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【幕間・真珠】思い出の『あの曲』


「俺のチェロが──実父の……?」



 貴志はチェロをそっと撫でると、艷やかな表板を静かに見つめる。


 祖父は、ゆっくりとした動作で大きく頷いた。




 「そうだ──これはな


  正幸が何よりも大切にしていたチェロ──


  お前は、実の父親の『形見』に見守られ


  同じ音楽の道を──共に歩んできたんだ」




 わたしの立つ位置からでは、貴志の表情は窺い知れない。

 彼はどんな気持ちで祖父の言葉を聞き、どんな想いをその瞳に宿しているのだろう。



 祖父は貴志の背中に向かって、子供の頃の思い出を語り始める。

 今まで、貴志に伝えることのできなかった、彼の父親との思い出を──



「儂もお前くらいの歳までは、ピアノを弾いていたんだ。……音楽好きな一家でな、週末の団欒の時間には、よく皆で合奏をしたものだ。その中でも特に好きだったのは、正幸のチェロに合わせて母がバイオリンを弾き、儂がピアノ伴奏で合奏した『あの曲』──」



 あの曲──と言って、懐かしそうに目を細めた祖父は、何も知らずにいた幼い頃を──自分が養子だとは知らず、心穏やかに暮らしていた昔日を、思い出してるのだろう。


 温かな記憶が、祖父の口元を綻ばせる。


 時を超えて蘇った数々の思い出は、祖父の記憶の中で、ひときわ強い輝きを放っているのかもしれない。



「貴志──ひとつ頼みがある……聞いてくれるか?」



 祖父が改まった口調で、チェロを見つめる貴志に問いかけた。



「正幸の『形見』の……お前のチェロで──『あの曲』を弾いて欲しい」



 床に座り込み、愛器の表板に触れていた貴志がゆっくりと振り返り、祖父を見上げた。



「あの曲……?」



 祖父は静かに頷くと楽譜の立ち並ぶ本棚に移動し、そこから一冊の古いスケッチブックを取り出した。



「これだ──」



 祖父が開いたページを、貴志はじっと眺めている。

 わたしの位置からは、薄い茶色に変色した用紙が見えるのみ。



「これは──『ユーモレスク』?」



 貴志の呟きに、両親と祖母が反応して、そのスケッチブックを覗き込む。


 その動きにあわせて、わたしも貴志の手元を注視した。



 ──古い、手書きの楽譜だ。



 祖父が貴志に手渡したスケッチブックには、ピアノ伴奏の譜面が貼り付けられていた。



「これはな、父がアレンジした楽譜──子供が簡単に弾けるようにと……儂の為に作ってくれた伴奏譜なんだ。よく見ると、通常のものよりも音符が少ないだろう?」



 祖父がそう言いながら、同じページに折り込まれていた二枚の用紙を取り出す。

 広げたそれは、一方はバイオリンの、他方はチェロ用のパート譜だった。



 祖父は、今度はその譜面を貴志に手渡し、貴志はその二枚を見比べる。



「これは……弦は二重奏用に、アレンジされているのか……」



 貴志は独り()ち、楽譜を読み込んでいく。



 祖父は、貴志が譜読みに入る姿を認めると、こちらを向いて、母の名を呼んだ。



「美沙子──」


 簡素化されたピアノ用の楽譜に目を通していた母は、驚いたようで肩をビクリと震わせた。



「──貴志と一緒にこの曲を弾けるか? この曲は母が……お前の祖母が弾いていたものだ。時々、多貴子さんも一緒になってバイオリンを奏でていたから、記憶に残っているだろう?」



 祖父の言葉に母は(うつむ)き、感情を隠した声音で返答する。



「ごめんなさい……わたしには弾けないわ。バイオリンを辞めてから、もう十年以上経つのよ──もう二度と……弾くことはないと、あの時決めたのだから……」



 後半の呟きは独白めいた、とても小さなものだった。

 その言葉を拾ったのは、わたしだけだったのだろうか──誰も何も問わない。


 貴志も母の言葉には反応せず、バイオリンのパート譜に集中している。


 わたしは母の様子が気になり、彼女の表情をうかがっていたけれど、貴志の声によって現実に引き戻されることとなった。

 彼が、唐突に、わたしの名を呼んだのだ。



 母から彼に視線を移したわたしの目の前に、貴志が今まで譜読みをしていた楽譜が差し出される。



「お前なら──弾けるだろう?」



 『ユーモレスク』──難易度も、高くない曲だ。

 間違いなく弾けるだろう。


 念の為、わたしは受け取った譜面に目を通す。


 子供の頃に弾いた楽譜と、大差はない。


 バイオリンとチェロが会話をするかのようなアレンジが加えられているが、楽譜さえあれば今すぐにでも弾ける。



「これなら大丈夫。弾けるよ」



 わたしの言葉は彼の想定内だったようで、その回答を受けた貴志が小さく呟いた。



「……問題は、ピアノか。父さんは……?」


 貴志の問いに、祖父は黙して(かぶり)を振る。


「儂の指は、もう動かない。ピアノに触れなくなってから、気づけば……四半世紀だ」


 祖父は「ピアノ伴奏は、なくても問題ない」と口にする。



 けれど、祖父が望んだのは、昔日の調べ。



 ピアノがなければ、思い出の曲の完全なる再現はできない──そう思ったところ、突然、室内に声が響いた。



「僕で良ければ、弾きますよ?」



 ──それは、兄の声。



 いつから、そこにいたのだろう。



 兄は音楽ルームの開け放たれた扉に寄りかかり、こちらを静かに見つめていた。









読んでいただきありがとうございます!

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