椎葉伊佐子と乙女ゲーム
ここは、間違いなく恋愛乙女ゲーム『この音色を君に捧ぐ』の世界なのだろう。
何故、間違いなくと断言できるのかというと、客観的な事実と言うよりは感覚的な…なんというか本能的な部分が大きかった。
頭では「ありえない」と否定するのだが、心はその混乱に反して事実と受け止め、次第に凪いでいった。
納得するというよりは、欠けていたパズルのピースがストンと嵌ったような感覚。
そんな現実離れした出来事に馴染んでしまう自分の頭を疑いたくもなるが、抗いようのない現実として、頭ではなく心が理解したという状態だった。
『この音色を君に捧ぐ』とは、ファンの間では略して『この音』と呼ばれる恋愛乙女ゲームで、アニメーションになるほど爆発的な人気を誇り、一世を風靡した音楽系恋愛攻略ゲームのタイトルだ。
私――椎葉伊佐子は、小さい頃から父親の仕事について、家族四人で海外帯同生活を送っていた。
英語で苦労した幼少期を過ぎ、小学校中学年に差し掛かる頃になると、今度は母国語の言語能力があやしくなるという崖っぷちに立たされた。
そんな私に対し、頭を悩ませた母親が見つけたのが『この音』だった。
後から母親に聞いたことだが、日本語教育にと半ばヤケ気味で与えられたゲームだったらしい。
漢字? ナニソレ?
日本語? 文章書けませんが、何か?
――という日本人としてのアイデンティティを失っていく私に危機感を覚えた母が探し出したこのゲームは、我が家に一筋の光明をもたらすこととになった。
壊滅的になりつつある日本語能力の補助と、小さい頃から習っていたバイオリンに少しでも興味を持ってくれたら良いな、という母の苦肉の策で与えられたゲームは、果たして見事に効果を成した。
平たく言うと、それはまあ、見事に嵌った。そう、ゲーム沼にドロッドロに墜ちたのだ。
小さい頃から見ていたスポンジ・○ブや、カー○ゥーンとはまるっきり違う、日本の絵師さんの描く美麗で精緻な絵にまずノックアウトされた。
美しくも魅力的なキャラ達の心の機微に、こんな繊細な物語があるのか! と心酔した。
なんと言っても、真摯に音楽に向き合い、己を高めようと努力するチェロ奏者の主人公の少女の生きる姿勢が素晴らしかった。
更に、この主人公がナント! 帰国子女なのだ。
主人公がアメリカから親の仕事の都合で日本に本帰国し、私立愛音学院高等部音楽科に入学するところからゲームはスタートする。所謂テンプレの学園恋愛物だ。
自分の状況との類似点を見つけ、親近感を覚えたのがこのゲームにのめり込む切欠となったのは言うまでもない。
よくぞ私の琴線に触れるゲームを探し出してくれた! と母には足を向けて寝られないと心底思った。
年子の弟も何故か興味を示し、時々、あやつめもこのゲームで遊んでいたことを、わたしは知っている。
話がそれたが、そんなこんなで、もっと日本語を理解して、このゲームの真髄を極めたい。
主人公のように真摯に楽器に向き合って己の限界を試したい。
オタク気質のあった私は、ゲームだけでなく日本語にも音楽にものめり込んでいった。
母親は、なんてチョロい、と思ってほくそ笑んでいた事であろう。
そして、高校は日本に帰国子女受験で戻って、主人公のように高スペックな人間になるんだ!――と鼻息も荒く日本語にも現地校の勉学にも勤しんだ――が、父親の駐在期間は思いの外長くなり、高校まではアメリカで義務教育を受けることになってしまったのだ。
私一人でも日本に帰り、華々しく帰国子女デビューをし、憧れの女子高校生生活を送る! と息巻いていたが、費用という避けては通れぬ現実に直面し、日本の高校への進学を断念するという苦渋の決断も迫られた。
齢13にして、世知辛い世の中の構造と、この世の悲哀を知ることとなった。
まあ、そんなこともあったが14歳でミドルスクールを無事卒業。多くの同級生と共に同学区のハイスクールに進んだ私は、毎日課される宿題とレポート、更にはバイオリンと外部ユースオーケストラのリハーサル、さらにはコンペティションの準備に追われに追われ、睡眠時間をガリガリ削るという辛くも厳しい四年間のハイスクール生活を送ることになった。
そんな過酷な毎日を過ごした青春時代。
私の唯一の息抜きが乙女ゲーム――その中でもマイ・ベスト・オブ・ベスト乙女ゲームが、何を隠そう『この音色を君に捧ぐ』だったのだ。
『この音』で主人公が攻略する対象は数人に及ぶ。
その中の一人が、真珠の兄・月ヶ瀬穂高。
我儘で自己中心的な母親と妹・真珠を身近に見て育った弊害で、極度の女嫌いになった孤高の美青年。
『主人公』は、穂高の女嫌いというトラウマを癒やすことにより攻略を成し遂げるのだ。
穂高のスペックもハイレベルだ。
ピアノの腕前はプロ級ながら、特進科という勉強猛者の集まる学科で主席。更に数カ国語を完璧に操るという、さすが乙女ゲームの攻略者という仕様。
しかも、日本有数の大財閥月ヶ瀬の御曹司。
更に株のトレーダーとしてひと財産を築いているという、現実にはあり得ないような完璧キャラだ。
と言うか、高校生でそんな完璧男子が現実にいたら、正直怖くてお近付きにはなりたくない。
が、このゲームにハマったのは小学校の時なので、素直に、
高校生すごーっ!
男子高校生おとなー!
かっこいー!
などと、目をハートにして礼賛し、攻略サイトの絵をニマニマしながらスクショしては、携帯の待受画面にしていた過去がある。
ちなみに穂高はメインヒーローではない。
よく考えると、攻略対象は「悪役令嬢・月ヶ瀬真珠」の幼馴染ばかりだ。
真珠が主人公にイジワルの数々を打ち出したのは、ポッと出の主人公に小さい頃からの幼馴染を奪われてしまう焦燥感からの行動だったんじゃないかな、と今では思うが、主人公としてプレイ中は、幼い正義感から悪役令嬢を毛嫌いしていたのだ。
…
そんなことを思い出していた時に、己の身に起きた直前の記憶が甦り、凱旋コンサートを思い出す。
今の「わたし」月ヶ瀬真珠がここにいるのが夢ではなく現実なのだとしたら、あの「私」椎葉伊佐子はどうなってしまったのだろう。
凱旋コンサートには、アメリカから一時帰国中の両親が訪れていた。
日本の大学院に交換留学中の弟も友人達と祝いに駆けつけてくれた。
コンサートを勧めてくれ、独奏曲まで提供してくれた恩師も、あの客席にいた。
恩師は、台湾で開催された音楽家の卵達へのマスタークラスの合間を縫って、わざわざ日本に足を伸ばしてくれたのだ。
椎葉伊佐子の人生は、あの後どうなったのだろう。
暗い気持ちに心が沈みかけた時、暖かいぬくもりが両手を掴んだ。
誰かが、泣きながら「わたし」の名前を呼ぶ。
遠くから届くように感じた呼びかけは、次第に大きくなっていった。
「真珠っ 真珠!」
――と。
頬に降り注ぐ温かな水滴は、おそらく涙だろう。
わたしは微かに残る頭痛と戦いながら、ゆっくり目を開けていく。
視界がぼんやりとかすんだ。ゆっくり瞬きをすると、途端に水分が目から溢れ出す。
(ああ、わたしも泣いていたのか……)
瞼が熱い、ずっと泣き続けていたのだろう、両目とも腫れているような感覚がある。
この頭痛は泣き過ぎたせいなのかもしれないな、と冷静に状況判断している自分にも気づく。
暖かさを感じた手元を見ると、その近くに泣き腫らした穂高少年の顔があった。
ああ、「この現実」も伊佐子の世界とは「違う現実」なのだ。