬家の家格的に言って、ホテルの簡易結納パックのような物を利用しても許されるの?
首を傾げたところ、インペリアル・スター・ホテルの創業のあらましを思い出したわたしは息を呑んだ。
──そうじゃない。
インペリアル・スター・ホテルだから、だ。
あそこは、月ヶ瀬グループが星川リゾートとの将来的な合併を見据えて資本提供し、経営は星川リゾートに任せるという特殊形態にて運営されているホテルだ。
星川リゾートを引き継ぐ貴志と、月ヶ瀬の子女である真珠が婚約を交わすには、対外的に見てもうってつけの場所。
間違いなく最適の地──なのだ。
頭の中は大人の思惑を冷静に判断し、情況を読んでいたわたしなのだが、そうも言っていられない心理状態に追い詰められる。
母と祖母の二人が、わたしを貴志に預ける計画を着々と纏めて上げていったからだ。
これは『逃げ』だと分かっているけれど、貴志と面と向かうには、もう少しだけ時間が必要だ。
自分の気持ちを整理するまでは、僅かな時間もいいから待ってほしい。
今の気持ちのまま二人きりになったら、どうしていいのか分からずに、不要な発言をしてしまう可能性も高い。
だが、母も祖母も、まさかわたしが貴志と一緒に過ごすことを嫌がっているなどと微塵も思っていないため、どちらかと言うと『真珠が喜びそうね』という判断のもと、話を進めている節さえ見える。
今迄、わたしが貴志に懐きまくっていた状況が、功を奏してしまったと言うべきなのかもしれない。
案の定、祖母はこちらを見ると「貴志と一緒で嬉しいわね」と嬉々として笑いかけ、母に至っては貴志に向かって「飲酒は禁止。飲むなら『聖水』」と既に注意事項を伝え始めていた。
この心は完全に置き去り状態なのだが、あれよあれよと言う間に、この身体は貴志に引き渡されることが決まってしまった。
このままでは、本当にホテルに連行されてしまう。
二人きりの夜も、今日ばかりは嬉しくない。
いや、その前に、車中での貴志と二人の時間を、どうやって切り抜けたらいいのだろう?
心が落ち着くまで、兎にも角にも、二人だけにはなりたくない。
子供じみた理由なのかもしれないが、わたしに感化された幼い『真珠』の心もザワザワと揺れている。
如何ともし難い状況へと追いやられた心がこの口を支配し、そこから勝手に言葉が飛び出すまでに、そう時間はかからなかった。
イッパイいっぱいのわたしに、放つ言葉に配慮する余裕など、勿論ある筈もなく……ほぼ絶叫に近いかたちで──
「いや!──貴志と二人きりは、絶対にイヤ!!!」
──と、口走ってしまったのである。
わたしの叫びを聞いた貴志の雰囲気が、一変したような気がしたのは多分、勘違いではないと思う。
彼の座るソファ近辺から漂う冷気を受けて、我に返ったわたしは、マズイ言葉を吐いてしまった予感を薄々感じながら、自分の口にした科白を思い出す作業に入った。
あ……れ?
ちょっと、待て。
これって、貴志に対する、完全なる拒絶と受け取られかねない物言いだったのでは?
サーッと血の気が引いたところをタイミングよく『不穏当な慣用句』がよぎり、わたしの身体はピシリと凍りついた。が──時既に遅しだ。
まさしく、『あとの祭り』とは、コレを指すのだろう。
完全に思考停止状態になったわたしに向かって、貴志の声が優しく呼びかける。
その声音は理解不能なほど明るく──何故か、猫なで声のようにも聴こえた。
「──真珠」
意味の分からない上機嫌な声ほど、オソロシイものはないのだと、生まれて初めて理解したわたしだ。
彼からの呼びかけに返答できず、わたしは母の身体にしがみついた。
貴志の顔を、見ることができない──ものすごく、怖くて。
その声は、わたしの背筋に得体の知れない悪寒を走らせるのに、充分な効力を発揮した。
底冷えする空気の発信源は、間違いなく──貴志。
わたしの拒絶のほどが、彼にも否応なしに伝わってしまったのだと思う──その、真意は伝わっていないだろうけれど。
貴志からの呼びかけに返答もできず、母の影に隠れるわたしの目の前に、彼の大きな手が差し出された。
冷や汗を流さんばかりの気まずさに、俯くわたしの視界を埋めた貴志の掌──いつもであれば、頬ずりするほど大好きな彼の手だ。が、それを凝視し続けるわたしは、未だ目逸らし反応、継続中。
凍りついたように動かないわたしに向かって、痺れを切らしたのか、貴志が更に優しい声で語りかける──まるで、聞き分けのない子供を諭すような口調だ。
「真珠──来年には『お姉さん』になるんだろう? お前の『お母さま』に無理を言って、困らせてはいけない。そこは分かるな?」
貴志の確認に答えることなく、わたしは貝のように沈黙を貫く。
いや、ただ単に怖くて声が出せないだけなのだが、そんなことは貴志に伝わらないだろう。
「──真珠」
再び名前を呼ばれたわたしの喉が、今度はうっかり「ヒイッ」という声を洩らしてしまう。
貴志の穏やかな声音は却ってわたしの心を戦慄させ、それ故に起きてしまった事故のようなものだ。
貴志は満面の笑みを、あの眉目秀麗な顔に刻んでいる予感がする。
だが、これだけは確信できる。
──目は、絶対に、笑っていない!
どこか嘘くさい、演技じみた貴志の声を聞いた直後、わたしの全身から変な汗がブワッと吹き出した。







