【幕間・真珠】静かな夜 後編
「俺に触れられて──怖かったか?」
貴志の右手は宙に浮いたままだ。
彼から問われた意味が分からず、黙って様子をうかがっていたところ、貴志はその手を握り締め、わたしに触れることなく拳を引き戻していった。
申し訳なさそうな表情を見せる彼。
わたしは最初、何を問われたのか分からずにいたが、ようやっと理解する。
彼は先ほど、わたしを引き倒した件について「怖かったか?」と訊ねていたようだ。
わたしが貴志の動きを警戒したのは、その件とはまったく別件なのだが、その行動が彼に誤解を与えてしまったのだろう。
今度はわたしが慌てて手を伸ばし、貴志の掌をつかまえる。
ひんやりとした彼の手を引き寄せて頬擦りをすると、わたしの動きに驚いたのか、貴志は目を大きく見開いた。
「……どうしよう、とは思ったけど……怖くはなかった。わたしのさっきの動きで、勘違いさせちゃった? 警戒したのは、貴志から何か攻撃をされると思ったからで……その──ごめんなさい」
正直に言うと、酔っている彼の元にやってきたことを後悔もしたが──その裏には、期待も半分くらいはあった。どさくさに紛れて、触れてくれたら嬉しいな、とも思ってしまったのだ。
本当のことを言ったら、説教が始まってしまうのは間違いないので、胸の内は明かさないけれど。
あの瞬間は、自分が幼女だということを完全に忘れていた。そのことは認めよう。
貴志が「本当か?」と、気遣わしげに問いかける。
わたしは首肯しつつ、彼の手を胸の位置へと導いた。
昼間エルにしたように、貴志にも、この心音を聴かせようと思ったのだ。
「怖い時って心拍数が上がるけど──そんなこと、ないでしょう?」
貴志が安堵の表情をのぞかせたすぐ後、残念なものを見るような眼差しでわたしを見下ろした。更には、溜め息もおまけで付いてくる。
「お前は──幼いとは言え、無闇矢鱈に他人に身体を触らせるんじゃない」
昼間、夢の中──『太陽と月の間』にて、エルに同じような注意を受けたことを思い出し、わたしは苦笑する。
「さすが『友情の祝福』の間柄──エルと思考回路も似ているんだね。ちょっと……妬けるなあ」
貴志とエルの絆に対して、少しの嫉妬心を見せたわたしだ。
けれど、貴志が凍りついたように動かなくなり、怪訝な顔でわたしを見下ろしていることに気づく。
「ちょっと待て。何故、エルがそんなことを?」
「へ? 夢で会ったって言ったでしょう? その時、わたしは大人の姿になっていて、まあ、色々あって、胸を触ってもらったの。そうしたら……」
貴志が右手を額に当てて、唸っている。
理解不能なのか、非常に戸惑っているようだ。
「待て、大人の姿? なぜ、胸を?」
「えーと、わたしを、怖がらせない……ように?」
あれ?
いや、そうじゃなくて。
色々と言葉が足りないけれど、あれを一からすべて説明するには時間が必要だ。
さてどうしようかと思って、取り敢えずニコニコ笑顔を貼り付けておく。
これ以上、話せば要らぬ誤解を受け、更には墓穴を掘りそうな予感がした為、まずは順序立てて話をせねばと脳内情報を整理する。
が、説明する間も与えられず、貴志の右手がわたしの極上ほっぺを、ブニュッと掴んだ。
「ほぅ? その遣り取りだけは、詳しく話してもらおうか?」
貴志がにこやかに笑う。上部だけの似非紳士の笑顔だ。
目はまったく笑っていないから、怖い。
「どうしよう、貴志。やっぱり、お前が滅茶苦茶コワイ。えへへ……えへ」
ソロソロと貴志から離れ、這い這いの体勢で襖から廊下に向かおうとしたが、貴志によってフワリと持ち上げられる。
貴志の腕が腰に回され、軽々と抱きかかえられてしまったようだ。
敢えなく、逃亡は阻止された。
もう煮るなり焼くなり好きにしてもらおう。
そう諦めたところ──
「冗談だ。気にならないと言ったら嘘になるが、夢の中のことまで縛るつもりはない。明日は朝早いからな、もう寝るぞ」
抱えられたままの体勢で電気が落とされ、常夜灯のみの薄明かりが部屋に満ちた。
畳の上におろされたわたしは、布団の掛布を取り外す貴志の動きを黙って見つめる。
ひとりで就寝の準備をはじめる貴志に、置いてきぼりを喰らった格好になり、彼が床につくのならばわたしも自室に引き揚げなくては、と襖に移動する。
「真珠?」
背後から名前を呼ばれ、なんだろう? と振り返った。
貴志は布団の上に横になり、わたしのことを手招きする。
「へ? 一緒に寝て、いい……の?」
わたしの質問に、貴志が珍しくキョトンとした表情を見せる。
「寝ないのか?」
眠そうな目で、そう訊く貴志──睡魔が襲ってきているらしく、疲れている様子が伝わる。
大きな欠伸をする姿が、いつもの毅然とした様子とは真逆で、その無防備さに目が離せない。
わたしが客間にやって来てから今まで、彼の意識はしっかりしているように映っていたけれど、実は深酒でかなり酩酊していたのかもしれない。
疲れを隠すことなく見せる貴志のことを、再び「可愛いな」と思ってしまったのは内緒だけれど、わたしは満面の笑みでその腕に抱きついた。
「うん。一緒に寝る! お祖父さまにも『よろしく』されていたもんね?」
けれど、それに答える声はなく、貴志の口からは規則正しい寝息が返答の代わりに洩れ始めた。
今日も本当に色々なことがあった。
午前中と夕方に眠りこけていたわたしとは違い、貴志は心身共に相当疲弊していたのだろう。
貴志の髪を梳くと、彼は少しだけすり寄るような動きを見せた。
愛しさが増し、わたしは自分の顔を貴志に寄せ、その額にそっと口づける。
彼の寝顔を見つめ、温かな気持ちに浸った後、その腕の中にスルリと潜り込んだ。
貴志が寝惚けながら、わたしの身体を引き寄せ、この身を優しく包んでくれる。
耳元で「真珠」と囁くような寝言が聞こえ、目を向けると、彼の幸せそうな寝顔が視界を埋めた。
楽しい夢でも、見ているのだろうか──その口元にはうっすらと微笑みが浮かんでいる。
真綿に包まれるような柔らかな温もりが伝わり、触れた人肌がこの心に幸福感を呼び起こす。
先ほど、誠一パパの腕枕に感じた親子の情とは種類の違う、貴志からの深い愛情に抱きしめられ、満たされたわたしは彼の腕の中でゆっくりと瞼を閉じた。
今夜は、とても穏やかな夜だ。
…
深々と夜は更けていく。
それは、嵐の前触れにも似た静寂。
──静かな夜の出来事だった。
拙作のスピンオフ作品を公開いたしました。
(主要登場人物が脇役となって登場いたします。)
名前だけは作中に出ておりましたが、本作には未登場の
とある少年が主人公のお話です。
『氷の花がとけるまで』
https://ncode.syosetu.com/n8174gk/
本編では語られない、貴志が一時帰国を終えた後の真珠達の様子も後半に出てくる予定です(*´ェ`*)







