【真珠】疚しさの行方 後編
「例えば……理香との間に……あったこと」
その言葉に、わたしは呼吸を止めた。
貴志と理香は、一度とは言え情を交わし合った仲だ。
それは知っているし、自分が貴志を好ましく思っていたことに気づかず、その話を耳にしてから何故か落ち着かなくてモヤモヤした覚えがある。
でも──
「今は何もないでしょう? わたしは理香のことが好きだし、彼女がわたしの嫌がることをするとは思えない。だから、そこは知らなくてもいい。すべてを知りたいと思って暴こうとするのは……少し違う……なんだか、傲慢な気がする」
貴志は何も言わずに、わたしの話を聞いている。
「貴志がわたしのことを大切に想ってくれるのを今は理解しているよ。だから、それだけで充分──少なくとも、今のわたしにとって、二人の過去は必要ないよ」
理香は貴志のことを『恩人』だと言っていた。
それだけ知っていれば、いい。
それ以上は、わたしが土足で踏み入ってはいけない──二人が向き合っていた過去の出来事だ。
わたしが俯きながらも言い終えると、沈黙が訪れる。
貴志がどう感じたのか分からず、不安に思っていたところ──
「え……っ きゃっ うわっ! なに!?」
──彼は突然、わたしを抱き上げた。
「真珠、俺も同じだ。エルのことは信用しているし、お前の心も昨夜はっきりと理解できた。それ以上のことを求めすぎると、いつか破綻する──だから、無理に問うつもりはない」
わたしは顔を隠すように、貴志の首に腕をまわした。
まだ、罪悪感から彼の目を見ることができないのだ。
その様子を知りながらも、彼は頭を何度も撫でてくれる。
「でも……理香のことは過去だけど、エルと会ったのは夢の中とは言え、ついさっきだよ?」
顔を見ることができない。だから、彼が実際にどんな感情を持っているのか、まったく分からない。
けれど、何故か微笑ましい物を見た時のような笑い声が貴志から届いたような気がした。
「エルは『真珠を諦められない』と電話でハッキリと宣言したよ──やっと本心を隠すことなく話してくれたんだ。それに加えて、一番嬉しかったのは、お前が多少なりとも俺に対して『疚しい』と思えるようになっていたことだ。正直に言うと、その心の成長に驚いている」
わたしはバッと顔を上げ、貴志の目を見つめた。
あまりの言われようだったけれど、確かに今までであれば、貴志の知らぬところで起きたこと──しかも実体を伴わない夢の中での出来事で片付け、ここまで後ろめたい気持ちにはならなかったかもしれない。
この心は、人を愛することを知って、少しだけ成長できているのだろうか。
わたしが何も言わずに貴志の顔を見つめていると、彼は全てを包み込むような微笑みを見せた。
「だから……真珠、俺から目を逸らさないでくれ──この目を見て……笑ってほしい」
突然、至近距離で見せられたこの笑顔は、反則だ。
心を奪われ、目を離すことができない。
胸がドキドキする。
わたしはやはり、彼のことがとても大切で──わたしも、その笑顔をいつまでも見つめていたいと思っているのだ。
「そんな笑顔で言われたら、目を逸らせないよ」
照れ隠しのため、少し拗ねたような口調で返すと、彼はわたしの耳元でそっと囁く。
「だとしたら……ずっと、見つめていればいい」
耳奥に届いたその声で、一度は鎮火した筈の炎が再び身体の芯に生まれそうになる。
焦ったわたしは耳を塞ぎ、彼から離れるように身を起こした。
その面を見つめると、貴志の表情が見る見るうちに艶やかさを纏う。
この笑顔は危険だ。
わたしの心を翻弄する色気ダダ漏れの表情に、今度は別の意味で直視できなくなりそうでドギマギする。
「わたし、少しは成長できているっていうことなのかな? その……恋愛に……おいて?」
この慌てぶりを悟らせまいと、わたしは彼に質問を繰り出す。
けれど、貴志は悪戯な表情を見せると、はぐらかすように答えるのだ。
「さあ、どうだろうな?」
──と。
「成長したと言ったり、そうやってあしらったり……貴志はズルい」
抱きしめられて安心したかと思うと、突然手を離される。
わたしの心は、いいように弄ばれている気分だ。
でも、それさえも、愛しいと思ってしまうのは、両親の恋愛脳を受け継いでいるが故のことなのか。
駄目な男に引っかかる典型的なパターンのような気もする──が、大丈夫だ。
貴志はそんな人間でないことは、とうの昔に知っている。
貴志の唇に触れたくなり、右手を伸ばした。
けれど、触れるか触れないか、という絶妙なタイミングで兄に声をかけられる。
「真珠? あれ、貴志さんも? 木嶋さんがお昼の準備が整いましたって言っていたよ。冷めないうちに戻って食べよう?」
わたしは慌ててその手を引っ込め、兄を視界に入れた。
王子スマイルの兄が手を差し出し、わたしはその掌を握る。
「真珠、早くおいで?」
貴志に床におろしてもらうと、そのまま兄が手を引き、居間へと向かう。
その途中、美味しそうな匂いが廊下に漂いはじめ、鼻腔をくすぐった。
ダイニングテーブルには、可愛らしく盛り付けされたオムライスとサラダが並んでいる。
木嶋さんの作るオムライスは、卵がフワッと柔らかく、内側はトロッとジューシー。しかも、チキンライスとの相性が抜群なのだ。
視覚と嗅覚に訴えられ、わたしのお腹が空腹だと鳴き始める。
とりあえず、まずは腹ごしらえをしよう。
貴志は「問わない」と言っていたが、わたしは彼に話を聞いてもらいたい。
何を話すのか、どう伝えるのか、そこはまた時間を作って考えよう。
わたしは席につくと気持ちを切り替え、元気に彼の名前を呼ぶ。
「貴志!」
満面の笑顔で、隣の椅子をトントンと叩き、ここに来てほしいとお願いする。
──勿論、目は逸らさない。
口を指さしながら大きく開けると、貴志が笑いながらわたしの隣に座り、スプーンをつかんだ。
餌付け──少し前までは嫌がっていたが、昨夜の話で貴志が幸せな気分になると聞き、この一時帰国の間はできる限り食べさせてもらおうと思ったのだ。
美味しいオムライスを口に運んでもらい、笑顔で咀嚼する。
兄と晴夏は、ソファー前のテーブルに並んだお菓子を口に運び、時々こちらを見ては微笑んでいる。
二人は相変わらず仲良しで、楽しげに話をしているようだ。
オムライスを半分ほど食べ終わったところで──玄関のチャイムが鳴った。
木嶋さんがインターホンで応対する声が居間に響く。
受話器を置いた木嶋さんが、わたしに顔を向けた。
「真珠さん、いらっしゃいましたよ。翔平さんと飛鳥さんです。いま、玄関まで迎えに行って参りますね」
わたしの中の『真珠』が、翔平の訪れを知り──キラリと輝き、飛び跳ねた。







