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【真珠】『無題 - For Isako - 』


「真珠クン。落ち着いたかな? 怖いことを思い出させてしまったようで、すまなかったね」


 早乙女教授がホットミルクを作ってくれた。

 中には蜂蜜が入っているらしく、その甘さと温かさが、心の隙間を少しずつ埋めていく。



「葛城クンからきいて心配していたんだけど、ちょっと手と腕を見せてくれるかね?」



 わたしは早乙女教授の言葉に素直に頷き、カップを置く。



 早乙女教授は「なるほど。うんうん。そうかそうか」と一人で納得しながら、わたしの指先と腕を確認した。



「コンクールの後は、どんな練習をしていたのかね?」



「毎日スケールを……音階をメジャーとマイナーですべて通して練習していました。それだけです」



「そうか。うん。それでいい。ここ……痛いだろう?」



 手首の腱に沿って、早乙女教授が指さす。


「……はい……」


 教授は頷きながら、言をつなぐ。


「キミが弾いたあの曲ね――あれは熟練の奏者が、全身全霊をかけて弾く曲なんだよ。何年も何年も努力して、バイオリンを弾くのに適した骨格を作り、そこに奏者としての筋力をつけ、体幹を鍛え、基礎を何度も何度も繰り返して、やっとたどり着ける――そういう曲なんだ。」


「……はい……」


「どうしてキミがあの曲に出会ったのか、なぜ弾いたのか、そこはキミにしかわからないことだ。でもね、今のキミの身体はまだ小さな新芽なんだ。これから奏者として、大地に根を張って枝葉を伸ばし、花を咲かせる、その準備の期間なんだよ。だからね、今無理をしてはいけない。それはわかるかな?」


「……はい……」


 早乙女教授は、ひとつひとつ諭すように語りかけてくれる。


 バイオリニストとして成功する人は、小さい頃からバイオリンを習っている人が多い。


 勿論例外はいるが、まだ骨の柔らかい子供の頃からバイオリンを弾くに適した骨格を作り上げ、そこにしなやかな筋力を積み重ねていく。


 バイオリンを構えて演奏する姿勢は洗練されて美しく見えるが、その実、誰もが自然にとれる体勢ではない。


 指全体の形と、弦を押さえる指の位置、指盤上で弦に触ることなく待機する指の位置、そしてその間隔にも気を配らねばならない繊細な楽器だ。



 子供の頃、バイオリンを顎と肩だけではさむ不自然さと、左腕を曲げて指盤の上の弦を押さえることが大変だった。


 肩の力を抜かねばならないのに、それができずに苦労した。


 左手の親指に力が入ってしまい、ポジション移動がスムーズにできなかった。


 右手で持つ弓を、持ち上げ続ける筋力が足りず悔し涙を流した。


 弓を動かす滑らかな指と手首の関節の扱いが満足にできず、何度も何度も試行錯誤を重ねた。




 数え上げたら切りがない、終わりのない修正と調整に明け暮れる毎日を送っていた。


 それは今でも変わらない。

 一日一日が自分の限界への挑戦だった。




 真珠の――今の五歳のわたしの身体ではあの曲は弾けない。




 毎日の練習の積み重ねによって獲得できる身体能力を無視し、まだ未熟な幼い身体を酷使したのだ。


 その結果、あのコンクールで無理をした身体は悲鳴をあげた。


 まだわたしの身体はバイオリン奏者として出来上がっていない。


 自分の身体の状態に気づけずに、あの舞台で全身全霊をかけてこの曲を弾いてしまったのだ。

 

 ステージ上で感じた、自分の身体の頼りなさを今更ながらに思い出す。



 身体がいつものように動かず、筋力が足りないような、指がもつれるような違和感と、妙な焦りを感じた、あのコンクールを――




 わたしは恐らく腕を痛めたのだろう。


 

 これは腱鞘炎の痛みなのだと思う。

 それも軽くはない。



 手元に自分に合うバイオリンがなかったこともあって、曲は弾かず、ただひたすら音階のみを練習し続けた。


 いま無理をして、前世の自分が毎日のように繰り返した十冊以上に渡る教本の練習曲を弾くわけにはいかなかった。




 伊佐子と同じ練習量をこなせば、前世と同レベルの演奏を二度とできなくなる可能性を恐れて――



「早乙女教授、わたしはまたあの曲を弾けるようになるのでしょうか?」


 自分の手首をおさえつつ、わたしはそう訊ねる。


「いまは身体を作っていく段階なんだ。だから、今は腕の痛みを治して、そこから始めよう。必ずまた弾けるようになる。大丈夫だよ。安心しなさい。ね?」


 教授の穏やかな声に安堵して、わたしは嗚咽を漏らした。


「わたし……また一から努力します。そして……あの曲をまた弾きます。必ず」


 好々爺の笑顔で、嬉しそうに教授は笑う。




「そうだね。約束しよう。必ず弾けるから。ああ、そうそう、これね。そんなキミにプレゼントだよ」




 教授がわたしにレターサイズの封筒を渡してくれた。


「これ……は?」


 わたしは首を傾げる。


「まあ、あけてごらんなさいな」


 わたしはゆっくりその封筒の中に入った数枚の用紙を取り出す。




 ――楽譜だ。


 その譜読みを始めた途端、わたしは息を呑んだ――




「キミがあの舞台で弾いたあの曲だ。キミが倒れるまでの部分しか譜面起こししていないけれどね。この続きは……まだあるんだろう? そうだね、そのうち……一緒に譜面にあらわしていこうか?」



 わたしはその楽譜を大切に抱きしめた。



 早乙女教授にお礼を伝えたいのに、その言葉を紡ぐことができない。


 涙と嗚咽と色々な感情が混じりあって、声が出せないのだ――



「この曲のタイトルは何て言うんだい?」




「まだ……ありません。わたしがいつか自分でつけるようにと――ただし副題だけは『For Isako』にするように、そう……言われました。」




 副題は『伊佐子のために』――




 早乙女教授はニコニコ笑いながら、泣きじゃくるわたしの頭を撫でてくれる。


「いい子だね。うん、いい子だ。頑張っているよ。キミは。よく頑張ったね」


 そう言って優しく抱きしめてくれた。


「実はね、昨日キミのバイオリンの先生の詩織クン……香坂詩織クンと話をしてね。詩織クンもキミのことをとても心配していて、ほら彼女、いま学生の引率で海外にいっているでしょ? しばらくボクのところにキミを預けたいって言ってくれてるんだよ」


 わたしは顔をあげる。


「ボクね、今まで中学生以下の門下生をとったことはなかったんだけど……どうだろう、ここに通ってみるかね? ご家族との話し合いも必要だろうけど、もし、キミが望むなら、ボクのところに来てみないかい?」


「はい……っ はい! お願い……します!」


 声は呼吸が上手くできずに途切れ途切れになってしまった。

 けれど、わたしはこれから、また初めからやり直せるのだ。


「あり……がとう……ござい……ます!」




「真珠クン、音楽はね、曲はね『緊張と弛緩』によって作られているんだ。音楽だけじゃない、人の世の理もね――全てがそれの連続なんだよ。片方だけじゃ、音楽も人生も味気ない物になってしまう。今までキミは緊張の連続だったんじゃないかい? 心を……身体を……今は弛緩させることができたらいいねえ。」




 緊張と弛緩――




「はい……っ はい。早乙女先生、その教え……心に刻みます!」


 わたしは早乙女教授――先生、師となる人に向かい深々とお辞儀をした。


 途端に身体から力が抜け、倒れそうになる。


「……おっと」


 そう言って、咄嗟に貴志が後ろから抱きとめて、支えてくれた。



「バイオリン、せっかく持ってきてくれたようだけど、今日はキミの身体も疲れただろう? また今度是非、きみのフォームをみせてくれ。ね? まだまだ身体の小さなキミだ。今はもどかしく思うかもしれない、でもそれで良いんだよ。いつか全てが追いついて、気づいた時にはいつの間にかそのもどかしさは消えている。だから、大丈夫だ。さあ、もう、平気だね? うん、良い『目』だ」




 早乙女先生は、優しく笑って、また頭を撫でてくれた。





 わたしは「この世界」で、初めて―――心から笑えた気がする。




          …




 微かなざわめきと、人の気配が遠くからきこえた。


 身体に暖かなぬくもりを感じ、それを逃すまいとしがみつく。


 気づくとわたしは、貴志に縦抱きにされて電車の中にいた。


 穂高兄さまは、わたしのバイオリンケースを大事そうに抱えている。



 わたしは、泣きつかれて眠ってしまったのか。


「穂高兄さま……、ケースを持っていただいてありがとうございます」


「真珠、起きたの? 大丈夫?」


 わたしはコクリと頷き、心からの感謝の笑みを返した。


 途端にお兄さまは、顔を赤く染める。


 そしてその手を伸ばして、わたしの頬を撫でてくれた。

 あたたかい。



 まだ眠い。

 瞼が重い。



 わたしは貴志に抱き着き、彼から滑り落ちないように首に手を回した。そして――



「ありがとう……貴志……」



 感謝の想いを、彼の耳元で――そっと、囁いた。






攻略対象・親族編、あと少し、お付き合いいただけると幸いです。読んでいただいて、本当にありがとうございますm(_ _)m





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