【真珠】まさかのデュオ!
「警戒しないで、僕は誰よりも君の味方のつもりだよ。いつか……君が僕を認めてくれた時でいい。僕を本当の意味で、君の『兄』と認めてほしいんだ。真珠……いや……『伊佐子』さん?」
…
先ほどの兄の言葉が彼の声を伴って、耳の奥で何度も何度も再生される。
あの後、わたしが何も答えないことを承知していたのか、兄はにっこり笑うと「そろそろ戻ろうか?」と、この手を取り、居間に戻ってきたのだ。
彼はあの話以降、その話題を全く口に出さず、いつもの兄に戻っていた。
そして、今。わたしは、木嶋さんが準備してくれたチーズケーキを食べている。
差し出されるフォークの上に載るケーキに口を開けると、それが自動で口の中に運ばれ、閉じるとフォークだけが口内から抜かれる。
それを繰り返しながら、心ここにあらずの状態で、自然と兄を目で追ってしまう。
貴志も餌付けの最中、わたしに何があったのだろうと気がかりのようだ。
…
居間に戻り、わたしの様子がおかしいことに気づいたのは、貴志と晴夏、それから翔平だった。
「真珠、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」と、貴志。
「シィ、疲れているなら休んだ方がいい」と、晴夏。
「どうした? チビ? 『お兄さま』と仲直りできなかったのか?」と、翔平。
心配する彼等になんと答えてよいのか分からずにいると、兄がわたしの手を貴志に預けた。
「みんな、ごめんね。僕が驚かせてしまったからなんだ。体調が悪いわけじゃないから──貴志さん、お手数ですがお願いします。多分、今……真珠が一番安心できるのは、あなたの傍だと思うから」
少し寂しげな様子で、兄はわたしに微笑んだ。
貴志がわたしを抱き上げ、ダイニングテーブルの子供用チェアーに座らせてくれた。
「ケーキでも食べれば、またすぐに元気になるだろう」
貴志は建前上なのか、みんなに向かってにこやかに伝え、木嶋さんにわたしのケーキを準備してもらう。
運び上げられた際、耳元で「あとで話を聞くから、今は耐えろ」と囁かれたので、わたしの身に何らかの異常事態が起きたことは察知してくれたようだ。
周囲に心配をかけるわけにはいかないと、気持ちをシャキッとさせ、とりあえずケーキを食べることにしたのはいいが、やはり兄が気になり目で追ってしまうのだ。
ソファの前では、翔平と飛鳥がミャンマーでの出来事を教えてくれた。
彼らが「野犬が街中を闊歩しているので避けて歩いた」と語ると、兄と晴夏が興味を示し、四人で話に花を咲かせている。
「チビは、今年の夏も『大きい水溜りの近く』の『お祖母さまのおうち』に行っていたのか?」
貴志に餌付けをされている時に、翔平から質問を受けた。
大きい水溜り──中禅寺湖のことだ。
わたしは口にケーキが入っていたので、首を縦に振るに留めた。
その様子を認めた兄と晴夏が、星川リゾートで起きたことを説明しはじめる。
そこでわたしが晴夏と一緒に演奏したと聞いた飛鳥が「みんなの演奏を聴いてみたい」と興味津々だ。
「お! なんだ、侍娘。お前、音楽に興味があるのか?」
涼葉を寝かしつけた紅子が居間に戻ってきて早々、飛鳥の科白を拾って、楽しげに笑った。
飛鳥は少し恐縮しながら、紅子に返答する。
「部活動が忙しくて辞めちゃったんですけど、中一までピアノを習っていたんです。お友達の発表会とかに行くと、やっぱり続けておけばよかったなと思うけど……後悔先に立たず──ってやつですね」
飛鳥の言葉に、翔平が驚いた顔をする。
「飛鳥、そうなのか? 俺は飛鳥と一緒にピアノをやめて、剣道に集中できてよかったと思ってたんだぜ」
きょとんとした表情で、翔平が姉である彼女を見つめている。
なにも音楽に限ったことではないが、人には向き不向きがある──伊佐子時代、わたしの周りでも親に言われて惰性で習っている友人もかなりいた。
課外活動は大学進学の際に有利だという理由でユース・オーケストラに通ってくる仲間もいたが、熱意は技術にも表れる。
なかなかプロモーションできずに、数年同じオケグループにとどまり、辞めていく仲間を見送ったのも一人や二人ではなかった。
「貴志さんは、剣道をやめて──後悔したことってありますか? かなり強かったのにって、お祖父ちゃんがよく惜しんでいたんですよ?」
飛鳥は、中学時代に道場をやめた貴志に質問をする。
「俺は……そうだな、途中で辞めてしまったが、今はまた留学先で稽古に参加はしているんだ。あくまで身体を動かすため、だけどな」
貴志の言葉に飛鳥が目を大きく開いた。
「再開していたんですか!? ああ……そっか……また、始めればいいだけのことなんだ──趣味として……」
飛鳥は「目から鱗が落ちた気分だ」と言い、腕組みをして自分一人で納得している。
そんな飛鳥を横目に、紅子が思い出したように貴志に声をかけた。
「貴志、お前──昨日、わたしが送った譜面をさらってきたか? まさかとは思うが、チェロは持ってきているだろうな?」
紅子の問いに、貴志が頷く。
「ああ──父さんからも持ってくるよう言われていたからな。部屋に運んである。今朝、譜読みもして何度か弾いたから、いつでも合わせられる。珍しいな──お前が、一緒に弾きたいとわざわざ連絡してくるなんて」
「そうか? ヘルティの詩を思い出した途端、お前と真珠が思い浮かんで、突然弾きたくなったんだ。観客もいることだし──ちょっと付き合え」
どうやら今朝、わたしが寝坊している間に、貴志はチェロの練習を既に済ませていたらしい。
気づいていたら見学したのに、大変惜しいことをしたと残念に思ったが、これから彼等が演奏するのなら、そこでじっくり楽しめばいい、と気を取り直す。
飛鳥が「うわぁ!」と歓声をあげ、翔平も紅子が有名なピアニストだと知っていたようで「すっげぇ!」と拳を握っている。
「そこな武士っ子、ハルを今夜誘ってくれた礼代わりだ。紅子さまの演奏を聴かせてやるぞ──『チェロ王子』と一緒にな」
紅子がニヤリと笑うと、飛鳥が息を呑み、何故か慌てた。
「え? ちょっと待って! 『チェロ王子』……最近、そのワードをよく目にするというか、耳にもするというか……噂話にはあんまり興味がなかったからスルーしてたけど、それってまさか──」
飛鳥がおそるおそる、貴志に視線を移した。
「そうだ。貴志のことだ──が、あの世間を騒がせている噂は真っ赤な嘘っぱちだ。なぜならば! 貴志如き青二才を、このわたしが相手にするわけがないのだよ」
ふはははははっ──と笑った紅子は、両手を腰に当て「どうだ参ったか!」という態度で胸を張った。
すっかり忘れていたが、『チェロ王子──柊紅子愛人説』のことを飛鳥は言っていたのか。
そんな噂があったことなど、完全に失念していた。
だが、まさか、飛鳥が周知するほど巷間に浸透していたことを知り、眩暈を覚える。
「さて、ものども。音楽ルームに、いざ参らん!──穂高、ピアノの調律はしてあるだろうな?」
「ええ、コンクール前に調律していただきました」
兄はそう告げると立ち上がり、紅子のあとに続いた。
紅子は、勝手知ったる他人の家ということで、グランドピアノや楽器、オーディオ機器等の置かれた部屋に向かってグングン進んでいく。
わたしを抱き上げ、子供たちを引き連れた貴志もその後に続いた。
「ちょっと色々と話が見えないんだけど、結局……何を弾くの?」
訊ねると、貴志が辟易した表情を見せてから、ゲッソリとした声で呟く。
「『愛の歌』──だ。ブラームスの」
一曲、演奏入れます。
宜しくお願いします。







