【真珠】激情と孤独の『ソナタ』
参考音源のリンクは、後書きにございます。
興味を持っていただけると嬉しいです(*´ェ`*)
紅子に顎で指示をされ、貴志は文句も言わずにチェロの準備をはじめる。
荒ぶる紅子の心は、貴志に何を弾かせようとしているのだろう。
「貴志──お前が去年の『クラシックの夕べ』で、理香と共に弾いたあの曲だ──あれを頼む」
「──ショスタコーヴィチ……」
貴志は小さく呟くと、紅子の頼みを、素直に受け入れた。
去年の『クラシックの夕べ』──『真珠』も祖母と兄と共に『天球』に滞在していたはず。
けれど、『真珠』には貴志と理香が演奏したというショスタコーヴィチの曲の記憶はない。
もともと顔の判別もつかない奏者たちの演奏に加え、音楽に対して特別深い興味を持っていたわけではなかった『真珠』──四歳の頃の記憶なんて、そんなものなのかもしれない。
先ほどまで音楽ルームにこもって、ひとりチェロと向き合っていた貴志。
既にチューニングは済んでいたのか、譜面台の上のタブレットで、去年理香と共に弾いたという曲のスコアを確認しているようだ。
紅子は、貴志の準備が終わるのを待つ間、指慣らしのために鍵盤を鳴らす。
既に、やり場のない思いを音色にぶつけているのか、流れる響きから複雑な感情が伝わる。
──この合奏は、かなり荒れそうだ。
二人が演奏しようとしているのは、ショスタコーヴィチが著した、唯一のチェロソナタ。それは、紅子がピアノを叩く音色で確認できた。
チェロソナタ ニ短調 作品40 第二楽章アレグロ
- Sonata for Cello & Piano in D minor, Opus 40, 2nd Movement -
ドミートリィ・ショスタコーヴィチ──旧ソビエト連邦時代に生きた彼は、社会主義への迎合とも反目とも受け取れる数々の名曲を、世に送り出した作曲家だ。
チェロ奏者クバツキーと、作曲をした本人であるショスタコーヴィチのピアノでの演奏が、このソナタの初演だったはず。
ショスタコーヴィチらしい、暗い情感を漂わせる旋律に、ワルツのような調べが融合し、スケルツォ的な側面をも併せ持つ第二楽章。
ハーモニクスを効かせたグリッサンドによるアルペジオが、チェロパートの演奏を聴覚だけではなく視覚的にも引き立て、見るものを惹きつける。
貴志と紅子の間に、張り詰めた空気が漂い始める。
──ああ、演奏が始まる。
わたしは音楽ルームの入り口に立ったまま、扉も閉めず──胸元で両手を組んだ。
彼らの持つ緊張感が、聴き手であるわたしにも、否応なく伝わる。
肌の上を、ビリビリと刺すような空気が這いまわり、演奏開始以前から、二人の世界に魅せられていることに気づく。
弾き出しの楽器は──チェロ。
貴志の腕から、警告音とも受け取れる旋律が生み出された。
機械的な反復。
上下する音は、感情の揺れを表すような──悲劇の物語の幕開け。
緩急の効いた音の波が、どこか無機質に感じるのは何故だろう。
感情を押し殺すように、けれどその激情は隠せる訳もなく──その音は、この場の空気を冷たく振るわせる。
怒りを隠し、自制しようと耐える音色は、先ほどの貴志の様子そのものだ。
その秘めたる感情を曝け出せと、ピアノの音色が貴志を襲う。
紅子は、その心の内に宿る熱情を隠しもせず、「荒れ狂え!」とチェロを唆す。
その猛りの渦に、彼のすべてを引き摺り込もうと、確実に罠を仕掛けていく。
チェロとピアノの音の攻防だけではなく、奏者の心の在り方に対する戦いが垣間見えた気がした。
ピアノの咆哮を受け、抑圧された激情を顕にするチェロ。
力強いピッツィカートが弾けた。
自らに同調するよう転じたチェロの旋律に、ピアノは慟哭し、嘆きの声で歌う。
ピアノが放つ、怒涛の旋律。
その猛りを慰めようと、チェロが寄り添う。
彼女の心を慮るグリッサンド──貴志の親指がハーモニクスで弦の上を滑る。
チェロの想いを受けたピアノは激情を抑え、優しげな囁きへとその音を変えていく。
貴志の爪弾く音色が紅子の心を宥め、対話を促す歌を紡いだ。
穏やかな語り口調にも似た、弦による音の連なりに、ピアノの音色は過去を思い出し──微笑みを見せる。
──けれど。
過ぎ去りし、温かな時を嘲笑うは、無情の調べ。
チェロの裏切りは、非情なる現実を突きつける。
再び感情を隠した弦の響きの訪れに、ピアノは悲嘆に──咽び泣く。
自らの孤独を嘆くピアノの漣は、助けを求め、手を伸ばす。
冷徹と激情の狭間で揺れ動き、互いを手繰り寄せようとする演奏は、一度聴いたが最後──その心を捕えて離さない。
チェロとピアノが競うようにして作りあげる相剋の曲は、複雑な人間の心模様を表している。
──そう感じるのは、わたしだけだろうか?
仲の良かったという、母と葵衣と紅子。
共に音の高みを目指した仲間が、愛する音楽に背を向け、去っていくさまを──紅子はどんな思いで……見送ったのだろう。
『友と奏でる幸せを、ハルにも知ってもらいたい』
『天球』で、わたしにそう語った紅子。
彼女はどんな想いで、その言葉を、口にしたのだろう。
紅子にとって、母と葵衣と共に過ごす時間は『喜び』其の物だった──その想いは、彼女が爪弾くピアノの音色に刻まれ、わたしの心に濁流となって流れ込む。
紅子の幸せは──友と奏でた思い出の時間は、二人が去ったことによって、永久に失われてしまった。
けれど、諦めきれない想いが彼女を奮起させ、『天上の音色』と称される場所へ、駆け上がる原動力になったのかもしれない。
晴夏に対して、あれだけの慈愛を注ぐ紅子のこと──親友二人が仲違いをしたその場に、自分が居合わせていたならば──と、何度も、何度も、悔やんだに違いない。
二人の奏でる音色が、主題へと戻る。
悲しみと怒り、そして己の不甲斐なさに苛立つ調べが、この心に広がっていく。
仲間を失い、それでも歯を食いしばり、邁進し続けてきた彼女の時間の全てが、この曲に集約されているような気がした。
嗚呼、そうなのか。
紅子は常に──ひとり残された孤独と、戦っていたのかもしれない。
その痛切なる想いに、涙が零れそうになったその時──両肩に暖かな温もりが加わった。
わたしはビクリと身体を揺らし、驚きの表情で左右を確認する。
そこには、昼寝から覚めた兄と晴夏が、わたしの身体を支えるようにして立っていた。
刹那──激しいピッツィカートが室内に木霊し、激情のソナタは幕を下ろした。
孤独を嘆き、悲嘆に暮れたのは、紅子の心だったのか──それとも、この曲が見せた幻なのか──真実の程は、分からない。
入り口に佇む、子供三人に気づいた紅子が、穏やかな笑顔を見せ──こう言った。
「お前たちの奏でる音色が、色褪せることなく輝き続ける未来を──わたしは願わずに……いられない」
兄も晴夏も、彼女が何について語っているのか、本当の意味で理解してはいないだろう。
彼女は、自分が失った幸せの時間と、深い悔恨を胸に──これから花開くであろう子供達の未来に向け、激励の言葉を贈ったのだ。
──わたしは、そう、理解した。
…
紅子が伸びをしながら、ピアノの蓋を閉めた。
貴志は無言でチェロを磨き、弓を緩めるとケースの中にしまっていく。
彼らが楽器の片付けをしていたところ、母と祖母が帰宅したのか、玄関先が騒がしくなった。
扉が閉まる音が廊下に響き、次いで祖母の声が家中に轟いた。
「貴志! どこにいるの! 居間にいらっしゃい! さっきお父さんから連絡がありましたよ! 一体どういうことなの!? 他所様の大切なお嬢さんに、我が家の中で……なんてことを!」
ん?
慌てていると言うよりは、怒っているような声音だ。
貴志は目を閉じると、頭を抱え、唸るような声で呟く。
「だから、違うと、何度も言っただろう……いい加減にしてくれ」
溜め息をつきながら貴志が出ていくと、すれ違うような形で、母が音楽ルームに現れた。
「紅子、帰宅時間が遅れてごめんなさいね。悪いけど、こっちで子供達とおやつでも食べていてくれる? いま木嶋さんに頼んできたから──ちょっと……子供達に、聞かせられるような内容じゃないのよ」
溜め息をつきながら、母は紅子にソファを勧めた。
途端に瞳を輝かせた紅子は、身を乗り出して、母に問う。
「ちーちゃんの激怒の声を、久々に聞いたぞ。何だ? 貴志は、何か、やらかしたのか?」
これは面白そうだ!
ワクワクするぞ!
紅子の目が、そう語っている。
ちなみに、紅子がちーちゃんと呼ぶのは、我が祖母・月ヶ瀬千尋のことだ。
わたしは、紅子の楽しそうな様子に安堵すると共に、なんとなくではあるが、ガックリと肩を落としてしまう。
紅子には元気な姿が、確かに一番よく似合う。
それは、分かっているのだが、先ほど──紅子の心に涙しかけ、感傷に沈んだわたしの貴重な時間を返してほしい、とうっかり思ってしまったのだ──割と、切実に。
母がわたし達をチラッと盗み見た後、小声で紅子に耳打ちしている。
が、残念ながら、バッチリ聞こえた。
「詳しいことは分からないんだけど、お父さまから結納の準備中に連絡があって……貴志が女の子を連れ込んだらしく、キズモノにしたとかしないとか──」
ふお!?
なんだそれは!
そんな時間が、どこにあったのだのだ!?
わたしは茫然としながら、二人の会話に耳を傾けた。
素敵な曲なので、是非聴いてみてください!
"Shostakovich: Sonata for Cello & Piano in D Minor, Op. 40. Santiago Cañón - Valencia & Naoko Sonoda"
https://youtu.be/DBYoug7MTZQ
(第二楽章は 8:45 から)
グリッサンドのアルペジオは、貴志はこちらの動画のように親指で弾きましたが、3の指(薬指)で弾くほうが楽だったりします。(個人差もありますが(;・∀・))
"Shostakovich Cello Sonata opus 40, Rostropovich Britten 2. movement: Allegro"
https://youtu.be/pzd03FHcabk
↑こちらは第二楽章のみの音源になります。Rostropovich氏の演奏になります♪
ご紹介しましたこちらのソナタ、気に入っていただけましたでしょうか?
なかなかいいなと感じた読者様のプレイリストに加えて、楽しんでいただけたら嬉しいなと思います(*´艸`*)
■宣伝■(2021/9/26追記)
美沙子と葵衣が音楽から離れてしまった頃の紅子の様子は、こちらのスピンオフ物語にて描かれております。(ヒロインは紅子。主人公は鷹司克己:晴夏父)
『くれなゐの初花染めの色深く〜僕が恋と気づくまで、君が恋に落ちるまで〜』
https://ncode.syosetu.com/n1747hc/







